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我楽多たちの物語

著編者 : 森羅

愚者狂奏曲

著 : 森羅

イラスト : 森羅

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  ふと上を見上げると東の空が白く染まり、西の空は未だ星と闇が支配している。そのちょうど真ん中のあたりでは小さな六等星が必死に闇夜にしがみ付いていた。グラシデアの花が闇夜の空と朝焼けの空を横断する。えもいわれぬ甘美な香りは嗅覚を狂わせ、強すぎるその匂いは思考さえも奪っていく。冬だと言うのになんとも元気というか……いや、ただ単にこの花は相当鈍麻なのだけかもしれない。
 ……そろそろ、終わらせるか。
 ふう、と白く濁った息を吐き出し彼はマフラーの中に首をうずめた。背もたれにしていたその木からは微かに甘い樹液の匂いが漂っている。このグラシデアの花さえなければもう少し自己主張できたであろうその匂いをなんとか嗅ぎ取れたのは奇跡にも近いだろう。だが、彼にはそれがどれほど官能的な花の香だろうと些細なことに過ぎなかった。雨の降った後の地面になんぞ座るもんじゃないな、と苦笑。濡れてしまった尻を手で軽く叩きながらゆっくりと腰を浮かせた。長時間同じ体勢でいたためか、固まってしまった膝小僧が小さな悲鳴を上げる。
 姿勢を変えた瞬間に蹴ってしまったのだろう、足元で湯たんぽの代わりになっていたもふもふのそいつがくりくりの目玉を前足でこすりながら寝ぼけた眼差しを彼に向けた。それはもう、見る人見る人が顔を蕩けさせるであろう可愛らしい寝ぼけ顔である。だがそんなことは意に介さず、寝ぼけ眼を向けるぬいぐるみのようなそいつの頭をぐしゃぐしゃと乱暴に撫で付け、彼は冷え切った指先をそいつの熱で温める。再び目をとろんとさせて瞼を閉じていくその獣にしかし彼は何も言わず指を温めて暖を取った。こっくりこっくりと舟を漕ぐその獣はじんわりと温い。暖を取ると言う意味だけでも連れてきてよかったと、そいつを連れてきた過去の自分に感謝したくなる。ぶるりと寒さに身を震わせた彼はその獣から手を放し、どこか楽しそうに吐き出した息を白く凍らせた。冬の澄んだ、しかし冷たい風が彼の頬を切っていた。あぁ、眠い。マフラーを少し下げて彼は心地よさそうに冷気に目を細める。
 冷え切った鉄製のそれががちゃんこん、と鈍い音を立てた。夢の中に片足どころか両足を突っ込んで熟睡するそいつを彼は足で小突く。

「起きろ、時間だ」

 数十分後、ひどく軽い音がグラシデアの花をいくつか散らした。


 ぴちゃぴちゃ、ぺちゃぺちゃと血を舐める音が、肉を食む音が、静かな花園に響く。この光景を見たものは咲いていた赤い花が溶けて液体に変わってしまったのかと思うだろう。そしてその赤い液体は花のように芳しく、花以上に強烈で狂った匂いを発している。グラシデアの香りは、もうわからない。

「あぁ、もう。食っていいのは首から下だけだって言ってんのに。おい、聞いてんのかー?おーい?……聞いちゃいねぇし」

 『ソレ』には形と呼べる形がなかった。
 『何らかの生き物であったもの』の眼球があった場所は虚を晒していた。目玉のうち一つは毛細血管が引きちぎれて内出血。結果、ただの赤い球体となって転がっている。もう一つは辛うじて血管一本、体と繋がっていた。だが首から上は原形をとどめている分まだマシな方で首から下はただ惨い。肉塊というには肉が足りず、液体状の何かであったと言うには少々骨がかつての骨格を示しすぎているのだ。骨と赤色の液体だけの生物であったと言うのなら、話は別であろうが。赤黒い染色のされたあばら骨にずるりと長いピンク色の腸が引き千切れて風に揺れていた。ぼたぼたとドロリとした体液がそこから滴っている。良く見れば、赤色のそれに沈むわずかな肉塊はどれもつるんとしていて肝臓や胃のよう。どうやら半分は齧ったらしい。本来それら臓器の内側に存在する器官が、血を吐き出していた。体内と言うのは、臓器と言うのは、こうやってさらけ出されると気色が悪いだけの物体だ。腸なんてよく腹の中に納まっているものだと彼は常々思う。ひだを持つ、ピンク色のホースは見るたびに自分の腹を掻っ捌いて引きずりだしたくなる程度には怖気が走る。
 まぁ、とにもかくにも半分で食べるのをやめたと言うことはどうやら臓物はそいつの口に合わなかったらしい。完全に原型を失ったそれに彼は呆れたようなため息をついて髪を掻き毟った。どうせなら全部ひとかけらも残さず食って、血さえも残らず啜ってくれれば良いものを、と。両手に付いていた血が髪の毛にまで付着する。食い損ねの肉片が散らばり、赤い液体が地面に吸われていく。花よりも芳しいそれは狂気の香。彼は微かに哂った。狂気的に、官能的に、その香りに酔ったように。あくまで『嬉』として笑った。血液の赤は赤い花をさらに赤く彩り、強烈に染め上げる。食い損ねの中にまだ毛皮のついた片腕――残った肉塊の中では比較的大きな部類に入る部位――を見付けて歓喜するもふもふのそいつを彼は止めて、駄目だと言い切った。もふもふの胸毛に血をべったりとつけた獣は無邪気に、そしてもっと欲しいと言わんばかりにその可愛らしい、血まみれの口をあぐあぐとさせていたが、彼の声に不服そうに後ろに下がった。口から何か垂れているが、きっと毛細血管か神経か筋の部分だろう。あとで取ってやらないと虫歯になってしまう。
 だが、今はそれより。

