ポケモンノベル

ポケモンノベル >> 小説を読む

dummy

我楽多たちの物語

著編者 : 森羅

狂い咲き

著 : 森羅

ご覧になるには、最新版の「Adobe Flash Player」が必要です。 また、JavaScriptを有効にしてください。

 ひらり、ひらり夢の跡。

 紅葉の錦は枯葉に変わり、ただただ空に舞い落ちる。
 葉の衣を全て失った寒そうな木々にそれでも北風は容赦をしない。背景の空は透けるような蒼。白に近くて、でも青色の空を見上げるわたしはきっと悲しい顔をしていたのだろう。
 わたしの心と真逆に美しい空を見上げてわたしは思った。

 これから雪が降るのかしら?
 雪が降り出したら、全てが白く埋まり、染まるのかしら?
 わたしのからっぽの心に雪が白く積もったならば、

 ―――わたしの虚しい心も少しは埋まってくれるのかしら?


 たわいなく、下らない言葉と共にそれでもわたしは家路に向かう。4本の足で、枯葉を踏みしめながら。ぽっかりと虚(うろ)になってしまった心と共に。800メートルも歩いただろうか、小さな廃屋がはげたペンキをさらしていた。ぎぃ、という錆びた音。開いたドアにわたしはその身を滑り込ませた。

 真っ黒な家の中、すえた臭いに埃が積もっていて、それはまるでわたしの心のよう。椅子も机も静寂を守るだけ。使われる事がないのを知らないまま、主の帰りを待っている。使われるのを、待っている。かすかに残る花の匂いが1年前の記憶をその場に留めていた。
 わたしはいつものように、いつも通りに部屋の隅に蹲っている彼に声をかける。

「ただいま」

 彼は何も答えない。ただ眠っているように蹲っている。
 それでもわたしは言葉を続けた。
 下らない自己満足や自己暗示であるのはわかりきっているのに。
 言い聞かせるように、それが魔法の呪文であるかのように。

「ねぇ、やっぱりハルは来ないのよ。これからフユになるのだもの。もう、待つのはやめましょう?サクラはもう死んでるじゃないの」

 やはり彼は言葉を発しない。そう、永遠に。それもわたしは知っているのに。
 セピア色の綺麗な体を丸めて、彼はただただ永久に眠っている。ガリガリのやせっぽっちに成り果てて。

 それでもただ、ハルの訪れを待っている。
 死んでからさえ、待っている。

 わたしは墓守。ただそれだけよ。
 もう、それだけしか残ってないの。
 ふと窓の外を見上げると、巨大なサクラの木が枝を広げていた。

  ♪

 はらり、はらりと枯葉が踊る。

 きっともうすぐ雪が降ってくるのだろう。
 磨り減った靴は底が薄くなって地面の冷たさがじかに足を冷やした。
 真っ青な、こんな綺麗なものは他にないって位の空を見上げて私は思う。
―――ごめんなさい、と。

 それでも、私は探しているの。
 償うために尋ねているの。
 罰してもらうために、ただそれだけのために、私の命は今あるの。

 白い息を吐き出しながら枯葉を踏みしめ私はただ、面影を捜す。

 雪がもしも降ってきたら、その雪は私の心にも降ってくれる?
 どうかどうか、とただ願う。

 ―――後悔だらけの私の心をほんの少しだけ汲んで欲しい。

 あの時、どうして私は臆病だったのだろう。どうして私はあの時、あの子達を救いに行けなかったのだろう。後悔だけが心を埋める。あの時の時間に戻れたら、と都合の良い考えがいつも胸を締め付ける。
 あの子達は山犬(ポチエナ)だった。小さな小さなセピアの毛皮と、小さな小さな灰色の毛皮。一匹は俗に言う色違いで、一匹は普通の色で。色違いの彼は人懐っこくて、普通の色の彼女はツンとすましていた。彼は桜が好きなようで、彼女は林檎を良くかじっていた。
 私のポケモン、というわけではなかった。
 ただ、仲良くなっただけ。山に入った私が偶然出会ったというだけ。
 それでも私は彼と彼女が大好きだった。

