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我楽多たちの物語

著編者 : 森羅

欠けゆく月を想うひと

著 : 森羅

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 ……あぁ、インクが零れてしまった。いや、まず何から書けば良いのだろうか。
 それは私にとっては非常に難しい問題だと言わざるを得ない。いかんせん、このようなものを書くことは初めてなのだ。文字を書くことさえ久方ぶりだと言っても良いだろう。現に、私の指が震えているといったらない。文字が震えて読みづらいかもしれないが、どうか勘弁して欲しい。
 あぁ、またインクが。いや、本当に申し訳ない。そのうち慣れてくれば文字も安定するだろう。勿論、電子機器の類がまったく使えないというわけではないのだが、これはできればこの手で書き上げたいのだ。読む方からすればなんと勝手な話だろうと思うやもしれないが、できうる限り丁寧に書くつもりではあるので、年寄りの我儘だと思って許して頂ければありがたい。

 さて、先程このようなことをするのが初めてだ、とは書いたのだが全くもって何を書けば良いのかわからなくなってきた。いや、書くことは決まっている。決まっているのだが、どのように導入に持っていけば良いのか私には皆目見当がつかない。とりあえず、私がこのように慣れない筆を執った理由を述べれば良いのだろうか。この文章さえ試行錯誤しながらという悲惨なものだが、私はここに真実を記す。いや、記さなければならない。それこそが私にできる唯一の罪滅ぼしであり、自己満足であり、また義務なのだ。
 ここに記していくことは時間が風化させるか、世界が隠蔽するのか、はたまたその両方なのかは私の知るところではない。ただ、これは確実に隠され、消されていくものであろう。いやその片鱗はすでに表れている。だからこそ、私はここに記す。記録するために、記すのだ。
 未来、これがどう扱われるのかはわからない。だが、これが少しでも役に立てば良いとは思う。道標などと御大層な言葉を連ねるつもりはさらさらないが、願わくはそうあって欲しい。

 私が……いや、ここではせめてあの時と同じ言葉で。

 僕が幸せであったこと。それは本当なのだから。

   *

「……十六夜(いざよい)」
「あら、何でしょう?だんな様」
「…………もう帰ろう?」

 僕の弱弱しい訴えに、しかし彼女は相変わらずうっすらと笑みを口元に浮かべているだけだった。その笑みは慈愛に満ちているようにもからかって楽しんでいるようにも見える。だけど、とりあえず僕の問いかけに対する結論は分かった。やっぱり駄目なんだね?
 ぐったりと疲れ切った僕の腕をぐいと引く彼女の細い腕に容赦はない。この細く白い腕にどうやったらこんな力が入るのだろう。不思議に思ったことはあるのだけど、それを彼女に聞いてみることを僕はしたことがなかった。ただ、彼女は『ポケモン』であったからきっとそのせいなのだろうと勝手に自己完結していたけれど。口元を緩めた笑みも相変わらず、僕の腕を引く彼女の動きにふわりと香(こう)の香りが漂ってくる。ゆったりと結わえられた黒髪が結紐と踊る。桜や橘が縫いこまれたその古典柄の着物は薄い桃色を地にしていて袴は茄子紺。赤い緒の履物は時折その袴の隙間から見えていた。豪華絢爛、華美ではないにしても訪問着とは言い難い。余所行きの良いもの……なのだろうか。僕は当然のことながら女物の着物に詳しくないので良くわからない。それにここでの基準は地味か派手か、季節感かではなく彼女がその着物を気に入っているか否かなのだ。彼女、十六夜はどうもこの恰好がお気に入りのようで良く着ているのを目にする。アスファルトで舗装された綺麗な道にからりんからりん、と独特の音が響き、街路樹の緑の葉は光を零していた。
 ぐいぐいとそんな“見かけ普通の女の子”に引っ張られながらそれでも僕は最後の抵抗と言わんばかりに歩を進めないように踏ん張る。アスファルトを擦る鈍い音は僕の靴の音。照り返しが辛い。僕としては頑張った方なのだけれど、やっぱり彼女には敵わなかった。だんだん息が荒くなる僕に十六夜の黒い目が勝ち誇ったようににっこりと笑う。

