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我楽多たちの物語

著編者 : 森羅

HAPPY BIRTHDAY TO YOU.

著 : 森羅

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“けーき”というものが食べてみたかった。

 母さんに聞いた、とても甘くておいしいもの。誕生日に食べるのよと母さんはそう笑って、でも用意はできないわと悲しそうに笑っていた。
 わたしはそれがとても食べてみたかったのだけれど、父さんが渡してくれた“それ”に“けーき”なんて吹っ飛んでしまった。

―――ほおら。誕生日、おめでとう。誕生日祝いだよ。

 それはわたしが一番欲しかったもので、父さんは周りの人達にお前は娘を甘やかせすぎだと、そう笑われてた。
 優しい父さんの声。母さんは隣で笑っていた。近所の人たちもまるで家族みたいに暮らしてたから、揃って自分の誕生日を祝ってくれた。
 笑顔しかなくて、人は優しくて、暖かい場所。きっと人生で一番、

 優しい記憶。

 両手両足の自由を奪う手枷と足枷は、冷たい。
 冷たくて、硬くて、痛くて、重たくて、ただただ怖くて。
 気絶していたのにあのときわたしが目を覚ましたのは周りで声がしたからだ。どうします、死にかけですよと言う男二人の声ともう一人それに答えたのが。

―――選択肢を与えましょう。

 美麗な女の人がしゃがみこんで死にかけのわたしに囁いた。
 三人おそろいの黒と見違えるほど濃紺の外套を羽織って。

―――ねえ、どうしたい?

 ぞっとするほど優美な微笑みを浮かべて。

 きっと、そのとき、わたしは、死んだ。

   *

「ん、んぅううん!!」

 ぐいいぃーと伸びをして、ボクは目を開けた。ベッドのすぐ横にある窓を開けて、そこからの景色を堪能。んー、今日もいい天気っ!
 “涼しい”と“寒い”の間くらいの風がボクの腕を擦る。左手首の飾り紐。その一際目立つ金輪を嵌められた黒石が揺れて、色の抜けた金髪がさらりと靡いた。髪は随分伸びてしまったらしく肩にかかり始めている。微かに目覚め始めた町のざわめきは朝焼けに焼かれて静寂とさざめきを繰り返す。石でできた建物の並ぶ街並み、樹木、反り立つ“壁”。この宿屋の二階の窓、つまりここからは町の様子が一望できて得したなんだか気分になる。灰色の石壁に緑色の樹木の対比が赤色に染まってとってもきれい。ボクは王様じゃないのにこんな贅沢していいのな。と言うか一番安い宿を探してここにたどり着いたっていうのにこれはお得感満載だ。窓から見える光景は今日で三日目、つまりこの地方の首都から丸一日程東に歩いた町に訪れて三日目だけど、飽きることなんてない。三日目なんて新鮮のうち!あんまり人の中を歩くのは好きじゃないけど今日、どこかに散策に行ってみようか。
 窓際に頬杖をついて、そんなことを思っていると机の上に置いていた赤色と白色をした球体がボクを呼んだ。この地方では大抵の人が一生その球体に、その中にいる生き物に、触れることさえないのだろう。この地方では政府、通称首都が許可した人間以外は『基本的に』その生き物を、ポケモンを扱うことを赦されていないのだ。勿論、『例外』はあるけれど、それでも多くの人は何の疑問も持たずに“壁”によって囲まれた町の中で一生を終える。“外”にいるポケモンから町を護る為の“門”と“壁”。だがそれは同時に『ヒト』の行き来さえも妨害する。ボクにとってそんな“門”という存在はとてもつまらなく、くだらないものでしかない。けれど勿論、それが当たり前の人たちを馬鹿にするつもりもなければ嘲笑う権利もない。そして、自分の不幸を嘆く必要もない。ボクは赤と白のそれを振り返り、にっと笑う。ベッドが体重移動によって軋む。おはよー、と彼に声をかけると、それは言葉を返すようにまた左右に揺れる。