「あーあー、これ、怒られるだろーぉなあ」

 返り血を浴びたモッヅコートが元の色であるカーキと混ざってあまり好意的ではない色へと変わっている。彼は指先でその首を持ち上げ、ため息。いくら『Dead or Alive』の獲物でも、さすがに好きに食っていいとは言われていない。虚を晒す眼窩を見つめ、軽く黙祷。それから革製の袋の中にそれを放り込んだ。血管一本くっついていた目玉は、ついに落ちた。

「お仕事、終了ってな」

 もふもふのそいつは足元で彼のブーツを噛んでいた。

   *

「あ、すみません。これ、確認してもらえます?」

 出来うる限りの営業スマイルを向けたはずだが、若い女医には彼の笑顔はおぞましいもの以外何物でもなかったらしい。いや、べったりと返り血を浴びた顔で笑ってみせてもそれが狂気にしか映らないのは当然であろうが。
 自分の状態に気が付いた彼はあいやこれは、と言い訳しようとしてやめる。これが仕事だと割り切り彼はカウンターの上にどん、と血を滴らせた麻の袋を置いた。当然だが、ぎょっとするのは女医。

「なん、……です、か。これ……」
「え、死骸?」

 わななき声の女医に対して軽い一言。小さな悲鳴が彼女の口から洩れる。その様子に彼はまいった、と頭を掻いた。オレンジ色のもふもふはカウンターから床に滴り落ちた赤い雫をせっせと舐めている。お掃除精神旺盛で何より。そして、この反応からして彼女はどうも新任らしい。“彼ら”の仕事に慣れていない。あー、と彼は頭を掻きながら彼女に対して言う。できるだけ早口に。相手に質問する隙を与えないように。

「これは駆除指定のポケモン、害獣だ。対処がわからないなら上の人間を呼んできてくれ。こっちも疲れてる」
「駆除……?」
「いいから、早く。こっちも疲れてるっつっただろ。一から十まで説明する義務も義理も意欲もない。頼むから」
「え、あ、あの……えっと」

 それでなくても疲れていると言うのに、彼女の反応にさすがに彼も苛立ち始める。敬語なぞすでにそっちのけの彼に、しかし彼女は動いてくれない。季節も弁えず大輪を広げていたグラシデアと同じくらい彼女も鈍麻だったらしく、おろおろという擬音語がこれ以上なく似合うその様子に彼はつい舌打ちした。
 結局、その時ちょうど通りかかった若い女医の同僚だか上司だかがこちらに気づいてくれたからよかった。もし気づいてくれていなかったら、彼は怒りに任せてカウンターを蹴り飛ばすくらいはしていたかもしれない。徹夜明けの人間に余計なストレスを足し算すると理性が飛ぶのだ。無茶苦茶な計算式だがつまり、それくらい彼は疲れていた。

「……ご苦労様です」
「まいどありー」

 それは緊張というより嫌悪に似た感情だろう。できる限り事務的に事を進めたいと言わんばかりの硬い表情の女医に彼は口元だけで笑った。皮肉るような笑い方は決して好意的ではなく、それは対応に当たった女医も感じ取ったようだ。と言っても彼女自身、彼に、いや“彼ら”に好意を抱いてはいないのだから、お互い様かもしれないが。義務的な会釈をして彼女は書類を置いて足早に立ち去る。あとに残された彼は、後頭を掻いてから、その書類に目を通した。これ以上なく面倒くさいが、書類に必要事項を記入しなければ懸賞金が出ない。オレンジ色のもふもふは気が付けば彼の足元で仰向けに寝ていた。よく膨らんだ腹に満足そうな寝顔。返り血まみれでさえなければ抱きしめたくなるほどの可愛さである。

「あの」
「んー……?あぁ、さっきの」

 ボールペンを手の中で回し、書類を書き始めた彼に声をかけるのはさっきのグラシデアに似た若い女医。無論、グラシデアというのは容姿のことではなく、その鈍感さが似ているという意味であることは言うまでもない。
 最低限の礼儀と少し顔を上げ、彼女に目をやる。だが、しばらくしても何も話しかけない。仕方がないのでまた書類に目を戻す。するとまた声。

「あの」
「……何?」

 今度は顔を上げない。ボールペンで紙切れを引っ掻きながら、黒いシミを落としていく。首のあたりに女医の視線は感じていた。たどたどしい声がまた紡がれる。あぁ、眠い。

「あの。さっきの。あれは」
「あぁ、害獣?」

 やはり顔は上げない。カリカリカリカリと汚い字で必要事項を綴っていく。彼だって少しでも早く休みたいのだ。熱いシャワーとぬくぬくのベッドが恋しいのだ。それにいつまでも返り血まみれでは気色が悪い。

「あの、首は」

 とても言いづらそうな声。恐怖を含んだ、悲しみを内包したその声。だが、彼女も女医ならば、ポケモンセンターの人間なら本来、彼らの仕事について知っているべきで、知っているはずなのだ。彼はその震えた声に対し、不服そうに顔を上げる。

「だから、害獣だって。『Alive(生け捕り)』指定じゃねえ、『Dead or Alive(生死問わず)』の害獣。それを殺して持って帰ってきた。本当は全身持ってくるつもりだったんだが、こいつに食われちまってな。生首だけになっちまったが、まぁ、そっちでそれを確認してもらったから、俺はその必要書類を今こうやって書いている。おーけー?」