「だんな様、駄目ですよ。ほら、こんなにお天気がいいのに。外に出ないなんてもったいないでしょう?」

 上品かつ可愛らしい笑いと、それに見合った澄んだ声。僕はそれに溜息を吐き出す。
 彼女はとても綺麗だった。過剰表現のようだけれど、本当に美しかった。それ以上の言葉が見つからないくらいに優美だった。見惚れるほどに美しくて、けれどそれは夢のような儚さを持った美しさだった。闇を抱いた美しさだった。だから僕は時々彼女を直視できなかったのを覚えている。あまりにも空虚であまりにも綺麗で。
 それはきっと罪悪感にも似た感情だったのだろう。

「君は目立つんだよ。というより君だけそんな格好をして……」

 僕だってせめていつもの普段着で来たかった、とぼやく僕に十六夜は立ち止まってくすくすと笑う。するりと彼女の腕が僕から離れ、けれど鈴を転がすような笑い声と澄んだその言葉は心地良く耳を撫でて行く。

「あら、駄目ですよ。少しは今の子供の服を着て下さいね。だんな様が老いるには早すぎですよ」
「……落ち着かない……」

 僕は自分の服を見下ろしながら、深いため息をついた。夏の格好に相応しく、ひどくラフなシャツ一枚にベージュ系統のハーフパンツ。こういう服はあまり着慣れないものだから、どうにも落ち着かないし動きづらい。
 蝉がどこかで鳴いている。太陽がその光を惜しげもなく捨てている。はあぁ、と疲れた僕が空を仰ぐと真っ白な入道雲に彩られた青空が木漏れ日の間から見えた。

「……十六夜……」
「帰りませんよ。だんな様」
「…………わかったよ」

 僕の心は彼女に筒抜けらしい。にっこりとした笑顔で、そう言う彼女を見ていると言い返す気力はすべてなくなってしまった。そもそも、こんなに嬉しそうな顔をしているのに無理を言うのは悪いだろう。ふう、と大きく息を吐き出した。どくり、どくりと不吉な音で脈を打つ心臓を少しだけ手で押さえて。彼女に、十六夜に気づかれないように。

「行こうか、十六夜」
「はい、だんな様」

 息を整えてから、弾んだ声を上げてふわりと笑う十六夜の隣に立って歩き始める。
 街路樹はずっと先まで等間隔に植えられていて、そのめいいっぱい広げられた葉の陰が僕らの上に被さった。

  *

 街まで下りてきたのはひどく久方振りのことだった。
 大概の場合僕は家の外に出ない。あまり街にまで下る用事がないし、そもそも僕はあまり体の強い方ではない。あまり永く生きられる体ではない、とそう自分でも知っていた。

「『ポケモン』、多いですね」
「もうあまり人と見分けがつかない、ってことはないんだ……」

 十六夜の一言に僕は周囲の通行人を見渡す。ところどころに見つけられる、尾や人ならざる耳を持った『人のような生き物』。彼らは人の隣で笑っていた。技術的にはもう完全に『人』となっているのかなと思っていたのだけれど、そうでもなかったらしい。僕には意外だったそれは、しかし十六夜にとっては別になんでもない様子。それはそうでしょう、と澄まして答える。僕は不思議に思ってなぜ、と尋ねた。十六夜はすぐに答えをくれる。

「私たちはどこまで行ってもヒトとは異なりますから。そしてヒトもそれを望んでいますから」

 十六夜の一言で、僕はその意味を理解する。彼女の言葉に相槌を打ち、……でも君は、という言葉を飲み込んだ。
 僕らの隣を、金色の目を持った濃紺の髪の『青年』と栗色の髪をした女性が笑い合って話しながら通り過ぎていく。