「クゥ、ごめんね。そんなところに入って貰ってて」

 カタカタカタ、とボクの声に答えるようにクゥのボールが今度はもう少し大きく左右に揺れる。クゥは比較的大きなポケモンだ。なのにあの小さいボールの中に入ってくれている彼のことを思うと窮屈なんじゃないかなとボクはいつも思ってしまう。ジルは「ポケモンに居心地の良い空間になってるはずよ」とそう言うけど。
 と、噂をすれば何とやら、ジルが部屋の扉を開けて入ってきた。反射的にボクは扉の方を振り返る。今日のジルはなんだかご機嫌斜めらしく、いつもはポニーテールで一纏めにしている栗色のそれを無造作に下してわしわしとぐしゃぐしゃにしていた。ボクはそんなジルに声をかける。

「ジル」
「あら、起きてたの?折角、起こそうと思ったのに。あなた、寝すぎよ。危機感がないの?それとも死にたいの?」
「別に。どうでもいいよ、そんなこと」

 自分でも自覚できる程素っ気なくボクはジルに答えた。ジルもジルでボクに対しあらそうと無関心に呟いただけ。ジルから目を離して、朝焼けの空に目線を戻す。彼女は一体ボクの何か、それを説明するのは少しばかり難しい。
 歳は25,6ばかり。セピア色の瞳で栗色のストレートヘアーをいつもはポニーテールにしている女性だ。すらりとしていて美人の部類に入るだろうけど、服なんて動きやすければいいのよ、という考え方のせいかあまり着衣に注意を払わない(もっともボクにとっても服装なんてどうでもいいのでここはジルと意見が合う)。勿論親子ではないし、兄弟でもない。敵だと言えば確かにそうだし、味方だと言えばそう言えなくもない。また保護者と言えばそうなのかもしれないと思うし、監視者と言えば勿論そうもなる。付き合いはそろそろ6年。ほぼ常に傍にいる、敵……であり現在尤も信頼のおける人物。結論としては“奇妙な関係”なのだ。まぁ、どうせボクに選択肢はない。ジルに従って、言われた通りに街々を回るだけ。色々なものを見れるのは楽しいけど。
 
 と、背中の向こうで殺意が走った。
 反射的に振り返り、しかしボクは何もしない。机の上のボールも全く動かない。ただ、平然と冷静に、また無関心に無表情にボクは自分の喉笛に突き刺さる直前の爪を見る。鋭く輝く爪がボクを殺すのに後一秒もいらないだろう。けど、ボクにとってそれは他人事にも等しい。扉側の壁に寄りかかって腕組みをしているジルもボクと同様、特別表情を崩していなかった。まぁ、ジルがこのペルシアンに指示を出したのだから当然だろうけど。ボクはペルシアンに視線を下してからまたジルへと視線を戻す。ふわああ、と欠伸が漏れた。

「こんなところでポケモンを出すのってどうかと思うんだけど。街中だよ?」
「街中じゃなくて宿屋よ。……まぁ、ばれなきゃいいわ」
「ふぅん。ジルともあろう人がそんなこと言うんだぁ」
「あら、ひどい。私ってそんなに堅物かしら」

 まるで世間話のような軽い会話。ボクの声が震えることなんてない。この状況に動揺しないのは単に“慣れ”と言うものもあるんだろうけど、なによりボクは死ぬのなんて怖くない。寧ろいつ死んでもいい。ボクはそういう生き物なのだから。
 しばらくそうやってボクは喉元に凶器を突き付けられながら――時々欠伸を噛み締めながら――ジルと“談笑”していた。朝ご飯はどうするだとか、出掛けようよだとか。……他人から見れば狂気じみた光景に見えるだろう。けど、ボクにとってこれはもう日常にも等しい。白色の毛並みの巨大な猫がジルの指示で爪を退けてくれたのを確認してから、ボクはぐうぅっと伸びを一回。姿勢変えさせてくれないから、また固まっちゃったじゃん。ベッドの上で体を前屈させたり、背中を伸ばしたりストレッチをする。前屈をしていると、ペルシアンが甘えるようににゃおと鳴いてベッドの上に飛び乗ってきた。
 ペルシアンの体重にボロいベッドのバネがびよよん、と跳ねる。ボクの体が少し浮いて、小さな着地の衝撃がお尻を襲った。少しだけ驚いたボクに、ペルシアンはしたり顔。ボクはにぶにぶとバネの入ったベッドを手で押してみる。……反発した。すごい。これの“遊び方”に気が付いたボクはペルシアンと互いににやりと目を合わせて臨戦態勢を取る。だけどそれに茶々を入れるのはジル。