 言うだけ言って、書類の攻略に戻る。若い女医は彼の言葉にその身を震えさせていたが、無視した。
 ポケモンセンターというのは、ご存じのとおりポケモン協会の管理下にある施設である。ほとんど各町にその施設は置かれ、ポケモンを扱う人間に対して様々なサービスを有償、もしくは無償で提供する。旅をするトレーナーであろうと、街で暮らす人間であろうと、ポケモンと共に暮らす限り彼らはその存在は欠かすことができないであろう。そしてその地域密着性ゆえに“ポケモン協会支部”となりえるのだ。
 ポケモン協会とはポケモンリーグの主催も含め、『ポケモンに関する物事』全般を例外なく取り扱う。研究、医療関係、預かりボックス、バトルにおけるルールの規定と設定、商品開発、犯罪などなど。ポケモンと言う名のつくものがあるのならそれは全てポケモン協会に帰属すると言っても過言ではない。そして、彼がポケモンセンターに、“ポケモン協会支部”に持ってきたものは、

「人に害したポケモンは、放置できねえんだよ。……よしっ、できた」

 人に害をなしたポケモンである。
 最後に名前を走り書きし、事細かな書類とのお見合いを終えた彼はペンを置く。そしてポケモンセンター入り口のガラス窓から入ってくる朝日を背景に大あくび。この時期に張り込みは辛いな、と呟く。若い女医から完全に興味を失っていた彼は、それゆえ気が付かなかった。彼女が、その拳を握りしめていたことに。

「ど」
「……ん?」

 きっ、と上目づかいに自分を睨む若い女医の目は、怒りを湛えていた。

「どうして殺したんですか――!」

 そのつっかえつっかえの言葉はさほど大きな声ではなかったが、ロビーに反響するには十分な声だった。人のまばらな時間帯のため振り返る人は少なかったが、もふもふのそいつが彼の足元から飛び起きる。だが、それに彼はあくまでも平常心。何をそんなに怒っているのかと言わんばかりの表情で彼は答えた。

「どうしてって……仕事だからだろ。俺達『掃除屋』の」

 『掃除屋』。それはあくまで通称であり、実際には危険指定携帯獣保護及び駆除なんたらかんたらうんたらかんたら、と無駄に長い正式名称が存在する。無論、呼ぶ人は零に等しい。そして仕事内容も正式名称の長さとは裏腹に実にシンプルだ。ポケモン協会が害獣と見なした携帯獣――特に人に悪意を持って怪我をさせたポケモン、人を殺してしまったポケモン――の駆除、および捕獲。『Alive』なら生け捕り指定。『Dead or Alive』なら生死問わず。駆除・捕獲完了後はすみやかに“支部”たるポケモンセンターで確認してもらい、必要書類を書く。そしてそれは協会本部へと渡り、金が振り込まれる。ただ、それだけのシステム。彼らの仕事は文字通り『掃除』なのである。
 害獣指定を食らうポケモンは野生のポケモンの場合もあるが、近年では未熟者のポケモントレーナーが育成に失敗したポケモンの駆除依頼も多い。勝手で良いご身分な話だが、大概は『狂暴になって手に負えなくなったから、捨てました』のパターンだ。開いた口が塞がらないとはこのことで、今回の獲物もそのケースに当たる。これは確かに『掃除』だが、『掃除』と言うよりはむしろ『尻拭い』に近い。

「掃除って……あのポケモンは生きていたんですよ!!貴方が殺したんですよ!!!」
「そうだよ。それが俺の飯のタネだから」

 感情的に喚く若い女医に対して、彼はあくまで冷静だった。教育が足りない、とも思わずただただ若いなあと感服するばかり。これは、若さゆえの、純粋ゆえの怒りなのだ。
 先程、手続きをしてくれた女医の嫌悪感溢れる目を思い出し、失笑が漏れた。そう、『掃除屋』は嫌われ者の汚れ役だ。冷たい銃器に死を携えて獣を狩るものを、死臭と血のにおいを染みつかせて獲物を追うハイエナを、一体誰が好き好もう?嫌われて当然、しかるべき反応だ。そしてまた、ポケモンを愛する者にとっても『掃除屋』の仕事は許しがたい愚行だろう。だが、一度人間の肉の味を覚えてしまった獣は平気で人を殺してしまう。その甘美な味を知った瞬間、人間は彼らにとって『餌』としか見なされなくなるのだ。そして、人間に対し強烈な悪意を抱くポケモンもいる。こちらはさらにタチが悪い。食う食わないという自然の掟に反する、快楽殺人にも似た行動だからだ。協会としても頭の痛いところではあるのだろうが、放っておくわけにもいくまい。
 少しでも犠牲を減らすために、汚れ役はどうしても必要だったのだ。

「貴方は、貴方は!!どうしてです!殺さなければ更生させることができたかもしれないのに!!」
「……なあ。あんた、飯は食うか」
「……は……?食べます、けど」

 未だ純粋たる怒りを、ポケモンを愛し治療するものであるが故の怒りを彼にぶつける女医に彼は唐突に声をかけた。呆気にとられる女医に、彼はカウンターから身を少し乗り出して笑う。ツンとすえたようなにおいが鼻を突き、嫌らしい笑いに女医は少し体を引いた。彼の足元で、ぬいぐるみみたいなそいつがまたうとうとし始める。

「立派な心がけだ。正しいよ。だが、そこまで世界は美しくない」

 すこうしだけ、彼は、『真実』を教えてやることにした。

「その心は失わないで欲しいね。だが、それは甘い。更生?無いね。あり得ない。肉の味を忘れることなんてできやしねえんだ。頭に穴をあけて、脳を弄るってえなら話は別だがな」