 そう、思っていた。

  ♪

 窓の外からどこまでも沈んだ焦げ茶の樹皮をさらすサクラを見上げる。彼の横にそっと寄り添って。目から液体が零れても不器用に口の端を吊り上げてわたしは呟く。ほら、あったかいよ、と。……それが、彼の口癖だったから。

 わたしたちは山犬(ポチエナ)だった。
山には他にもたくさんのポケモンがいて、幼いわたしたちは爪弾きにされていた。あるハルの日に、わたしたちは出会っただけ。ただの幼い人間に。ただの偶然なのに、なぜか彼はその人間が気に入って毎日のように花畑に遊びに来る人間と毎日のように花畑で遊んでいた。なぜかわたしも一緒にぎゅと抱き締められて、その度にそわそわと心が揺れた。彼があまりに嬉しそうにその人間に擦り寄るから、わたしはいつもつい、とそっぽを向いていたの。そわそわと心が揺れて、それでも不思議と心地よくて。でも、それを伝える術をわたしも彼も持ってはいなくて。
 ハル風みたいなその声にぬくもりだけを感じていた。

 ハルが過ぎて、ナツが来て、アキが巡った頃、その人間はこう言った。
 一緒に来て欲しい、と。
 ずっと傍にいて欲しい、と。
 一緒に世界を見に行こう、と。
 彼はいままで見た事がないくらい嬉しそうな顔をしていた。
 その目にその人間と青空を映して。
 わたしはそうなるならそれは必然だろうとただそう思った程度。
 明日迎えに来るからねと笑って手を振る人間に彼はわぅんと一声吼えていた。
 アキの北風は決してわたしたちに優しくはなく、その日の空は夜には鈍く曇っていた。
 嵐が来ると、そうわたしたちはわかっていた。

  ♪

 あの晩、私が彼と彼女に『告白』した夜。
 分厚い雲が空を覆って、嵐になるとラジオは吐き出し続けていた。やっと両親にあの子達を連れてきてもいいよ、と言ってもらってその時私の心は躍っていた。それはもう、ラジオの音なんて聞こえないくらいに。
 あんな事になるなんて、思ってもいなかった。

 嵐はあまりに激しくて、私は次の日、山に行く事ができなかった。
 その次の日もまだ雨がガラス窓を叩きつけていてとても外になんか出られなかった。そのまた次の日、やっと久しぶりのお日様を拝んで青空を見上げ、……愕然とした。
 山の入り口が土砂で埋まってしまっているのだと、そう近所の大人達が話していたのをどこか遠くで聞いた気がする。いつも通った山への道は完全に砂と土とで埋まっていて、木々はなぎ倒されて山の地形はすっかりと変わってしまっていた。立ち入り禁止の黄色いテープがやけにはっきり目を焼いた。大人達は土砂を取り除く事に必死で、『野生』のポケモンなんか構っていられなかった。何度も何度も黄色いテープを越えようとしてその度に大人達から叱られる、その繰り返し。

 私には今はどうにもできないのだと、ただそう『言い訳』をつぶやいていた。
 それが全てを赦してもらえる魔法の呪文であるかのように。

 雪が降って、土砂さえ白く染まる冬。
 土砂の大部分を取り除かれた山には土砂の代わりにショベルカーとダンプカーが入り、土を削ってコンクリートを撒いていった。人間の安全のために、それだけのために多くの野生のポケモンたちは居場所を失ってしまった。春、やっと道の整備が終わり、私は『山だったもの』の中に駆け込んだ。もうどこがどこだかわからなくて、わずかに残った森の中をただがむしゃらに走り続けた。山の小屋。そこにあの子達はいるはずなのに。
 遊んだ花畑は消えてなくなり、木登りをした大樹は根元から折れ、風が遊ぶブナの林はコンクリートの芝生に変わっていた。
 春が過ぎ、夏が来て、秋が巡って。探しても探しても見つからない。
 両親からはあきらめなさいとそう言われた。それでもあきらめ切れなくて、泣きながら木々の間を声が嗄れるほどに叫んだ。
 あの子達は待っていてくれるはずだから、と。
 待っていて欲しいとそう自分勝手な願いをこめて。

  ♪

 どうして、どうしてなの?
 どうしてわたしが生きながらえているの?
 どうしてあの人間は来てくれなかったの?
 彼はずっと待っていたのに!ずっとずっと待っていたのに!