 『ポケモン』。
 そう呼ばれる生き物は確かにこの世界に存在した。否、今現在でも存在する。ただし、現在その姿を見ることのできるポケモンの、そのほとんどが人間に似た姿をしていた。
 人間という生き物はとことん、自分によく似た姿をしたものを愛でる傾向にあるらしい。それはロボットの研究もしかり、クローン技術もしかり、だ。人に似せようとし、あるいは人に似せることを冒涜だという。そしてその考えはポケモンに対しても同様だったようだ。擬人化、と呼ばれるこのポケモンが初めて世界に生み出されたのはわずか11年ほど前。一体どこの会社だったか、組織だったか当時3つかそこらだった僕は覚えていない。あまり興味もない。ただ、莫大な金と膨大な犠牲によって成り立った研究であること自体は想像に難くない。
 まぁ、その犠牲についての善悪や正義を語るのは脇に置いておいて、重要なのはその研究の成果として擬人化したポケモンは会話をする、ということだった。瞬く間にトップニュースに取り上げられ、社会現象となり、急速などというスピードを超えたどこか神業のような速度で『擬人化ポケモン』は広がっていった。彼らは限りなく人に良く似た、人とは異なる生き物となった。技術的には完全な『人型』も可能であろうが、ヒトはそれもまた生理的に嫌うのだ。似たものを追及する癖に一線を画したがる。それは先ほどの十六夜の言葉の意味にもなるが、ヒトは『ヒトに似たもの』を愛で『ヒトと同一となったヒトならざる者』には恐怖を覚える、ただ、それだけの身勝手な話だ。ちなみにもちろん原型、と呼ばれる元のポケモンの姿が全く見られなくなったということはない。なぜなら『そのままのほうが可愛い』というこれまたなんとも言えない勝手な事情があるからだ。イーブイやピカチュウ、ロコンなどはその筆頭だろう。逆に原型がひどく希少となったのはサーナイトやミミロップと呼ばれるポケモン達。
 『ポケモンと会話することでもっとポケモンをよく知ろう、もっとポケモンと仲良くなろう』綺麗な言葉で塗り固められたキャッチコピーは蟻の行列の中に置かれた甘い砂糖のように幅広い消費者の心をくすぐった。それは研究者であり、ブリーダーであり、トレーナーであり、コーディネーターであった。ポケモンという生き物を一匹でも傍に置く人であれば誰もが抱く願いを『擬人化』は叶えてくれた。
 ポケモンの気持ちを知るための行動。ポケモンともっと身近な存在になりたいという願いのための行動。それらにポケモンの意思が反映されていないというのはどうにも皮肉なものだ。ポケモンがそれを本当に望んでいたのかはわからないというのに。『擬人化』となった彼らが話す言葉に嘘偽りが含まれていない可能性がないなどと誰が言えよう?
 なぜなら、彼女は。

「ところで、だんな様。大注目ですね」
「……主に君がね」

 きゃいきゃいと嬉しそうに目を細める十六夜の隣で現実に戻った僕はぐったりと溜息をつく。あぁ、そんな冷たい目で見ないで頂けますか彼女はポケモンですからえぇこの着物は僕の趣味ではございませんので……お願いだからもう帰らせて。
 真夏の暑さはどこへやら僕は羞恥心で寒気が消えなかった。歩くのを止めてはいけない、と頭のどこかが告げる。うん、歩みを止めた時点で僕は何か大切なものを失いそうだ。

「十六夜……」
「どうされましたか?だんな様」
「せめて、『だんな様』をやめてくれない?」

 縋るような思いで僕は彼女に泣きつく。そう、その呼び方はやめてほしいと再三言ってきたつもりなのに。周囲の通行人からの視線がさらに厳しいものになった気がする。通行人が僕を中心に円形に離れていく。周囲から浴びせられる視線の温度が3度下がる。変質者決定だ。けれど、彼女は花が咲くように笑ったまま。

「あら、どうしてですか。だんな様はだんな様でしょう?」
「……名前くらいあるけど……」

 彼女にはきちんと僕の名前を教えたはずだ。けれど、どういうわけか彼女はその名前では僕を呼んでくれない。やっぱりというか十六夜はにこにこと笑ったまま首を振る。彼女はきっと周りの視線なんて気にも留めていないのだろう。街路樹の影が定期的に僕に被さる。
 歩くのをやめるな、と頭の中で“自尊心”と言われるであろう部分が叫ぶが、足元のアスファルトから発せられる熱気はもはや僕の耐えうる温度を超えていた。気味の悪い音が耳の奥、遠くで小さく反芻する。僕はその警告音を無視した。十六夜は僕の様子に気が付いていないようで、むっ、と頬を膨らませてぼくの言葉に反論を寄越す。

「嫌です。あれは名前なんかじゃないじゃないですか。私はあれを名前などと認めません。もう一つの方を教えてくれたら私は喜んでそちらで呼んで差し上げますよ」
「……」

 耳の奥で小さく聞こえる不快な音を恣意的に無視して、僕は十六夜の言葉に顔をしかめた。
 もう一つの、方。そっちになると今度は僕が渋る。僕はその名前がどうにも苦手で仕方がなかったから。渋い顔をする僕を十六夜はくすくすと笑った。真夏の太陽の光を浴びて彼女は輝くばかりに笑う。十六夜の歩みにからんからんと下駄が鳴り、結紐が踊るように跳ねる。斜め少し前に躍り出た彼女は立ち止まり、結果僕も立ち止まらざるを得ない。