 自分の頭を右の人差指で突きながら、彼は哂う。そう、世界は思った以上にシビアだ。万事うまくなど生きはしない。目を見開き、恐ろしいものを見るような目で自分を見つめる女医に彼は続けた。

「生きて連れて帰った害獣が、その後どうなるか知ってるか?更生できないなら……つうか、この表現自体おかしいな。思い上がりも甚だしい。ポケモンってのは人間に従順な『ペット』じゃねえぜ。奴らには奴らの掟がある。たとえそれが俺達人間のルールにそぐわなくても、な。……あぁ、話が逸れたが、そんな害獣は大概向こうで、協会で殺される。もしくは実験動物さ。だから、いっそ殺してやる方が良いんだよ」

 固まる女医の耳に囁くように。

「医者だからって、医者だけが救う立場だと思うなよ。俺達は日々、生きもんの命を食ってんだ。そうしなけりゃ生きてけねえ。そうだろう?気づいていないだけで、俺達の生活は何かの犠牲の上で成り立っている。違うか?食いもんにしろ、着るもんにしろ……。病気の薬にさえ、臨床実験が必要なんだからな。安全の値段だってタダじゃねえ。俺達がわかりやすく血を浴びてるだけで……ほうら、良く考えろ。お前だって俺と同じだ。この世で一番無垢で無実の生き物は、生まれる前の赤ん坊だけだろう?」
「あ、な……」

 そりゃもう語ろうと思えば、彼は『掃除屋』達に殺されなかった害獣の後の凄惨な姿を教えることもできるが、さすがにそれは自重すべきと判断した。無論、協会もやりたくてそんなことをしているわけではないことは留意しておこう。
 わなわなと震える女医に、今度こそ興味を失った彼は最後に大あくびを一つ、借りた部屋の鍵を手の中で回す。足先で血まみれの獣を小頭突き、起こした。四足のそいつは前足で目を擦って、立ち上がる。

「まあ、その心がけは大事にしろよ。“しょうがない”なんて言葉を吐き出し続けるのはそれこそ愚かだぜ」

 反論の言葉は、なかった。

   *

 昨日のうちに借りておいた部屋には自分の荷物がでん、と鎮座して主の帰りを待っていた。崩れ落ちるようにその場に座り込んだ彼はおもむろに右腕のあたりをすんっ、と嗅ぐ。彼の後ろにいたもふもふのそいつは部屋のフローリングの上でごろりと寝転がった。

「生臭え……」

 染みついてしまった匂いはなかなか落ちない。彼は鼻をひくつかせ、結局あきらめた。肩からライフルをおろし、そっと床に置く。いくら疲労困憊でも商売道具だけは大事にしなくては、的思考というよりはこれがどれほど厳重に取り扱わねばならないか知っているからこその行為だ。モッヅコートに付いてしまった返り血は洗濯機ごときで落とすことができるだろうか。それとももはやクリーニングになってしまうのだろうか。はあ、と軽くため息。安物の編み上げブーツとコートを脱ぎ散らかし、着替えるのも億劫でそのまま布団の中に潜り込んだ。血のにおいが付いてしまうかもしれないが、もう勘弁してほしい。本来なら風呂にだって入りたいのだ。熱いシャワーが恋しいのだ。だが、それにも勝る睡眠欲が彼を支配していた。横になった途端、襲ってくるのは睡眠“欲”と言うよりは、睡“魔”。だが、その悪魔に囚われる前に彼は一言だけ、フローリングの上のオレンジ色に声をかける。

「……いつもの通りに」

 彼の言葉にその耳がぴくりと動き、黒い瞳がらんっとぎらついた。


 そして、彼が起きたのはそれから六時間ほど後のこと。睡眠欲が満たされた彼は、まず自分の姿を見下ろしてこう呟いた。

「……せめて、服脱げよ……」

 六時間前の自分には、相当無理難題な注文である。
 待ちに待った熱いシャワーを浴びて、ついでに血の付いた服を洗って、おまけとばかりに返り血を浴びた獣も風呂場に突っ込む。もっふもっふのそいつの体毛は貧相に萎んで、ただの濡れ鼠へと変わっていた。彼はそれを見て笑った。
 頭にタオルを引っ掛けながら、かちゃかちゃと商売道具を弄る。残念ながら彼は整備士ではないので、完全にそれを整備することはできないがそれでも最低限の分解と清掃は行わねばこういうものはすぐに使い物にならなくなってしまう。鉄クズに用はないのだ。あーでも一度きちんと見てもらった方が良いかな、と思いながら慣れた手つきで彼は清掃の終わったそれを組み立て直す。
 可哀想なくらい体毛が萎びてしまったそいつは、体を小さくして彼のコートの上に伏せていた。彼はまたそれに少し笑って、その獣の頭を撫で付けた。

 もふもふのそいつのおかげか、それとも部屋の暖房のおかげか、はたまたその両方か、洗った際に大量の水を吸わせまくったはずの分厚いコートは乾くのが、やたらと速かった。

「……なんだかな……」

 落胆を含む声の聞き手はもふもふの毛並のそいつ。普通なら丸一日程度は乾燥させないと乾かないであろうその難物が、いつの間にかものの見事に乾いてしまっていた(少々皺がよってしまっているが)。そんなカーキのコートを持ち上げながら、彼は何とも言えない難しい表情で足元の毛玉を見る。床でゴロゴロと寝そべるそいつは何も答えない。
 ……少しゆっくりしようと思っ……あーあ。
 コートの乾き具合を自分への言い訳に使おうと思っていた算段は音を立てて崩れ落ちた。がっくりと肩を落とす彼にもふもふは我関せずといった風で寝返りを打つ。お前のせいだと呟く彼の言葉はその獣に何の効力も持たない。ちなみに『掃除屋』は自由業に分類されるため、“こうしなければならない”という規定は本来ない。好きな時に休めばいいし、好きな時に仕事をすればいい。だが、彼に関して言うのならそう気ままに物事は進まないのだ。ぐすん、という効果音と共に崩れ落ちる大の男。手に握るコートからは石鹸のにおいに混じって、落としきれなかった血と硝煙のそれがかすかに香った。

