短編企画「続」
ある夜のおたのしみ
著 : 不明(削除済)
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東に行こうと思った。
自分が飲んだコーヒーカップを洗って棚に片づけたとき、ふと思い立った。かねてより悩んでいたわけではない。食器と食器が触れあう一瞬の音と同じで、それはほとんど思いつきだった。
東といっても、朝日の昇る東ではない。いや、太陽が昇るから東ではあるのだが、一般に方角的にいう東ではなかった。
この際、奏一が向かうという東がどの方角にあるかは突き詰めない。彼はともかく、東に行こうと思ったのだ。
特にこれといった持ち物はなく、奏一は手ぶらで家を出た。雲一つない空は火屋の灯りのような若干の夕方の色を引き出しかけていた。窪みの多い道を歩き、濁って中の様子が見えない池までやってくる。いつもは釣り人が泥鰌か何かを釣りに集まっているが、今は誰もいない。水面に糸が垂れるように固定された釣竿が何本か放置されているのが目に入る。他の連中はもうすでに東に行ったのだと思った。
奏一も遅れまいと、湿った橋の上を渡ろうとした。そのときだった。
普通に歩いていてはありえない、両足の脛がぶつかる感覚。驚いた彼が見たものは、自身の足元に吸いつくように絡まった、細い釣り糸だった。
奏一は池に落ちた。
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洞窟に行こうと思った。
仲間が噂する池の主とやらは一向に現れず、小さな泥鰌ばかりが釣れた。徒歩で数分もしないうちに到着できるその洞窟にも釣りのスポットがある。隆次はそこへ移ろうと考えたのだ。
不意に、やはり洞窟に行こうと思った。釣りのためではない。しかし何か目的があるわけでもない。それでも隆次は、竿が引いたら釣り上げるのとまるで変わらない、当たり前の感覚で立ちあがった。もちろん釣竿は持たずに、だ。
辺りを見ると、他の釣り人も道具を片づけて――あるいは釣り糸もろとも地べたに放って――何も持たずに歩きだしていた。釣り人だけでなく、スケッチをしていた若いグループやピクニックに来ていた子供たちも洞窟を目指しているようだった。
そこにはすでに数え切れないほどの人が集まっていた。人々は無言で、暗い洞窟内を荘厳に流れ落ちる口の広い滝の音だけを聴いていた。彼らはその滝壺付近を囲むようにして佇立、もしくは座り込んでいる。訪れている人種はさまざまで、一人歩きできるようになったばかりと思われる幼児から車椅子に腰を沈めた老人まで、まさに老若男女を問わずといった感じだ。
隆次が洞窟に入って少し経ったところで、水が乾きはじめた。滝の幅がだんだんと狭くなり、水路も上から下から地肌が顕わになる。静かだった人の群れに、ざわめきが広がる。人々が今か今かと待ち焦がれている中で、刹那、光が生まれた。
隆次は――そこにいる誰もが――目の前が真っ白になった。
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りゅうせいのたきに行こうと思った。
そこは単に洞窟と呼ばれたり、若い者には東と呼ばれたりと、さまざまな名前があった。この町に越してきたばかりの露美にはりゅうせいが、流星なのか竜生なのか分からない。東の意味もまるで不明だった。隕石の名所と呼ばれるだけあって町には無数の痘痕が見られるから流星かもしれないし、その洞窟の奥で竜の子を見かけたという話があるから竜生かもしれない。けれども東については、やはり謎のままだった。
露美がそこへ行こうと思ったのは、自身の疑問を解消するためではなかった。強いて言えば、なんとなく。彼女は今まで、大抵をなんとなくの感覚で動いてきた人間だ。今回りゅうせいのたきに行こうと思ったのも、だから彼女自身はいつものなんとなくだと考えていた。
閃光。そして湧きあがる拍手。
露美も例に洩れず、音を立てて手を叩いた。落涙する者もいた。強すぎた光にだんだんと目が慣れていく。今まで灯りのなかった洞窟内が、昼も夜も分からないくらいに明るくなっていた。
東だと思った。太陽が昇る、この地はまさに東である。
乾いて今は水の一滴もない滝の奥から、石像のような生き物が現れた。いや、生き物と形容するのはあまりにおこがましい。うっすらと横に細い眼はなんでも許されそうな穏やかさで、まるで神話の絵の中の太陽のようなその象からは、何もかもが救われるような暖かみさえ感じられる。
露美はここへ来るのは初めてだったが、何度も来ている他の者たち同様、払暁の神を崇め敬った。そう、神である。神が、自分たちの前に、その御影をお顕しになったのだ。
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奏一は寒さに肩を震わせていた。満月が白い。気がついたときには、空はもう夕焼けを完全に追い出したところだった。長い間くたばっていたようで、寒気がする。