「だんな様。それに」
「……それに?」

 くるりと唐突に振り返り、姿勢を低くして上目づかいに僕を見上げ、彼女は言う。ぐっ、と十六夜の顔が僕に近づく。花の香が嗅覚を支配する。手は背中で結ばれていた。木漏れ日が彼女の顔に陰影を描く。曲線を描くみどりの黒髪に、あでやかな錦織。くすくすくすくす、それは風のように軽く柔らかいそれはとてもとても心地良くて、ずるい声。

「私が気に入っているのですよ……駄目ですか?」

 最後の部分、どこか潤んだ声で十六夜は告げる。僕はもう何も言えない。
 ショーウインドウに十六夜と、気弱な顔をした僕が映る。曇りなく磨かれたそれに赤色の車が映って消え去った。

「う……。……まあ、良いよ」

 こうやっていつも彼女を許してしまうだけだ。
 十六夜は僕の答えにまたふわりと笑う。口元を綻ばせて、少しだけ首を傾げて。傍から見ればかなり奇妙なやり取りだっただろう。だが、僕達はそれに何事もなかったかのように再び歩き出す。隣を歩く十六夜は僕を見て満足げに笑っていた。

「ふふふ、だんな様。駄目ですよ、もっと我儘を言って下さいな。そう呼ぶな、とそう言ってみて下さいな。だんな様はすぐ我慢してしまいますが、それはあまり宜しくないですよ。だんな様は私の主なんですから、私はだんな様のポケモンなのですから、もっと命令して下さって構わないのです。本当にいつも立場が逆転しているではないですか」
「ごめん……」

 悪いことをしたのだろうと、謝る僕に十六夜は目を丸くした。にこやかで、からかうような笑みがその顔から剥がれ落ちて、疑問を浮かべる。

「どうして謝られるのですか?」
「……え?……あ、ごめんなさい」

 謝ってはいけなかったのかと、良くわからないまま僕は再び謝る。申し訳ない、と。けれど十六夜はそれにどこか寂しげに笑った。彼女の背後で人の波が絶え間なく通り過ぎていく。

「だんな様が謝られる必要はないのですよ。……私が出過ぎたことを申し上げたのです。だんな様は本当に何も知らないのですねえ……」
「……ごめん……」

 十六夜はもう何も言わなかった。けれど、ひどく悲しそうな笑顔で憐れむように僕を見ていた。僕にはそれがまた申し訳なくて。十六夜の視線から逃げるように俯いた僕に見えたのは自分の影と舗装された道路の陰影。自己嫌悪と劣等感が浮かび上がってきて収まらない。そしてそれらの感情は僕に嫌な過去だけを想起させる。負の思考が進んでいく。あぁ、もう。こんな役立たずの僕が生きていることに何の意味があるのだろう?僕に一体何ができる?こんな虚弱で長く歩くことさえままならない身体で。
 冷たい汗が背中を流れて、少しめまいがした。あぁ、ほら。もうこんなに疲れてしまっている。なんて、自分は柔弱なのだろう。心も、体も。

「だんな様」
「……ん?あ、ごめん。……えぇっと、どこに行く……んだっけ?」

 唐突に呼ばれた僕は回らない舌で彼女に答える。憂鬱な思考を丸ごと押し潰してとりあえず歩くことだけを考える。そうしなければ、そうしなければ僕は。顔を上げると彼女は相変わらずどこか憂いを含んだ顔で僕を見ていた。からりん、と下駄のなる音が止まる。歩かなければという思考だけが脳を蝕んでいた僕は、数歩進んでしまってから後ろを振り返って必死で笑みを作った。少し寒気がする。

「どうしたの……?行こ……」
「休みましょう。だんな様が倒れてしまいます」

 きゅっ、と服の裾を握りしめるようにして上目づかいで彼女は僕を見ていた。そんな彼女に向けてから元気を振り絞り、大丈夫だよ、と笑おうとして動けなくなった。視界が暗転し、世界に何もなくなる。……あぁ。

 これは駄目だ。

   *

 埃を被った赤と白の球体。そこから出てきた彼女。小さく微笑んだ彼女。それは偶然と呼ぶには奇跡的すぎる確率だったのだろう。
 初めて君と出会った時、僕はその時のことを忘れない。未だずっと覚えている。鮮烈に、痛烈に。

「……様っ」

 だって、君は、あのとき。本当は、泣いていたのだろう?
 空を見上げて、塀に囲まれた庭で、微かに君は嗤っただろう?
 ヒトの造った戒めに、未だ囚われている自分を嘆いたのだろう?
 久しぶりに見たのだと、そう悲しそうに笑っただろう?