 ……。

 仕方がない、もう、次の狩りに行くとしよう。
 やたらとゆっくり荷造りをする彼の背中はどうしようもなく哀愁漂っていた。

   *

「……あーあ。お前のせいだかんな。……おい、聞いてんのかよ。おーい」

 オレンジ色のそいつはもちろん彼の言葉を聞いていない。彼の傍で彼を見上げてお座りの体勢を維持しているだけだ。彼はその姿を数秒見下ろし、小さな舌打ちと共に視線を外した。カーキのコートを着込み、重たい荷物を背負った彼がいるのはポケモンセンターロビー。部屋の鍵はさっき返したのでもうこれ以上ここに居座る意味はない。さあ行くぞとオレンジ色の獣を小頭突き、昼下がりの蒼天に似合わない大あくびを噛み締めながら彼は出口へと向かった、その矢先。
 ロビーのソファーに座ったその人が、目に入った。
 彼はそいつをほんの二秒ほど見つめ、それから笑う。それは足元の獣に向けるのとは種類の違う、もっとおぞましい笑み。宿敵(ハブネーク)を見つけたザングースはきっとこんな笑い方をするのだろう。それは、そんな『狩人』の笑みだった。
 それは、彼の『敵』だった。

「よお」

 知人に声をかけるような気やすさで彼はそいつに声をかけた。オレンジ色のもふもふは彼の斜め後ろについてきている。彼の声にスーツ姿のそいつが振り返り、鼻で笑った。嘲笑うような、こちらも獲物を目の前にした獣の笑みだった。清潔な長さに切りそろえられた黒髪はワックスでもつけているのか、撫で付けられている。 久しぶりに会ったそのスーツの人間は彼を上から下まで確認してから鼻を鳴らす。

「……まさか生きていたとは」
「あぁ、悪いね、死んでやれなくて」

 皮肉がたっぷりと籠った言葉に男は眉根を寄せ、彼はただただ哂うのみ。チリチリとした不穏な空気は男と彼の間で。『掃除屋』の足元で、男性が連れ歩くポケモンとしては可愛すぎるぬいぐるみのようなそいつが、場違いに欠伸をした。

「貴様、わざわざ後を付けてきたのか」
「男のストーカーなんぞ御免だね。ここに来たのは単なる偶然。だがまあ、お前ら追っていたら飯の種には事欠かんな」
「ハイエナ風情が……」

 飄々と言う彼にスーツ姿の男は憎しみを籠らせた、蔑みを含む言葉を吐き捨てる。だが、それに対しても彼は口元を吊り上げ哂った。

「ハイエナ?はっ、大いに結構!『掃除屋』たるに相応しい喩えじゃねえか。だが、甘く見るなよ。ハイエナは『掃除』だけが仕事じゃない。奴らはライオンだって殺して食う。そうそう、お前らの可愛い『失敗作』も結構食ってやったけど。……あぁ、どうせならお前もここで殺してやろうか?」

 挑発にも似た獰猛な笑みと温度の低い言葉。銃の形をした右手人差し指を男に軽く突き刺して彼はそう言い捨てる。スーツ姿の男は彼の発言に嫌悪感と苛立ちを露わにした。

「……ほう、なら殺して見せろ。貴様ごときに殺せるならな。正義の味方ごっこか?下らんな。現実を知らん甘ちゃんの考え方だ」
「はっ。別に俺は正義なんて振りかざさねえよ。そこまで俺だって暇じゃねえ。ただまあそうだな。ハイエナを敵に回したことはせめて後悔させてやるよ」

 最後まで彼の顔から笑みが剥がれることはなく、オレンジ色でもふもふのそいつが、そのくりくりの黒目をぎらつかせていた。

   *

 ポケモンセンターを出てたっぷり一時間半。彼は少し悩んで一軒の家の扉をノックする。庭には冬咲きの花が植えられ、こぢんまりとしたその家の屋根は少しばかり濡れていた。どうぞ、という声に扉を開けるとそこには良く見知った顔が不敵に笑っている。

「よお、ばばあ。生きていたか」
「ばばあ呼ばわりされるほど老けちゃいないよ」

 暖炉の前の安楽椅子に座っていた女性は、彼に強い笑みを向けた。


「久しぶりだね、お前さんがやって来るなんて。なんだい、命日が決まったのかい?」
「……ん、あー。まぁ、そんなところ」

 冗談交じりで言った言葉に返ってきたのは、肯定。初老を迎えた女性は、注いでいた紅茶をわずかに零す。それを見た彼は歯を見せて苦笑した。少し曲がり始めた腰、白髪交じりの染めた茶髪。動作も少々ゆっくりとしていて、その女性が自分が知っている時より確実に老けていることを彼は思い知る。年月を重ねるとはきっとこういうことなのだろう。ぴんっ、とティーカップの縁を弾き、彼は椅子を後ろに倒しながら笑う。