足に絡まっていたはずの釣り糸は、今は別のものに絡まっていた。ヒゲである。
どれくらいそうしているのだろうか、奏一を助けたと思われる池の大鯰は、自身のその長いヒゲに纏わりついた糸との格闘に忙しいようだった。奏一が身体を起こしたことにも気づかない様子で、大鯰は器用なのか不器用なのか分からないヒゲを突き出したり引っ込めたりしている。奏一はお返しの意味を込めて、糸をほどいてやった。ついでに、釣り人が置いていったのであろうバケツに捕まえられていた泥鰌たちも、池に放してやった。
魚たちが池の底へ見えなくなるのを眺めていると、奏一はどうして自分がここにいるのかが気になった。どういうわけか東に行こうとして、池に落ちた。寝ぼけているのではない。むしろ冴えているほうだったが、東に行こうとした理由はもちろん、どうして自分たちがその場所を東と呼んでいるのかも思い出せなかった。
東に行く理由が見当たらなかったので奏一は引き返そうとしたが、持ち上げた足は結局、同じ位置に戻された。
赤い光が、東から――洞窟から出てきて近づいてくるのが見えた。それと同じ気配をどこかで知っているような気がして、畏れた奏一は手近な木の陰に隠れた。
赤い光は、眼だった。欠けた月の象をした生き物のおよそ中央部分で鋭く光る、巨大な眼。浮遊するその月は町に向かう。奏一も後から追いかけた。何かが起こるような、そんな予感がした。
音もなく移動していた月は町のひらけたところではたと止まり、天を仰ぐようにその身を傾けた。何かが始まるのだ。奏一は音を立てないように意識しながら唾を飲み込む。
始まったのは、落下。
硬い大地に降り注ぐのは、頭。隕石のようなそれは次々と地面にぶつかり、怒張声に似た轟音と共に砂埃を撒き散らす。砂塵に塗れて、赤眼の月も地面の様子も窺えない。頭はまだまだ降り止まない。あんなものに一発でも当たったらただでは済まない。人がいなくてよかったと思うのと同時に、このために町から人の姿が消えたのだと悟った。
いつも、何の前触れもなく東に行きたくなった。その気持ちに抗ったことは一度もなく、何故か周りの人間も同じ時間に集まっていた。そして気がつくと何かが抜けたように気持ちがよくなって、徐々に帰っていく。何があったのかは分からないまま、しかし気分がいいので特に思い出そうとはしなかった。そういうときに限って、町には若干の違和感と、土のにおいがあった。
奏一にも思い出せない東の何かが、町の人間を誘導して避難させたのではないか。そして事が済むと何事も無かったかのように人々の記憶から立ち去り、いつも通りの日常へと強制的に戻されていたのではないか。
奏一は自分の意識がはっきりしている内に、東の正体を暴いてやろうと思った。しかしすぐに、その考えをどこか遠くへ追いやった。
空高くから激突した頭たちの声が、とても愉快に聴こえたからだ。きっと、本来なら人に知られることのない秘密の遊びなのだろう。ならばむやみに瞭かにするべきではない。
少し物騒な音と笑い声を耳にしながら、奏一はその場で眠ってしまった。彼が後日熱で寝込んだのは言うまでもない。
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涙を流していたらしい隆次は、悩んでいたわけでもないのに肩の荷が下りた感じがした。鼻梁を通って口にまで流れていた涙を拭ったとき、この上ない至福感があった。ああ、気持ちがよかった。そう思って、何がよかったのだろうと一瞬だけ戸惑う。
光のない洞窟の中にいたはずなのに、たった今暗いところに来たような感じがする。目が暗さに慣れていなくて、徐々に慣れていく。もしかしてさっきまで明るかったのか、と記憶にもないことを思う。
そんな隆次の訝りも、すぐにどうでもよくなった。なんたって気分がいいのだ。妙な懐疑を抱く暇もないほど、彼は心地良かった。
大勢の人間がぞろぞろと洞窟を出ていく中に、隆次も混ざった。すっかり夜が更けていることについて口にする者は一人としていなかった。隆次は普段目にしている地面の痘痕がいつもと違った形をしていると思ったが、暗くてよく見えないせいだろうということにした。
昼間に隆次が釣った泥鰌がバケツからいなくなっていたことには多少の疑念を抱いたが、それも魚たちが勝手に跳ねて逃げたのだろうと思い込んだ。
用具を片づける隆次の頭の上を、何かが通った気配がした。それは噂の竜の子のようにも見えたが、すぐに洞窟のほうへ消えてしまった。
今度は釣りをするという明確な目的をもって、洞窟に行こうと思った。
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露美は初めてだった。周囲が幕切れの柝を鳴らしたように緊張から解けていく中でも、彼女だけはしばらく恍惚としたままだった。