 ……君は、なのに、どうして、ヒトの姿をしているの?
 十六夜、どうして、君は、僕なんかの。

「だ……まっ!……様!だん……だんな様!」

 十六夜の声に僕は夢から覚醒する。焦点の合わない視界には十六夜と思わしき姿が辛うじて朧に見えた。暖かい闇の中から引きずり出された頭はまだ、少し気分が悪い。

「申し訳ありませんっ。だんな様?だんな様?」
「…………いざ、よぃ……?」

 背中がやけに固い。これはあれだ、ベンチとかそういう類のものの上に僕は寝ているんだろう。彼女の背景に木漏れ日が揺らいでいるのが見える。逆光になって、それでも十六夜のやけに近い顔が必死に僕に話しかけていた。流れるような彼女の黒髪が垂れて、独特の甘い匂いが鼻孔をくすぐる。

「だんな様!?大丈夫ですか!?申し訳ありません!私が無理を申しました。申し訳ありませんっ!!!」
「……ごめん……」

 あまりにも自分が情けなかった。思い通りに動いてくれない体がもどかしかった。僕はどうして何もできないのだろう。どうして、僕はこんな欠陥品のような命しか持ち合わせていないのだろう。ただ道を歩いていただけなのに。
 十六夜に謝り続けた時に襲った劣等感。それが細波のようにまた繰り返し自分を襲う。あぁ、本当に、僕は、情けない。

「だんな様?」
「ごめんね、ごめん。ごめん……」

 謝り続ける僕、それは決して彼女のためだけではなかった。“今ここにいる自分”に対しての免罪符のようなもので、懺悔のようなもの。役立たずな自分に対する、ひ弱な自分に対する陰湿な攻撃で、自分を護る為の最大の防御。同じ言葉を繰り返す僕に十六夜は目を丸くして、そして唐突に合点がいったように彼女の口から言葉が飛び出してくる。いつも柔和に笑って、最後の最後まで十六夜は僕にそんな顔を見せてはくれなかったから、こんなに焦った様子の彼女は後にも先にもこの時一度きりだった。

「だんな様が謝られることなんてないのですよ!?だんな様は何も悪くはないのです!悪いのは私なのです。私が無理を申したからなのです。申し訳ありません、すぐ戻りましょう。すぐ帰りましょう!だんな様もすぐにおっしゃってください!具合がよろしくないのならそうすぐにおっしゃってください!!」
「ごめんなさ……」
「謝らないでください!!だんな様は何も悪くはないのです!!」
「……」

 うん、ごめんと僕は拒絶のようにもう一度繰り返して、右腕を目にかかるように乗せた。その様子を見た十六夜は静かになり、代わりに聴覚が捉えるのは風の音と自分の心音。揺れる木の葉の音でさえこの状態ではよく聞こえる。
 ノイズ混じりの心拍音と共に血液を吐き出し続けるポンプ。それがなければ生物は生きてなどいけないというのに、それがどうにも気持ちが悪かった。気味の悪い異物のようで。どくりどくりと脈打つそれはその姿を想像するだけでぞっとする。

「ごめん、十六夜……」
「もう、良いですから。お願いですから謝らないでください」
「ごめ……ごめん」

 くだらない言葉の応酬。ごめんと謝ることしかできない自分。謝るなと十六夜に言われてそれでもそれが申し訳なくてごめんと言ってしまう。ごめんと言ってごめんと。きっと役に立たないと、病持ちの体で一体何ができるのだと、そう幼い時から影で囁かれ続けた言葉は未だに僕に楔を打ち込んでいる。そんな言葉に対して僕はできる範囲のことはなんでもやってみせた。言われたことをその通りにこなして見せた。自分を護る為に、認めてもらうために、『自分』を作って綺麗に笑ってみせた。自分が弱いことを知っていたから、誰よりも強くあろうとした。弱音なんて吐けなかった。弱みなんて見せられなかった。それが僕に、いや『僕』に求められたものだったから。反面、心の中は不安でたまらなくてごめんなさいと繰り返していた。傷つけないでくれと、認めて下さいと。脆弱な自分を隠して、それが露呈することを恐れていた。
 情けない。本当に情けない。自分には一体何ができるのかと問われれば本当は何もできないのだとそう答えるしかない。ただ誰かの荷物になり、足枷になり、人形になることしかきっと今の自分にも出来ない。他人からこうあれ、と言われてそのまま僕は育ったのだから。昔から何も変わっていない。僕は今となってもまだ、傷つけられることを恐れている。
 それでも少し前までは人形で良いと思っていたのに。それで当然だと思っていたのに。今はもうそれが情けなく、空虚であることを知っているのに。僕は未だ恐れているんだろう。……僕はどうしようもない臆病者だ。