「まぁ、人間いつかは死ぬよ」
「……ケンカ売ったね?」
「正解」

 にやりとした笑みに二度目の肯定。もふもふのそいつは彼の足元で気持ちよさそうに眠っている。老婆はため息をつき、やれやれと首を振った。彼女はかつてポケモン協会の上層部に勤めたこともある人物。そして隠居した今もその時に培った幅広い情報網を使って彼に彼の求める『掃除』対象の情報を流してくれる人物でもある。見た目の関係はとてもシンプルなギブ&テイク。だがしかし、彼の事情を知る彼女は彼をそれなりに可愛がっていたし、彼は彼でときどきここに顔を見せていた。彼女は彼と向かい合う位置に座って、自らが注いだ紅茶に口をつける。冬の日落ちは早い。いつの間にか夕暮れ時の闇が空の頂に近づいていた。暖炉の火はただただ紅い。

「お前さんが何をしたいのか、あたしにゃ未だによくわからんよ。お前さんに頼まれて、情報を流してやっていた。その情報をもとにお前さんは休みもまともにとらずに獣を狩った。だが、そんなことをして誰が救われる?『掃除屋』としての範囲ではなく、お前さん個人として、だ。わずかな犠牲かい、お前さん自身かい、それともそこの『もどき』かい。いいや、誰も救われやしない。人間全部滅ぼすというなら救われるかもしれんがね。そんなこと到底お前さんには無理だろう。人の欲には限りがない。お前さんが追いかけているものはつまらない亡霊みたいなもんさ。次から次へと湧いてくる」
「知ってら、そんくらい」
「ならなぜ」

 老婆はさらに問いを重ねかけ、結局口をつぐむ。余計なことを言った、という表情が彼女の顔に映るが、彼はどこ吹く風と言った様子でカップを揺らしていた。
 彼には『なぜ』という理由などもはや必要ないのだ。もしかすればかつてあったかもしれないそれは、すでに意味をなさなくなってしまっている。なぜならその理由に価値がないことを、今彼女が話したことを、彼はすでに知ってしまっているから。ゆえに『なぜ』という問いかけは意味をなさない。彼女はそれを知っていて、わかっていた。だから、口つぐんだ。
 もう、理由など完全に失ってしまっているのだ。
 彼は言うなれば転がる石。自らの意思では、止まれない。

「……早く死にたいのかねえ、俺は。早く終わらせてえのかもしれねえや。自分で始めたことのくせに。全く身勝手な話だぜ」

 それは、ひたすらに愚かな愚行である。
 だが、誰もその愚かな行為を嘲笑い、止める術も理由も権利も持たなかった。

「……んな、しけた顔すんなって」
「なんだい。お前さん、笑って見送ってほしいのかい?」

 老婆の冗談っ気のない言葉に彼は失笑する。ついに最後まで口をつけることのなかったカップをソーサーに戻し、彼は立ち上がった。

「さあ、どうだろうな」

 ……かつて。頼むと頭を下げ、彼は彼女の前で泣いた。縋りつくように、懇願した。小さなオレンジ色の、毛玉のようなそいつを抱えて。頼むから『奴ら』相手の仕事を全て回して欲しいと。

 残らず全て殺すから、だから、全て俺に回してくれと。

 安楽椅子がきしりと鳴く。
 老婆は、彼が家を出た後も扉を睨み続けていた。

   *

「はぁー。全く。ほれ出てこいよ。ずっと付けていたことは知ってんだ」

 彼女の家を離れて一時間経たないくらい。彼は昨日の夜から今日の朝まで張り込んだ、その場所に居た。相変わらずグラシデアの花が風に揺れている。彼はそこに立っていた。グラシデアの赤い花を踏みつけ、夜の闇に紛れながら。

「やっぱり夜狙ってくるよなあ。目効かねえし、人いねえし。銃の照準定まらねえし。暗視スコープとかつける時間くれんの?無理だよなあ……」

 ぶつぶつとひとり呟く彼は、まるで物語の次の展開を予測しているようなそんな緊迫感のない声をしていた。この状況がどれほど死に近いものか知っていて、それでもなお焦らない。いや、焦ると言う次元を飛び越えてそう言う感覚全て麻痺してしまっているだけなのかもしれない。ああ今日この場所で俺は死ぬだろうなと当たり前のように受け止めて。

 ただ、彼は嬉々として無邪気に笑っていた。

「……『もふもふ』」

 彼が呟いたのは、この状況で口から飛び出すには大分場違いな擬音語。だが、それに反応を起こすのは、彼の足元の獣。そのふっさふっさの毛並を逆立てるそいつに向かって彼は告げた。

「許可する。射程距離、すべて殺せ」

 淡々と、冷酷に。
 その直後、オレンジ色の何かが闇を走った。
 聞こえるのは獣の遠吠え。赤色。紫電が弾け、膨大な熱量の炎が辺りを一瞬昼へと変える。白銀の牙が刃と光る。赤色。散弾銃だか、サブマシンガンだかの長く、耳障りな発砲音。赤色。セミオートの拳銃であろう軽い音もいくつか。赤色。悲鳴が銃声に掻き消える。紫色の高貴な炎。空を泳ぐそれは花弁の色か血の色か。

 赤色。赤色、赤色。
 グラシデアの花は何も知らないで夜風に揺られている。その光景は残酷で惨いほど美しい。ひどく不謹慎な話なのかもしれないが耳が聞こえなければ、鼻が効かなければ、それはもっと美しく感じられたであろう。この静かであるはずの闇夜、咲き乱れる赤花の光景には断末魔など相応しくないからだ。ぷん、と匂い始める鉄のにおい。長く響く断末魔。喉を嗄らす悲鳴。炎が燃え上がり、そして儚く消えていく。空を裂く長い一発の音を最後に、狂ったように吐き出されていた銃声は止んだ。弾が切れたのだろう。そして、身を守る術を失ったものに待つのは、死。