 答えは出ない。彼も答えてはくれない。
 あの人間を最後に裏切ったのはわたしなのに!

 山が土砂で半壊したと、それはわたしたちも知っていた。
 山の道が壊れたから、あの人間が来るのが無理だとわかっていた。
 しょうがないねぇ、。と彼は笑って空を見上げて一声吠えた。

 待っているよ、とそう言っているようだった。

 わたしたちはただ待っていた。
 あの人間が迎えに来てくれる事を。あの人間が教えてくれたこの小屋で。
 寒いとわたしが言ったら、ほら、あったかいよ、って彼は寄り添ってきてくれた。
 彼はいつも笑顔だった。あの人間が来るのを最後の最後まで信じていた。

 信じて、そのまま逝ってしまった。

 フユの気候は決してわたしたちに優しくはなく、冷たい風は小屋の隙間から容赦なくわたしたちを打ち据えた。食料も全然足りなくて、わたしがフユを越せたのはほとんど彼のおかげだっただろう。彼は全てをわたしにくれたから。わずかな食料も、ぬくもりも。
 生きてね、という言葉さえ。
 日々がりがりにやせ細っていく彼はそれでも笑顔を絶やさなかった。もうあの人間はこないに決まっていると、そう呪詛のように繰り返すわたしを困ったように眺めて笑っていた。

「リンゴ、またそんな事言ってるー。来るよ。だって季節は巡るから。フユの次はハルだから」

 来ないに決まっていると言い続けるわたしにいつも彼はそう言った。死ぬときさえ。

「リンゴ。生きてね。ぼくの代わりにハルを待っていて。ずっと一緒にいるから。ハルが来たらサクラが咲くからすぐに分かる。ハルを待っていて、ハルは絶対に来るから。だからぼくの分も生きて。……約束だよ?生きて、世界を見に行こう。3人で見に行こう」

 それが彼の遺言。
 きらきらした目に青空を映して、彼はものを言わなくなった。

 わたしはあの人間が来ると信じることをとっくにやめてしまっていたのに。

 その時の彼の表情にわたしは自分自身に失望した。
 どうしてわたしだけが生きながらえているのか、わからなくなってきて。
 そして、そのうちわたしにはわかった。
 彼の遺言の意味が。

 サクラの咲かない本当のハルじゃないハルが過ぎた頃、わたしの体毛はすっかり変わってしまっていた。彼と同じセピアに。まるで彼がわたしを責めているようで、わたしはごめんなさいと繰り返した。

 信じなくてごめんなさい。
 生きていてごめんなさい。
 ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい――――!

 背負った十字架があまりにも重たくて、わたしはただ義務のようにハルを待つだけ。

  ♪

「サクラぁ……リンゴぉ……」

 桜と林檎が好きみたいだったから。
 ただそれだけの理由。
 男の子にサクラはないだろうとそう笑って、食べ物の名前ってどうなのとそう笑った。笑ってしまいそうな位簡単で、涙が出そうな位その言葉が愛おしい。その言葉は一番幸せだった頃の象徴。ぽろぽろ涙が零れるから視界がぼやけていく。

「わぅん!」

 声が、聞こえた気がした。

「サクラ!?」

 わん、とちゃんと言えないサクラはいつもわぅんと吠えていた。記憶の彼方、わぅんと吠えて彼は冷たい鼻先を私に押し付けてきていた。がさがさがさ、と木の葉が盛大にかき回される音がする。それは何かが走って駆けていく音。