「駄目よ。そんなところで飛び跳ねないで。ザルみたいな脳なのね、サル以下だわ。それくらいわかってくれる?」

 ……折角遊ぼうと思ったのに。ジルにザル頭、サル以下と散々に言われてボクは口を尖らせ不満を示す。ぼよん、と後ろにベッドに勢い良く背中から倒れ込み、ボクに寄り添うように隣に寝転んだジルのペルシアンをぐりぐりと撫でたり、引っ張ったり好き放題じゃれあう。ジルはボクらの様子に溜息をついて、部屋に据え置かれていた小さな椅子に座った。

「だって、つまんないんだもん。ねー、ルシアン?ルシアンもつまんないよね。ジル、標的わかってるくせになんで動かないの?」
「向こうが動かないのにこちらが動くわけにもいかないでしょう。相手が大きいからできるだけ事は“外”で片づけたいわ。証拠ももう少し必要ね。だから今回は付いて来なくていいって言ったのに」
「えーーっ。まだ動かないのー?今回のジル、慎重すぎるよ。いっつもならもう動いてるじゃん!あとボク、あそこで留守番は嫌(や)なんだもんっ」

 ごろごろとベッドの上でクルマユのように転がり、ペルシアンことルシアンの上に覆いかぶさるように抱き着く。ルシアンという名前はボクが勝手に付けて呼んでいるもの。ちなみにジルは其れに関して何も言わない。たった一言ジルが言ったのは“ペ”を取っただけね、だ。ルシアン自身は自分のことだとわかってくれているようで、ちゃんとジルの呼ぶ『ペルシアン』にもボクが呼ぶ『ルシアン』にも反応してくれる。
 11、12のボクが乗れるほど大きなルシアンの上でその湿っぽい鼻の頭を触ってみたり、耳の後ろを掻いてあげたり。ポケモンと言う生き物はとても暖かく、そして“きれい”だ。その生き方も姿も。ボクはさかしい人間よりもそんな彼らが大好きで、ルシアンもボクがじゃれ付くと怒らず一緒に遊んでくれる。ルシアンの本来の主人であるジルも、基本的にボクの好きにさせてくれる……のだが。一人と一匹でにゃおにゃお言い始めたボクらにジルは静止をかけた。

「そろそろじゃれあうのはやめなさい。下に響くわ。私、朝から追い出されるのは嫌よ」
「……はぁい」

 そろそろ怒られそうなのでやめよう。ボクだってこんな特等席みたいな宿を追い出されるのは嫌だし。
 もう一度風景を眺めようとして、けどジルが何か読んでいることに気付いたボクはベッドの端でその足をぶらぶらさせる。

「ジル、何読んでるの?」
「“手紙”よ。あなたも読む?」

 目線をその紙切れから動かさずにジルは淡々と答えた。ジルの細腕がにゅっとこちらに伸びて、差し出されたそれにしかしボクは顔をしかめて首を振る。

「ボクが文字読めないの、知ってるくせに」
「教えてあげたでしょう。読めなきゃ駄目よ。ほら、頑張りなさい」

 差し出された紙は元の場所に戻る様子がなく、渋々受け取る。びっしりと黒の斑点が浮かぶ紙にボクは舌を出した。うえぇ、藪蛇だあ。余計なこと、聞かなきゃよかった。 
 こうなれば先に顔を洗うとか、そういう言い訳はジルに通用しない。ボクの意志も感情も関係なく、“ここにいること”しか選択肢のないボクにジルはとても厳しい。とりあえず一枚は読まないとルシアンの爪が冗談ではなく本当にボクの腕くらいには突き刺さるだろう。前の傷はまだ完全に治っていない。