「もっと早く気付くべきでした……」
「十六夜は、悪くないよ……。僕、が、隠してた、から……。十六夜、楽しそうだったから」
「…………だんな様は、人が良すぎるのですよ。お優し過ぎますよ……」

 消え入りそうな彼女の声。暗闇で聞くその声に僕は心の中だけで答える。

 僕は決して優しいわけじゃない。ただ、臆病なだけだよ。だけど。
 だって、君はずっとあそこにいたじゃないか。僕と同じように、でも僕よりずっと永く。君は僕と違ってどこにでも行けるのに。
 行けるのに、縛られて。逃げ出せなくて。君はずっとそこにいたんだろう?ずっと笑って見せていたんだろう?だって、君は言ったじゃないか。初めて君と出会った時に。

 『空ですね、風ですね、太陽ですね、本当に久しぶりに見たのですよ』

 本当に嬉しそうに、懐かしそうに、寂しそうに。
 君はそう、言ったじゃないか。

 だから、せめてそれくらいは、と思うのは当然じゃないか。

   *

「大丈夫ですか、帰れますか。だんな様」
「十六夜は心配性だね。……たぶん、大丈夫」

 薬を持ってくれば良かったと、そう後悔するのには流石に遅すぎた。立ちくらみを抱えながら、ふらふらの足取りで何とか立ち上がる。がくがくと限界を告げて笑う膝に酔っ払いもびっくりな千鳥足。……全くもって大丈夫じゃない。

「……だんな様」
「何?」

 十六夜の顔は青ざめていた。君こそ大丈夫かと聞きたくなるほど彼女の顔は真っ青だった。
 えぅ?あ、えっと。どうした……の?

「いっ、十六夜?」
「もっ」

 ……も?
 真っ青な顔をした十六夜は詰まりながら言葉を発する。

「申し訳、ありません……っっ!!!だんな様!!無茶しすぎですよ!!?何考えてらっしゃるんですか、その生まれたてのアチャモもびっくりなひ弱な体でどれだけ無茶したんですか!!!」
「えっ?あ。ぅ、ご、ごめ」
「謝らないで下さいと申し上げたはずです!!黙ってなさい!……あ、いやそうではなく!かくなるうえは私がだんな様をお抱かかえてお屋敷まで……」

 大音量でそんなことを言い出した十六夜にぎょっとするのは僕の方。膝はまだ笑っているけれど、立ちくらみはもうない。頭は比較的しっかりしている。僕は十六夜を宥めるようと恐る恐る声をかける。下手なことを言えばまた猛反撃を食らってしまいそうだからだ。

「い、ざよい?あの、大丈夫。大丈夫だよ。たぶん。歩けるところまで歩くから、だから、その、抱きかかえるとかやめ」

 ――てください。本当に。
 着物姿の女の子にお姫様抱っこされて街中を歩くとかもう想像するだけで気を失いそうだ。病とは別の意味で死んでしまう。だが十六夜は多分そこまで頭が回っていないのだろう。半ばパニックの様な状態で慌てている。

「十六夜?いざ、よい?あの、十六夜?ほ、ほら僕歩けるから!歩けるから!」

 その場でぴょんぴょん飛び跳ねて見せる僕に十六夜は訝し気な目線を向ける。飛び跳ねる僕は、正直脳震盪で倒れそうだった。

「……本当ですね?」
「……うん……」

 ぐらんぐらんする頭を手で押さえることもできず、僕はただできうる限りの笑顔で頷く。少しばかり作り物めいていたのは正直目を瞑ってもらいたい。

「本当ですね?だんな様」
「……う、うん。うん」

 十六夜の鋭い視線に僕はただがくがくと頷くだけ。そんな僕の様子に十六夜はふっ、と力を抜いた。花が綻ぶような小さな笑みがその顔に戻る。透けるような白の滑らかな皮膚は上気した影響か、少し赤みがさしていた。