「サクラ、待って―――」

 わぅんという声と木の葉を散らす音は聞こえるのに、サクラのセピアの体は一向に見えない。おかしいと思いつつも、サクラを追いかける。山道なのにスピードを緩めることなく駆けていく音を私は必死で追いかけた。見失ったらもう二度と見つけられないと、理由もない焦燥感が心を占める。
 追いかけて、追いかけて、追いかけて。限界が来た頃、音がぴたりと止んだ。

「サ、クラ……?」

 目の前にセピア色のポチエナはいない。
 目の前にあるのは、桜の木が横に生えた古ぼけた小屋。あの子達がいるはずの―――!
 恐る恐る扉を開けた。

 開けて、見つけてしまった。

  ♪

 ふらふらとした足取りで、とにかく小屋に帰ろうとそう思った。食料を探しては見たけれど、どこにもなかった。フユに入りかけた『山だったもの』にはもう食料はほとんどなくて、他のポケモンたちの大部分は別の場所へと移っていった。
 だから、きっと。

 わたしももうすぐ終わるだろう。
 今のままでフユを越す事はできない。それにわたしにそのつもりも、もうない。

 わたしは、頑張ったわよね?ねぇ、サクラ?
 だから、もういいでしょう?
 終わったらわたしも少しは許されるのかしら?
 彼はわたしを許してくれるのかしら?
 あの人間は、信じることをやめたわたしを許すのかしら?

 こんなに薄汚れたわたしにも雪は降り積もってくれるのかしら?
 わたしはもう、ハル風を求めないから。

 顔を上げるとほんの少しだけ小屋を空けていただけなのに、小屋の戸が開いていた。その様子にわたしはぎょっとして小屋へ駆け込む。サクラだけは守らなくては。それは薄汚れたわたしの、墓守たるわたしの、義務。骨格の浮き出た横腹がきりきりと悲鳴を上げる。必死に走っていたからだろう。わたしは、

 サクラの木が、ほんのりつぼみを膨らましていた事にその時わたしは気がつかなかった。

  ♪

「ごめんなさいっ!ごめんなさいごめんなさい―――!」

 何度言っても彼には届かないとわかっているのに。ぼろくずみたいになって、やせっぽっちになって。腐った体からは腐臭がする。そんなサクラを抱きしめた。丁寧に丁寧に、ぼろりと崩れてしまわないように。
 彼は待っていてくれたのに!
 私を信じていてくれていたのに!
 頬を伝う涙が、床をはねた。

「うぅ……」

 威嚇する声が聞こえてドアの方を見ると、

「……え?」

 サクラと同じくらいやせっぽっちのセピアの体をしたポチエナが私を見ていた。

「リンゴ……?」

 彼女は灰色だったとわかっているのに、私はそう言わずにはいられなかった。

  ♪

 どうして今頃現れたの?
 どうしてすぐに来てくれなかったの?
 あなたが来てくれていたら彼は死なずに済んだのに!

「サクラから離れて!あなたにその権利はないわ!」
「リンゴ…・・?」

 呆けたような声。腕には大切そうにサクラが抱かれている。

「リンゴ」

 その人間の手がそっとわたしに伸びたけれど、わたしはその手に思いっきり噛み付いた。

 ぽたぽたっ、と鮮血が飛び散り、リンゴ色の華を咲かせる。刹那、わたしは飛びのいた。自分のやったそのことにまぎれもない恐怖を抱いて。けれど、それでも。ぷっつりと穴が開き、肉が飛び出た手は止まることがない。ためらいがちにそれはそっとわたしの頭を撫でた。

「リンゴ、ごめん。ごめんねぇ……。本当にごめっ……なさ、ぃ」

 ぱたぱたとわたしの上から涙の雨が降ってくる。
 そんな言葉なんて聴きたくない。
 あなたのせいでサクラは死んだの!あなたが来てくれなかったから!あなたが今更現れたから!……いいえ、いいえ、違うの。違うのよ。本当は違うの。本当は。わたしのせいで……わたしのせいでサクラは死んでしまったの。わたしがいなかったら、彼はきっとフユを越せたのに。わたしのせいなの。わたしのせいなのよ。だから、