「ふぇ。……ほえるおーの、……ホエルオーのむ……れ?は……じゃなくて。が?ううぅ〜ジルの意地悪……」

 言葉をしゃべることと文字を読むということはボクにとってかなり違う、というか全く別のものだ。話を聞けばボクにだって内容を理解することができるのに、この文字とかいう物体はしゃべることほど簡単じゃない。誰なんだろう、こんな面倒なものを作ったのは。首都の人間だろうか。
 四苦八苦、悪戦苦闘、四面楚歌を強いられながらボクは必死で文字と格闘する。ジルに文字を教わったころ、あなたと同い年くらいの子供は大概読めるわ、とジルに聞かされたけどそれは冗談だと信じたい。……尤もジルはそんなつまらない冗談や嘘を言わない人間なのだけれど。ボクの隣でルシアンがこっちの気も知らずに大口を開けて欠伸をする。そして尻尾を数回ぱたぱたと振ってからころん、と寝転んで寝てしまった。うぅ〜、ずるい〜。
 髪の毛も整えず顔も洗わないまま。そんなボクがやっとのことで一枚目を読み切った頃にはジルはとっくの昔に全てのそれを読み切ったらしく、じっとボクを観察していた。意地悪っぽい笑みをその口に浮かべて。挑発されてると言うか完全に遊ばれている。ちょっとした達成感は心の中に押し込めて、できるだけむっとした表情で顔を上げたボクにジルは頬杖をついて尋ねてきた。

「何が書いてあったの?私に教えて」
「……ホエルオーの群れが観察されたって。南西の港町で。漁船と乗ってた人が行方不明になったって。でも、ホエルオーの群れとは関係なくて、実際は“不登録(アウトロー)”が襲ったせいだったみたいで、乗ってた人は助かったって。いいなぁ、ホエルオーの群れ、ボクも見たい。……ホエルオーってジル、見たことある?ボクはないんだけど、すっごくね、大きいんだって。人が50人くらいは余裕で乗れるくらい!」

 ホエルオーに心奪われながらボクはジルに“手紙”を返し、ジルがその内容を確認する。ざっと紙に目を通してからジルは軽く頷いた。

「正解」
「ん。……そっちは何が書いてあったの?」

 ギィ、とまたベッドが軋んだ。ボクの一枚とは比べ物にならない枚数がジルの手にはある。読むのは嫌いだけど話を聞くのは好きだ。ポケモン関係の話は特に。ジルはボクの言葉に小首を傾げて、あぁと説明してくれる。

「そうね。前にバンギラスの話があったでしょう?あれが駆除されたらしいわね」
「……死んじゃったんだ」

 バンギラスの話は前の“手紙”に載っていた。ちなみに“手紙”と言うのは新聞やその他もろもろのジル専用の通称。ジルが使っていたその言葉をボクは何の疑いもなしに覚えたのだけれど、ジル以外で新聞のことを“手紙”と呼ぶ人はいない。覚えてしまってから下手な言葉を覚えてしまったと後悔したものだ。ただジルがそれらをそう呼ぶのはポッポやその他飛行タイプが色々なものと一緒にまとめてジルに運んでくるからかもしれない。勿論、受け取りは町の外だ。一般人はポッポやピジョンが荷を運ぶなんてこと考えないだろう。
 暴れて畑を壊してしまったというバンギラス、死んじゃったんだ。悲しい気持ちになるボクにジルは肩をすくませる。

「落ち込む必要なんてないわ。ヒトとポケモンの境界線を侵したのだから。ヒトの領域にポケモンは入ってはけないのよ。ポケモンの領域をヒトは侵していないのだから」
「でも、その領域の境はヒトが決めたものだよ、ジル」

ボクがそう口をはさむとジルはそれを鼻で笑って無視した。むっ、とするボクだけどそれでもジルの話に耳を傾ける。

「もう一つは……、あぁ、首都に“不登録(アウトロー)”が侵入したみたいね。どうなったのかは載っていないけれど……まぁ、明白でしょうね」

 ボクは黙り込む。あぁ、暗い話ばっかり。“不登録”と言うのはこの地方でポケモンを扱う人々の『例外』にあたる人々だ。彼らは本来の手順、即ち首都から“ポケモンを扱うこと”に対する認可を貰っていない。首都の意向に反して勝手に町を飛び出し、そしてそれゆえに二度と町には入ることのできない人々。なんでその“不登録”は首都に侵入なんてしたんだろう。どんな理由があったんだろう。首都を恨む“不登録”はもちろんいるだろうけど、それは無駄死にも等しい。ルシアンがふわあと欠伸する。ボクはその毛並を流れに沿って二回撫でた。
 ざわざわと活動時間に入った町が、そのざわめきを増していく。窓の外から入ってくる風には生活臭が混ざる。沈んだ部屋の空気を物ともせず、むしろ全く気にかけずにジルは淡々と告げた。