胸の前でうっとりと手を合わせていた露美の意識を取り戻させたのは、洞窟内に響く水の音だった。滝壺に流れ落ちる大量の水は大きな音と飛沫を上げている。滝なんてあっただろうかと考えてすぐに、りゅうせいのたきという地名を思い出す。それよりも東という名前のほうが合っている気がして――それになんだか合言葉のようで気分がよくて――だから露美はこの霊妙の地を、これからは東と呼ぶことにした。
だって神様が。
神様が。――神が、なんなのだろう。それと東が、どう関わっているのだろう。そもそも東って何だっけ。
酩酊状態の彼女はすぐに自身の疑問を忘れてしまった。なんとなく、無理に思い出そうとしなくてもいいと思ったのだ。
露美はりゅうせいのたきをぞろぞろと出ていく人々の最後尾を歩いていた。何もないはずの洞窟から出るのが何故か惜しくて、わざとゆっくり歩いてみたり、何度も振り返ってみたりする。まるで内容を思い出せない心地良い夢の続きを思い浮かべるかのように、陶酔した彼女はしっかりとした思考を持たないまま、ふらりふらりと夜空の下へ顔を出した。
見上げた彼女の酔眸に、無数の光が散らばった。月も星も、潤んだ瞳のせいかいつもより綺麗に見えた。
そこに、幾筋もの流れ星が現れる。
それは普通の人からするとどう見ても流れ星とは言い難いものだったが、露美は流れ星だと信じて疑わなかった。宙の、随分と低い位置をゆったりと滑る小さなそれらは、なんとなく、楽しそうだと露美は思った。幼い子供みたいな、どこかで散々遊びまわった後の、疲れながらも笑顔でいる感じ。流れ星も今日は何かいいことがあったのかな。
次に彼女たちが東に集うのはおよそひと月後。
流れ星たちは次の満月の日を、りゅうせいのたきの奥で楽しみにしていた。
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スレ立てを任されました、坑です。
企画主の森羅さんから今回のお話を聞いていたので、スレ立てと同時に投稿させていただきました。
短編企画は大好きなものアピールの場! ということでホウエン地方の名所、りゅうせいのたきです。メンバー勢揃い、と思ったら吸血鬼兄弟が……知らない、知らない。
初めてあの金ぴかの空間に入ったとき、初めてあの太陽と出逢ったとき、なんともいえない感動がぐおぉぉぉでした。
結局何の話だったの、と聞かれると困ってしまいますが、きっと人間の知らないところで戯れるポケモンたちの話だと思います。隕石たちと竜の子たちが共謀して危ない遊びに興じている……ぐおぉぉぉ!
この企画でどんな東のお話が集まるのか、楽しみです!
ありがとうございました!
2013.2.25 23:12:21 公開
■ コメント (4)
※ 色の付いたコメントは、作者自身によるものです。
13.2.26 23:00 - 不明(削除済) (jigux2) |
だるまさんこんばんは。 この話の1番目、いやこの企画全体の1番目のコメントですね! この話では神やら崇め敬うやら、そういったちょっと次元の違う胡散臭い雰囲気をチラつかせたかったので、こんな文章になりました。というよりなっちゃいました。 魅力的とか美しいとか言われると嬉しいです、ありがとうございますー これ以降のお話も楽しんでいってくださいね! 13.2.26 22:56 - 不明(削除済) (jigux2) |
初めまして。穂風です 自分もいくつか短編は書いたことがありますが、こんな書き方もあるんだ、と思いました。 3つの違うストーリーが一つに収束していき、また3つに分かれていく。綺麗な話だったと思います。 最初「東」なのに東じゃないってどういうことだ? と思ったのにも、ちゃんと理由があって、なるほどと思いました。 面白そうな企画なので、話が浮かんだら参加してみようかと思います。 それでは失礼しました 13.2.26 21:47 - 不明(削除済) (vulstale) |
こんにちは!だるまです 最後まで読ませていただきました うーむ…これは考えさせられますね 魅力的で美しい、そのような表現をうまく文にまとめた小説だと思います 明確な感想は述べられませんが、美しい気持ちになれるような小説でした! 13.2.26 16:47 - 不明(削除済) (568568) |
この話を書き始めて、調子にのってすらすら進めていくうちに気がついたら登場人物が池に落ちていまして。
これはいけないと思いつつ池に落としたままにしておこうなんて気が起きてしまったものですから、こんな書き方になってしまいました。
短い話なのにこんな形で大丈夫かと心配でしたが、綺麗な話と言っていただけてよかったです。
この企画、本当に面白いと思います。
東といってもいろいろありますから、穂風湊さんもぜひぜひ!