「なら、帰りましょう」

 頷きかける僕は、しかし気が付く。そうだ、結局何もしていない。買い物に来たはずなのに。恐る恐る僕は十六夜に尋ねる。言ったら、怒られそうな予感がすごくしていた。

「買い物は……?」
「……だんな様、流石に怒りますよ。これ以上だんな様を連れ回せません。あとで私が参ります」

 薄っぺらな笑顔を張り付けて十六夜はそう答える。予想的中。これは怒っている。怒られた。いや、十六夜はあくまで僕の心配をしてくれているのだろうけれど。それが嬉しく、そして辛い。思いのままに行かない体がもどかしい。長く生きられなくても良いから、今動ける体が欲しかった。心配されたくなかった。弱みを見せたくなかった。気を使わせたくなかった。役立たずだと言われたくなかった。……あぁ、やっぱり僕は情けない。またこうやって自分を守ることばかり考えている。

「ごめん。十六夜」
「……だんな様……。だんな様、どうか謝らないで下さい。今日だって私が悪かったのですよ。だんな様が謝られる必要は全くないのですよ。だんな様を連れ出したのは私なのですから。怒って下さって良いのです。そうするべきなのです。なぜだんな様が謝られるのですか。私一人に行け、とそうおっしゃって下さって良かったのですよ。私の言葉にだんな様が付き合う義理など本来存在しないのですよ。だんな様、だんな様はお優しすぎますよ……」

 僕はそれに首を振った。違うと。優しいわけではないと。
 違う、違うよ。十六夜。僕は優しくなんてない。心の中で僕は答える。

 僕は君に対して謝っているんじゃない。きっとそうじゃない。僕は僕に対して謝っているんだ。僕を護る為に無様な自分をさらけ出しているだけなんだよ。君に対して謝ることで、いつも隠している本心を見せることで、こうあれと言われた『自分』に反抗して見せているだけなんだ。罪の呵責を逃れるための言い訳にしているんだ。優しいのは君の方。君はそれを黙って受け止めてくれるから。
 義務なのかもしれないけれど、君にとってそれは業務上のもので事務的なものなのかもしれないけれど、僕が僕でいられるのは君に対してだけだから。僕を僕として見てくれるのは君だけだから。

「違います。だんな様」

 僕を真っ直ぐ見て、彼女はそうはっきりと言った。強い言葉に僕はただただ間抜けた顔を晒すだけ。絹糸のような細く長い黒髪が風に靡く。からりん、という軽い音が耳の奥を突き抜けていく。茄子紺の袴の間から紅い緒が覗いた。限りなく透明に近い澄んだ声は頭に長く響く。麻薬のように甘美なその響きは、僕に抗うことを赦さなかった。

「義務なんかじゃありません。私は、私が望んでだんな様の傍にいるのです。これは私の望んだことなのです」

 おおよそこの世のものから逸脱したような、幻のような笑みが彼女の表情を彩る。それは彼女がヒトと一線を画するものであることを示すように。その言葉と表情が偽りなのか真実なのか知る術を僕は持たなかった。けれど次の瞬間それは消え、代わりに楽しむように、そっと口元を綻ばせて彼女は言う。

「それに、だんな様で遊ぶのはとても楽しいですよ」
「……僕『で』?」
「はい。だんな様『で』、です」

 くすくすと、柔らかい表情で彼女は笑みを咲かせる。楽しくて仕方がないと言いたげに。

「さあ、帰りましょう。だんな様」
「う、うん」

 躊躇なく差しのべられた雪色の手を僕はそっと繋ぐ。繋いでしまってからこれは違うだろうとはっとしたけれどすでに時遅し。完全に雰囲気に飲まれてしまっていたらしい。離してくれとも言いづらく、彼女の半歩後ろを歩きながら僕は苦笑を噛み締めた。