「でも、やっぱりあなたは読むのが遅すぎるわ」
「……前よりは、ましになったほうだよ」

 唐突な批評。それはおおよそ正しくて的確なのだけれど、結果だけが全てだと言われているようで(いや実際そう言われているのだけど)それがボクは嫌いだった。言い訳はジルに通用しない。ボクはそれをこの6年間で身に染みて知っている。知っているくせについつい口を挟んでしまう。ジルがどう反応するのか、よく知っているのに。ジルは紙切れをひらひらさせながらうっすらと笑う。ぞっとするほど空っぽな笑みで。

「だから?だからどうしたって言うの?ましになったとかならないという話じゃないでしょう?私が言っているのは遅い、ということだけ。違うかしら?」

 朝の風が開け放した窓から入ってくる。剣呑な雰囲気に朝食の匂いが混ざったそれが淀んで濁った。ジルは別に怒っているわけじゃない。むしろ、それは教育にも近い。わかっている。
 不穏な空気にルシアンがその目を細めた。ジルは椅子から立ち上がってあっという間にボクの胸ぐらをつかんで持ち上げる。一体どこにそんな力があるのかと聞きたくなるような荒業に、ボクができる唯一の抵抗がジルを睨み付けるだけ。ボクはジルに“反抗”はできるけど、もっと根本的な部分、ボクはジルに“逆らえない”。
 
 ボクの世界はジルが廻しているのだから。

 それでもボクは必死で抵抗を試みる。ぶらぶらと揺れる足が、あっちへこっちへ踊った。

「ボクはジルのそんなところが嫌いだ。ボクだって何もしてないわけじゃない!」
「結果が伴わなければ何もしていないのと同意よ。言ったでしょう?頑張った、なんて言葉は無意味。失敗は失敗なのよ。私たちには成功しか許されないの」

 過程ではなく結果だけが全て。
 求められることを執行する力だけが必要で、必須。
 それだけが。それだけが、“ボク”の存在意義。

 じたじたと宙ぶらりんされながらもボクは足をばたつかせて暴れる。淡々と幾度となく聞かされた、繰り返されたジルのその言葉の意味をボクはよく知っている。ジルは正しい。間違ってなんていない。ボクの世界を廻す彼女の言葉は少しも狂ってなどいない。それでも今日はそれが、久しぶりにやけに勘に触ったのだ。こんなことしても無駄だと知りながらジルを睨み付け、声を張り上げる。

「ボクは好きでこんなことやってない!!!」
「でもそれならあなたは死ぬしかないわ。『シエル』、あなたに選択肢はないの。……あなたがあなたとして生きている限りね」

 ボクの声に返されるのは無情なジルの声。事実を告げる言葉。ボクは、ボクは。
 ぎゅうぎゅうと首のあたりが締め付けられて苦しい。胸のあたりはもっと苦しい。けど、残念ながらこれくらいでは死ねない。わかってる。それくらいわかってるよ!

「わかってるよ!わかってるけど、わかってるけど!!……もういいよっ!ジルの大馬鹿!」

 振り子の要領で足を振り上げ、ジルの腕を無理やり振りほどく。世界が宙返りして、ボクはベッドの上に足を付けた。軋むバネの勢いをそのまま利用して、大きくジャンプ。机の上のボールをひっつかんで、扉を蹴り開けて走った。
 階段を駆け下りてそのまま宿屋一階の扉も勢いよく開け放つ。ぱああん、と言う木がぶつかる音に宿屋の主人が何事かと目を丸くしているのが視界の端に映った。わかってるわかってるよ。もうボクにはそれだけしかない。それだけしか存在意義がない。知ってる。知ってるよ。でも。でも。

 ボクには……ボクにはジルとクゥしかないのに!