 だから、あなたは謝らなくても良いの―――――。

「ごめんね、ごめんねぇ……」
「ごめんなさい、ごめんなさい、ハル―――」

 しゃくりあげながらなおも謝り続けるハルと同じようにわたしも謝り続けた。サクラは何も言わない。ただハルの腕に抱かれている。

 わたしのせいなの。
 サクラはずっと待っていたのに。
 ハルが来るのを待っていたのに。
 ハルが来るのを最後までずっと信じていたのに―――!

 わたしなんかが生き残ってしまったの。

 わたしは、ハルが来ないと彼に言い続けたのに。
 ハルは約束を守ってちゃんと来てくれたのに。

  ♪

 サクラ、リンゴ、許して。

 許して欲しいなんていわないから、許してとだけ言わせて。
 本当はその権利すら私にはないけど、それでもせめてそれだけ言わせて。
 セピア色に変わってしまったリンゴを撫でる。リンゴは何も言わずにただ黙ってなされるがままにされていた。

 ごめんなさいなんて言葉は無意味だと知っていた。
 許して欲しいなんて、傲慢だとわかっていた。

 この子達はずっと待っていてくれたのに。
 ずっと信じていてくれていたのに!

 それでも、
 それでもどうか、償うチャンスを私にください。
 永遠に許されなくても良いから、私をただ罰してください。

 セピア色に変わったポチエナに私は2匹分の姿を重ねた。

「お願い。……償わせて。あの時叶わなかった約束をどうか私に叶えさせて」

  ♪

 赦してくれるの?

 呆けた顔でわたしはハルを見上げた。
 わたしはハルを信じなかったのに。
 ハルはわたしを赦してくれるの?
 約束を違(たが)えないとそう言うの?

 赦して良いの?

 わたしはハルに抱かれるサクラを見た。
 こんなわたしを赦して良いの?
 わたしはあなたを殺してしまったのに。
 わたしだけがあなたを置いて行ってしまっても良いの?

「何言ってるの?リンゴ。言ったでしょ?みんなで世界を見に行こうって。ぼくもずっと一緒にいるって言ったでしょ?許すも何もないよ、リンゴは何も悪くない」

 開けたままの扉から風が入ってきてそう囁いたように聞こえた。サクラの陽だまりみたいな笑顔を見た気がした。

「……サクラ。ハルと一緒に行きましょう。……世界を見に行こう」

 わたしはハルに頷く。

 風に吹かれてサクラの花びらがそっと小屋の中に入ってきていた。

  ♪

 赦して良いの?

 私はまっすぐ頷くリンゴを凝視した。
 瞳の中に私映っている。
 こんな私を赦して良いの?
 私は約束一つまともに守れなかったのに。

 赦してくれるの?

 私は腕の中のサクラに目をやる。
 サクラの信用を裏切ったのに?
 サクラを死なせてしまったのに?
 サクラを置いてリンゴを連れて行ってしまっても構わないの?

「わぅん」

 サクラの声を聞いた気がした。
 風の音を、聞き間違えたのかもしれないけれど。
 それでも声の方を見た私は息を呑む。サクラ、と呟いたのは私だろうか?リンゴだろうか?薄汚れて曇った窓ガラスからそれでもわずかに見えるそれは、

 薄桃色の桜の花弁。

 季節は冬に入ろうとしているその時期に、桜の木が狂い咲いている。
 腕にサクラを抱いたまま、私は外へと飛び出した。リンゴも私と一緒に飛び出していた。

  ♪

 サクラ。
 あなたは本当に、最後まで、最後の最後まで律儀に約束を守っているのね。
 ハルが来たらすぐにわかるって、サクラが咲くからわかるって。舞い落ちるのは白にも近い薄い紅色の花びら一枚。ハルはそれを上手に手のひらに載せてサクラに見せる。