「様……」
「え?」

 微かに呟いた十六夜の言葉を僕は聞き損ねた。十六夜?と繰り返す僕に十六夜は振り返りながら、にっこりと笑う。夏の青空を背にして。

「いいえ。だんな様。……また、またいつか冒険に行きましょうね」

 ぎゅっ、と力を込められた繋いだ手。それはひやりと冷たく、なぜか暖かかった。

   *

 その約束が果たせたのかと言われればイエスともノーとも答え難い。彼女がどんな冒険を望んでいたのか知りえないからだ。この時以降も彼女に散々振り回されたのは確かなのだが。
 ……今思えば、彼女はあの時私の、いや、僕の心を読んでいたのだろう。彼女は僕が思っていたことに反論をしてきたのだから。彼女には間違いなくそういうこともできたはずだ。そう思うと恥ずかしさに赤面しそうになる。なぜなら僕はあの時、はっきり言って彼女に告白をしたようなものだ。いや、恋愛的な意味での告白ではないのだけれど。だがしかし、僕が唯一安らげたのは確かに彼女の傍だけだっただろう。
 『望まれた自分』を演じ続けていた僕は人間として何か欠落していたと思う。それを補完できたのかは未だ定かではないが、子供らしくしなさいと、ありのままに我儘を言いなさいとそう言ってくれたのは彼女だけだった。ごめんなさいと言うことさえ恐れた自分は、彼女の前でならごめんなさいと言えた。……それが、彼女を困らせ哀しい顔をさせた原因であるとわかっていたけれど。綺麗な言葉を並べるなら彼女にだけは嘘をつきたくなかったから。醜い感情を曝(さら)け出すなら、そうすることで安心できたから。
 尤も、今でもやはり彼女が本当に望んで僕の傍にいてくれたのかは時々疑問に思ってしまう。彼女は、彼女は最後、本当に選択を誤らなかったのかとそう不安になる。

 一番初めに彼女に出会った時の記憶と、最後の彼女の笑みが僕の中で未だ処理できていないのだ。
 彼女は恨んでいたはずなのだ。僕を、僕の家を。もしかすれば僕の傍にいたのは、彼女なりの復讐であったのかもしれない。それを確かめる術はないけれど、時々そう思ったし、今でもそう思う時がある。
 僕を彼女に依存させることで、彼女は僕達に復讐していたのではいかと。依存させることで彼女は僕を自らの傀儡(かいらい)にするつもりだったのではないかと。……いや、そうであるならそれはそれで構わない。僕はただ彼女が居てさえくれればそれで良かったのだ。そして、彼女にはその権利があっただろうとも思う。さらに言うならもしそんな意図が彼女にあったのだとしたら、それはおおよそ成功したと言える。僕は結局彼女のために動いたのだから。
 ……尤も、その選択を間違ったとは今でも僕は思っていない。あの選択は正しかったと、間違ったことをしたつもりはないと胸を張って言うだろう。それが彼女の思惑であれ、自らの意思であれ。
 だが、それなら、彼女の最後がわからなくなる。

 彼女は、彼女は最後も綺麗だった。
 綺麗に、柔和に、笑っていた。どうしようもないくらい儚く、どうしようもないくらい綺麗に。
 手を伸ばしたら消えてしまいそうな、虹のような、幻影のような、そういう美しさだった。

 逃げろと、そう僕は言ったのに。
 頼むから逃げてくれと、僕は初めて彼女に命令したのに。

 彼女は笑っていた。花が咲くように、零れんばかりの輝く笑みで頬を緩めて。
 あれほど僕に命じろと言った彼女は、結局僕の言うことなんて聞いちゃくれなかったのだ。ひどい話だと思う。

 十六夜、本当に君は、それで良かったの?間違っていないとそう言えるの?僕にはわからない。何万回考えても、僕にはわからない。彼女が選択を誤ったようにしか思えない。それとも、それが『ポケモン』なのだろうか。尽くして尽くして笑ってしまうのが『ポケモン』なのだろうか。
 ……いや、それは違う。違うはずだ。あぁ、僕にはわからない。考えても考えてもわからない。なぜ彼女が笑ったのか、わからない。知りたくない。いや、もう今日は書くのをよそう。支離滅裂だ。これは、これはいつか読んでもらうためのものなのだから、もっと丁寧に推敲されるべきものだろうに。
 申し訳ない。とりあえず一旦これで切らせて頂く。と言っても続きのページは書かれているはずであるのでこれを読んでいる誰かには関係のない話だろうが。
 良くわからない文章の羅列になってしまったが、順番にきちんと語っていくつもりだ。今日のようなことは起こさないはずであるのでどうか安心して欲しい。

 未だ、目を閉じれば思い出す。
 鈴のような透明な音色で、澄んだ声で。陽だまりのようなまばゆい笑みで。彼女が最後に残した言葉はきっと死んでも僕の脳から離れてはくれないだろう。

 『私の、……私の可愛い……』。

 ……僕は彼女に何ができただろう?

***   ***
これはポケモン小説なのかと聞かれて答えられる自信が僕にはありません(キリッ
いくらか伏線を引くだけ引いておいて回収していない部分があるのですが、実はこれ連載しようと思っていたものでして……(目を逸らしながら)。いやまあここに載せた時点で頓挫していることは明白なのででしょうが。それでも十六夜が一体何のポケモンなのかさえ記していないというのはもう悪意しか感じないですけどね!……はい。本当に申し訳ございませんでした(土下座

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2012.11.4  23:03:52    公開
2012.11.5  00:00:41    修正


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