  *

 金色の髪に、アメジストのごとき薄紫の双眸、そして声変わり前の子どもの声帯を持った嵐が、過ぎ去った。

 開け放たれた扉……は壊れていないようだ。窓から流れる風はさっきの状況など他人事のように優しくカーテンを撫で付ける。
 ジル――正式な名前はジウォルと言い、ジルは愛称であるのだが――はしばらく状況に頭を痛めていたが、とりあえず扉を閉めて、あの子供――先程彼女が『シエル』と呼んだ子供――とは別にもう一つ備え付けられた彼女用のベッドの淵に座り込む。
 ぎしりと軋む音にどうにも哀愁漂うが、彼女は一息ついてから頭を上げてじっとしていたペルシアンに声をかける。

「ペルシアン、あなたはお戻りなさい」

 忠実なシャム猫はみゃうと一声鳴いて、小さなボールの中に収納された。
 静かになり過ぎた部屋に外の喧騒が追い打ちをかける。音と言うものは時に静寂を際立たせるのだ。深い溜息をゆっくりと吐き出してからジルは机の上に放置していた“手紙”――各地から寄せられた、情報を共有するための報告書――を掴んでまた元の位置に戻る。ホエルオーについてのそれはシエルが力を込めすぎたのか、少し皺が寄っていた。ジルはそれにくすりと微かに笑い、しかし1秒もその表情を維持することなくその笑みを引っ込める。“手紙”を脇に寄せ、彼女は自らの報告書を手に取った。

「『慎重すぎる』……確かに割に合わないわね。でも今回だけはそんなこと言っているわけにはいかないのよ」

 事細かに情報の書き込まれたそれ。いつもならここまでしたりしない。確かに自分は神経質すぎるほど慎重になっている。
 シエルだって本当は連れて来たくはなかった。縛り付けて来ればよかったと半ば本気で後悔しているくらいだ。さっきも少し気が立っていた。言いすぎたとはこれっぽっちも思わないが、もう少しましな言い方があったような気もする。ふぅ、と小さくため息。再び目線を報告書に目を落とし、しかし内容は頭に入ってこない。いつもなら教える仕事内容も今回はシエルに伝えていなかった。尤も下手に隠したり誤魔化したりするのはシエルに逆効果なのでそれとなく当たり障りのないことは教えているが。

―――痛い、ぃたいよお……。

 痩せ細った腕、触れれば折れてしまいそうな脚、虚ろな目、汚れた身体。

「全く、厄介にもほどがあるわ」

 ……あの子、面倒なことを起こさないと良いけど。
 一抹の不安がジルの胸をよぎった。

 シエルは世間知らずなのだ。

   *

 ジルなんてジルなんて……知らない知らない知らあぁあい!

 比較的首都に近い町だからか、ここはしっかりと舗装された綺麗な道で町だ。門も石と鉄で出来ていて、壁も石のブロック塀。基本的に首都との距離に壁の大きさや強固さは比例していく。それは同時に人口も訪れる商業ギルドの数や旅人の数も示すと言ってもいいだろう。というわけでこの町は、“大きめの街”だと十分に言える。
 怒りにまかせて歩いている間にどうやら市場に迷い込んだらしく、道の両脇、その左には果物や野菜が荷台に乗せられていて右には魚が並べられていて。混雑する細い通りで売り子の声と客の声が騒がしい。彩り豊かな光景にくるくるとお腹が鳴る。
 そういえば朝ごはん、食べてない。こくんと喉が鳴って、無意識に麻のズボンのポケットに手を突っ込む。クゥのボールと後は茶色の小さな小銭が数枚ポケットの底に張り付いていた。ジルはボクに大きなお金を渡すことなんてないから小遣いに貰ったこれも少額のはず。足りるのかなぁ……?
 モモンの実に張り付けられた値段表と自分の所持金とを睨めっこ。えーと、とりあえず買える、と思う。