「桜だよ。サクラ」

 わたしにとってはハル風そのものだったハルの声。涙が光ってまるで宝石のよう。その声がサクラも大好きだったの。

「ハル」

 わたしは誰かそっくりの声でハルを呼ぶ。
 ハルは目を丸めて、笑顔で屈んでわたしを撫でた。
 サクラ、ほら。ハルが来たわ。あなたが待ち望んでいたハルが来たわ。いつの間にか満開のサクラを見上げてわたしは不器用に笑う。まるで、雪みたいなサクラの花びら。

「サクラ、リンゴ。一緒に行こう。一緒に世界を見に行こう」
「ハル、行きましょう。皆で行こうってサクラはそう言っていたもの」

 サクラの雪がわたしの虚しい心を埋めていく。

  ♪

「わぅん」

 誰かとそっくりな声でリンゴが鳴いた。それは私を呼ぶように。私はしゃがんでリンゴを撫でた。リンゴは魅せられたように桜の木を見つめている。私もサクラを抱いて桜の木を見上げ続けた。

 ねぇ、サクラ。これはサクラの悪戯?
 これがサクラの答えだと、そう私に言ってくれるの?
 私を赦すとそう解釈しても、ほんとに良いの?
 次から次へと咲き乱れる満開の桜に私はただただ笑っていた。
 まるで雪みたいな桜の花弁が空を舞う。

「サクラ、リンゴ。一緒に行こう。一緒に世界を見に行こう」
「わん。わぅん」

 二匹分の答えがリンゴから返ってくる。セピア色したサクラの体毛。それとリンゴの心。
 サクラの遺骸をそっと撫でた。

 優しい優しい桜の雪が後悔だらけの私の心を汲んでくれた。

  ♪

 もう、振り返らないよね?
 もう、大丈夫だよね?
 だってぼくも一緒にいるから。
 寂しさも悲しさも虚しさも全部雪解けみたいに消え去ってハルが巡ってきたんだから。

 だから、世界を見に行こう。

 ハルとリンゴとサクラとみんな一緒に旅立とう。


 サクラの花弁がひらりと青い空を泳いだ。

⇒ 書き表示にする

2012.11.6  23:23:22    公開
2012.11.6  23:35:44    修正


■  コメント (2)

※ 色の付いたコメントは、作者自身によるものです。

コメント有難うございます!千助さん!!
毎度毎度ありがとうございます……本当にありがとうございます……(;ω;)ブワッ
涙と鼻水は大丈夫ですか!?(エルモアを差し出しながら
おおう、そう言ってくだされば光栄でございますっっ!!(涙
読んでくださっている、だと……!!本当にありがとうございますっっっ><光栄ですっ!!

ブラッキーに夜月www僕と同じですね!是非握sy(殴←中二病重症患者

12.11.7  21:24  -  森羅  (tokeisou)

涙と鼻水がやばいです、千助です。(またお前k)
森羅さんマジパネェ…どうやったらこんな涙腺を直接刺激するものを書けるんですかwww
とにもかくにも千助は影ながらいつも読んでます‖ω・)チラッ(ブラッキーによづきという名前をつけてしまった。病気かな)

12.11.7  08:16  -  不明(削除済)  (1031fish)

パスワード:

コメントの投稿

コメントは投稿後もご自分での削除が可能ですが、この設定は変更になる可能性がありますので、予めご了承下さい。

※ 「プレイ!ポケモンポイント!」のユーザーは、必ずログインをしてから投稿して下さい。

名前(HN)を 半角1文字以上16文字以下 で入力して下さい。

パスワードを 半角4文字以上8文字以下の半角英数字 で入力して下さい。

メッセージを 半角1文字以上1000文字以下 で入力して下さい。

作者または管理者が、不適切と判断したコメントは、予告なしに削除されることがあります。

上記の入力に間違いがなければ、確認画面へ移動します。


<< 前へ戻るもくじに戻る 次へ進む >>