 それは断末魔と言うより、生きながらにして食われることへの意味を持たない叫び。痛みも感じず、訳も分からず、理性もなく、ただ生への渇望にもがくだけの音。逃げなければというそれだけの本能の声。狂った獣性。だが、それで逃がしてくれる相手ではない。相手は、『兵器』なのだから。
 だが彼もまさかトレーナーが銃器を担いでくるとは思っていなかった。ポケモンがいたということからそれを扱う者がいるであろうということは予想できたが、この世は一体どれほど物騒になってしまったのかと頭を掻く。
 悲鳴、断末魔、血液、肉片、弾痕。『理性を失った何か』が麗しき花園を汚染する。人とポケモンの『阿鼻叫喚協奏曲』に気を取られていたが、いつの間にかこちらにまで『敵』は来ていたらしい。ハッハッハッハッ、と短い吐息の音。時折喉から空気の漏れる音もする。彼はそれに何とも無防備な振り返り方で振り返った。喉笛をやられたのか、首筋からはなにやら明るい色の液体が止めどなく滴っている。黒い毛並はきっと台無しだろう。いや寧ろ映えるのだろうか。

「まったく、ハイエナの相手にグラエナ寄越すかねえ」

 赤い瞳のグラエナに、彼は哂った。その獣の狂った瞳に生気はない。そのくせやたらとぎらついたその目を彼は哀れそうに見るだけ。ぼそりと彼は口の中で呟く。

「あー、やっぱり『もどき』か」

 直後、飛びかかってきたグラエナを彼は躊躇なく蹴り飛ばした。鼻づらに蹴りを食らったグラエナは仰け反り返って地面に叩き付けられる。五秒後に立ち上がったグラエナが見たものは黒い、鉄の。

「もう、そろそろ、おやすみ」

 ぱ、ぱん、と間抜けた音がダブって、それぞれ風穴を開けた。小銃は扱いやすいが、狙いづらく当たりづらい。だが、いくらなんでもこの近距離なら外さない。一秒後、行き場を失った血液が吹き上がり赤い花を飾る。どさりと横向きに倒れたそれの横腹は、すでに食い千切られて骨が覗き、飛び出した腸が地を這っていた。心臓が、未だ微かに痙攣している。どうやら彼が手を下す必要もなかったらしい。胸糞悪い最低の気分だけが、彼の肺のあたりに溜まっている。
 しばらくして、血の色に装飾され、鉄の香りの香水を振り撒かれた花園は、静寂を取り戻した。

「……『もふもふ』」

 彼の呼び声に、オレンジ色“だった”獣が愛らしい顔を覗かせた。ぽてぽてと近寄ってくるその獣の目線に合わせて屈んだ彼はその頭を撫でる。そして、空を仰いで溜息ひとつ。

「……やっぱり死ぬ、な。こりゃ」

 ヒュー、と彼の喉から空気の漏れる音が鳴った。

「グラエナ『もどき』、のとき、かあ……。あの妙に重なった、音、はそうい、うわけね」

 高速で打ち出された鉛玉は、彼の肺を突き破っていた。
 オレンジ色“だった”獣は主の重体も知らない。ただ無邪気な顔で、彼の肺からとくとくと湧く赤い水でのどを潤す。そんなそいつに仕方ねえなとぎこちなく笑い、彼は抱きかかえるようにして、いつものようにそいつの頭を撫でた。

「あー、痛みを、感じねえって、こうい。うことか。なあ、『もふもふ』?」

 ざらざらとした舌の感触が、彼の皮膚にぬくもりと一緒に伝わる。『もふもふ』と呼ばれ続ける『それ』は何も答えなかった。ただ無心に彼の血を舐め、決して潤うことのない喉を潤そうとしている。血液は喉の渇きを増すだけなのだと、そいつはそう知らないのだ。

「『もふもふ』ぅ……」

 白い吐息を吐き出しながら、彼はそれを抱きしめた。ポケモンならば炎タイプに分類されるであろうそいつは、とても、とても暖かい。

 『もどき』。
 彼は『それら』のことをそう呼んだ。先程のグラエナ然り、彼の主な『掃除』対象然り。そして、今彼が『もふもふ』と呼ぶオレンジ色のそいつ――ブースター――も然り。『もどき』は人工的に操作を加えられた、あえていうなら『ポケモンだった生き物』、である。
 『このポケモンがもっと強かったら?こんな技を覚えたら?そうしたら、もっと、強くなるのに』。……それは勝手で吐き気のする無邪気な願いだ。ポケモンが技を覚えるのは自然の世界で身を護る為。本来はそれ以上でもそれ以下でもない。そのポケモンがその技を覚えないのにはそれなりの理由があり、それを保つことがバランスである。無理やり技を覚えさせ、強くしたその先に待つのは『崩壊』だ。
 『もふもふ』と彼が呼ぶブースターの姿かたちをしたそいつは、『嬉』以外の感情がない。睡眠欲と食欲と殲滅欲しかない。目の前の敵を殺すことだけが、それを食い散らかすことだけが、そいつの存在意義であり『嬉』の感情の生まれるところだ。そいつはそれ以上もそれ以下も求めない。寧ろそれを与えないと誰彼構わず襲ってしまう。それが、驚異的で圧倒的な強さの代償。
 人を食い、獣を食い、痛みを知らず、命尽きるその一瞬まで攻撃を止めない忠実なる『兵器』。力を追い求めた愚かな人間が造り続ける、悲しき生き物。その一方で、失敗作は当然『破棄』される。時には野生のポケモンとして、時には『狂暴になって手に負えなくなったから、捨てました』という報告で。『掃除屋』達は何も知らずに彼らを殺す。真っ赤な血を浴びて、何も知らず、愚かに哀れな獣を屠り続ける。……彼らより薄汚れ血にまみれた人間が、いるというのに。