「クゥ。ボク、わからないよ……」

 情けない声にポケットの中でクゥが暴れた。しっかりしろよと言いたげなそれにボクは気弱に笑う。……はあ。町の中ってメンドクサイ。じいいっと小銭と売り物とを見比べて突っ立っていたせいか、売り子のおばさんが気の良い笑顔を浮かべて声をかけてくる。ぼっちゃんどうしたの、と。ボクはそれに対してそれください、と人懐っこく笑った。


「おいしー」

 かぷり、と噛り付いたモモンから果汁が溢れて顎を伝った。頬袋に食べ物を詰め過ぎたパチリスみたいに口を一杯にしてボクはきゅーっと目を細める。町の中のものって古くなってて質が良くないこともあるんだけどこれは美味しい。ごくん、と呑み込むとモモン独特の甘みと爽快感が喉に冷たく残った。
 指に残った汁を舐めとり、ボクは立ち止まって周りを見回す。背の低いボクの上に人の波が影を落として消えていく。誰もボクに気にも留めない。当然すぎるそのことがけれどなんだか寂しくて、ていっと舗装された石畳の上に転がっていた小石を蹴った。空しさが足し算されてため息が漏れる。怒りに任せて歩いてきたせいでどっちに向かって歩いて来たのか自分でもよくわからないけど、感覚を頼りに帰ることはすぐ出来るはず。だけど、今は宿屋に戻る気にはなれない。

「……ジルの、馬鹿」

 とぼとぼとまた歩き始めたボクにの頭の中ではボクが悪いとそうわかっている。ジルは当然のことを言っただけなんだから。ジルは、正しい。そうわかってる。
 けどさ、けどさぁ!!……苦手な本だって、“手紙”だってボクは必死で読んできた。そうしなければならないと、ボクが生きる道はそれしかないとそう知っていたから。褒めて欲しかったなんてないけど、認めて欲しかった。わかってる、そんなことでジルはボクを認めないと。ジルはボクが何をしようともきっと褒めることはないだろうと。それが良くも悪くもジルなのだから。甘いことは決して言わない。この世界がどれだけ辛いものか、厳しいものか良く知っているジルだから、絶対に甘ったれたことをジルは言わない。そんなことでボクを慰めようとはしない。それがジルの優しさだから。ボクはそれを知っている。それでも、ボクには彼女とクゥしかいないのだ。
 絶対的信頼を置ける、ものたちが。
 
「ちょっとくらい……ってボクは思うんだけど、クゥ?」

 はあ、と溜息。クゥのボールが慰めるように揺れてボクはちょっぴり笑った。飴と鞭の使い分けとか言う言葉があるらしいけれど、それならジルは鞭ばっかりだ。おかげで冗談でも喩えでもなく生傷が絶えない。なのにどうしてジルの所にいるのかと聞かれると困ってしまうけど、それ以外ボクに選択肢がないという答えは確かにある。
 ……気が付いたら清潔なベッドの上で寝ていた。目を覚ましたボクの傍にはいつもジルがいて、ジルはボクにいろんなことを教えてくれた。文字の読み書き、護身術、町のこと、首都のこと、法律。それはボクがこの世界に生きているために必要なものだった。ボクの世界はジルが廻している。ジルなくしてボクはいない、この“人間の世界”にボクは要らない。ジルにボクが必要なくてもボクにジルは必要なのだ。
 
「かえろ……」

 意地を張るのも終わりだ。どうせジルには勝てっこないんだから。と言うか今までも何度かこうやってボクがジルに対して一方的に憤りをぶつけたことは多々あるんだけど、ボクが飛び出そうが暴れようがジルは完全に無視を決め込む。そのうちボクがこんな風に頭を冷やして冷静になってジルの所に戻るとジルは何事もなかったかのように笑って、それでおしまい。ジルと言う女性にボクはきっと一生勝てないだろう。
 今日もそれと同じだ。だから、帰ろう。帰って何かもう少し食べたいなぁ。それからジルとポケモンの話でもしよう。ルシアンとじゃれよう。プラス方向に動き始めた頭にボクはうん、と笑って。
 
 くるりと踵を返しかけたボクの目に、“それ”が映った。
 働き盛りを通り過ぎて、少し年を食った大柄で剃髪の男。右目は刀傷でも受けたかのように鋭い傷が走り、その瞳は閉じられていた。勿論、ボクのことなんて目に入っていないだろう。ゆっくりと目の前の建物の扉を開けて中へと消えていく。
 世界が硬直したと同時にボク自身も動けなくなった。記憶の器が溢れて、ボクを浸食する。

―――この餓鬼、何しやがる!?……ぅうわっ、よ、寄る……っ!!?