「ごめんなあ。ごめんなあ。馬鹿でごめんなあ」

 口の中に溜まった唾液と血液を吐き捨て、彼は許しを請う。一体誰に対してなのか、何に対してなのか、それは彼自身にもよくわからなかった。『もふもふ』はそれに何も答えない。きょとんとした顔で首を傾げるだけだ。感情表現がそいつには出来ない。血だらけで、それでも暖かいそいつを彼は強く掴む。
 あぁ、愚かだと。そう彼は思うだけ。

 下らない正義感は無力だった。
 愚かな復讐心は誰も救えなかった。
 すべて殺してやると、その遠い約束さえも彼は自ら終止符を打った。

 抵抗しようと思えば、できただろう。
 いまここで血など流していなかっただろう。
 彼は、負けたのだ。諦めてしまったのだ。
 死ぬことを赦されない、『渇き』から逃れられない獣を置いて逝く自分は最低だと、彼はそう嗤った。

「……『もふもふ』」

 だから、ここから先は、彼のエゴ以外の何物でもない。

「追え。追って殺せ。あいつら、あいつら、全部、殺してしまえ」

 きょとんとした黒目が、突如として猟奇的な光を宿す。耳がぴくぴくと揺れる。それは、呪いだった。
 なぜ自由にしてやらないのかと、誰かはそう問うだろう。貴様の勝手な理由に、勝手な復讐になぜそいつを巻き込み殺すのかと、そう尋ね、罵るだろう。だが、『もどき』は戦闘本能と食欲が一緒になったような『怪物』。彼の死後に自由をくれてやれば、そいつはきっと無辜のものたちを殺すだろう。無邪気に、『餌』を漁るだろう。
 それは勝手な理由で先に逝く彼の、醜いエゴ。それを振りかざす権利もない彼の最後の正義。

「殺せ。壊せ。全部全部、あいつら全部!燃やし尽くしちまえ!!」

 血反吐を吐きながら、彼は呪詛を叫ぶ。冷たくなっていく指先には感覚がない。ぼやけた視界はオレンジ色の何かを朧に映した。赤い花が咲き乱れている。鉄の匂いは風に流され、残っているのは芳醇な花の香だけ。

 血の色の花が、咲き乱れる中、オレンジ色のそいつは闇に融けた。

   *

 事はそれから数日後のことである。
 とある会社の研究所が、謎の火災を起こした。
 いや、火災と言うのも生易しいかもしれない。その火災の後に広がっていたものはもっと凶悪で、怖気の走る光景だったというのだから。炭化した死体がいたるところに転がり、なんと骨まで焼けていたという。所々、食われたような跡も見られた。死者よりも『行方不明者』の方が多い、なんとも不可思議な火事であった。

 必死の消防活動にもかかわらず、その紫色をした火は紅い火と一緒に踊っていたと目撃者は語る。
 一部でそれは“せいなるほのお”という技の炎ではないかという噂も飛び交ったが、それを扱える唯一無二であるはずの巨大なポケモンの目撃情報はどこにもなかった。
 ただ、その傍に炎に焼かれ、皮膚と体毛を爛れさせたオレンジ色の生き物の死骸が転がっていたという。

 一方、グラシデアの花園で、半分腐敗した男の死体が見つかったと、新聞の隅に掲載された。

***    ***
挿絵は千助さんからの頂き物です!!!お忙しい中、有難うございますっっっ!!!!



愚者狂奏曲

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2012.10.21  02:02:12    公開
2012.12.16  02:46:43    修正


■  コメント (2)

※ 色の付いたコメントは、作者自身によるものです。

コメント有難うございますバウムンクさん!!

特マン……?……もしかして特殊マンダさんですか。おお、読んでくださってありがとうございますm(__)m
怖いと思って頂けたんですか。それはそれは。中二病全開で書いたかいがあるってものです。有難うございますっ!千助さんの絵はもう、素晴らしすぎて……!!はい///
ほうほう、なるほど。まあ、彼は「何も感じない」わけではないと思いますが……。それでもある意味でそれは当たりかもしれません。「もどき」と同じとは得手妙手ですね。
暗い話が書きたくて書いた話ですからね。彼らは皆凄惨な死に様です。ええ、彼らは完全悪ではありません。本編を引用するなら「哀れな獣」ですよ。要は実験体ですしね。
そそられてくださったなら何よりです。お褒め預かり光栄です。有難うございます。がんばります。
それでは、失礼を。

13.3.30  17:16  -  森羅  (tokeisou)

こんにちは。
特マンもといバウムンクです。

怖い。これを読んだとき、第一に思った感想がこれでさぁ。描写といい、彼の性格といい、千助さんの絵といい。
しかし、奥底まで読んでみると、これは意外と楽しいものがあるでさぁ。暗い現実に向き合う内、自他共に認める殺し屋になり、ハイエナと罵られ、忌み嫌われ、ついにはそれに何も感じなくなる。彼も擬きと同じようになってしまったのでしょうな。
擬き達の死に方も又、無情でしたな。俺が思うに、彼らは完全な悪では無いのに。ただ、今に汚染されただけなのに。神はそのようなことを御許諾なさらないのでしょうな。
そそられます。いい出来であると、豪語できます。
これからも頑張ってくだせぇ

13.3.27  22:05  -  不明(削除済)  (bomannda)

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