 腕に着いた、腕章。その赤銅色の紋章(エンブレム)はほとんど見ることができなかった。両手で押さえられた片目からは血が、血が。

―――諦めなさい、あなたにはもう還る場所がないのだから。

 わんわん泣いた。これ以上泣くことなんてないってくらい、泣いた。一生分の涙を使い切った。それくらい、泣いた。ジルはその時、何も言わなかった。何も言わずに泣かせてくれた。
 ゆっくりと顔を上に向かってあげる。見えてくるのはひときわ大きな建物。二階建ての、しかし十家族が暮らす以上の人数を軽く収納できるその建物の大きな扉には、捺印されたケンタロスのシンボル。数ある運び屋ギルドの中でも比較的大規模なキャラバンを持つそのギルドは、今回の、標的。

 …………ジル。これ、ジルは“知ってた”よね……?
 やっと合点がいった。ジルがボクを頑なに連れて行こうとしなかった理由も。仕事内容を細かく教えてくれなかった訳も。

「クゥ」

 知らない間に細く、恍惚と笑う自分に気が付く。ポケットの中でクゥが、警告を、発した。


「久しぶり―っ!」

 にぱぁっと無邪気に笑うボクにその男の視線がゆっくりと降りてきた。
 ギルドと言うのは、首都からの許可を得た“認証持ち(トレーナー)”による職業組合のことだ。その規模も様々ながらその場所も様々でこうやって町の中にあることもあれば、たまにだけど町の外にぽつんと建物を建てているところもある。まぁ、町の中にギルドがあることの方が絶対的に便利だし、依頼も受けやすい。メリットが大きいため、やはり街中にあるのが多いだろう。外にあるのは例外的なギルドで、トレーナー相手のギルドなどがそちらに属す事が多い。
 また、ギルド(の建物)と言うのははっきり言って治外法権を持っている。大概は入ってすぐに大広間(と言うかこのギルドに関しては長机と長椅子がぎっしり並べられていてまるで大食堂みたいだ)があって、ギルド衆が集まっているのだけど、そこはポケモンが出されていることがあるのだ。ポケモンを毛嫌いし、壁の中に閉じこもった人間が暮らす“町”は例外なく所持ポケモンを故意にボールから出すことを禁止しているのだからそれは異例なことと言ってもいい。まぁ、普通の街中であっても“ばれなきゃいい”んだろうけど。そして、ギルドに属していなくてもこの大広間に入ることは原則的に誰でもできる。そう、“許可証”を持っていようがいまいが、この町の住人だろうがそうでなかろうが、“誰でも”。依頼を持ってきてもいいし、ギルドに入れてくれと言いに来てもいい、旅のトレーナーがポケモンのコンディションチェックをしたいからと、ギルトの場所を借りることも決して珍しいことではない。
 だから、ここに入るのは容易だった。

「誰だ、ぼうず」
「あーひどい。ボクのこと覚えてないの?……名前、何だと思う?ちゃんと当ててよ?」

 声をかけた片目剃髪の、さっきの男がそう答えたボクを見下ろして困ったように顔をしかめる。ボクはぷっくりと頬を膨らませて拗ねて見せてから、ありったけの笑顔を顔いっぱいに浮かべて懐くようにその男に話し続ける。

「さっき、入ってきたんだっ」
「……ぼうずがこんなところに遊びに来るんじゃねぇ。さっさとウチに帰りな」
「ボク、ぼうずじゃないもん。ほらぁ!」

 背中を押そうとする男の手をすり抜けて、ボクは左腕のそれを相手に見せつけた。繊細な装飾を施された飾り紐。その中で一番目立つ、黒色の石。二つの金色の輪が闇のように黒いその石を捕えるように交差している。暫く子供の戯言に付き合わされたような迷惑そうな顔でその石を見ていた男だったけど、意味に気づいた彼はさぁっと顔色を変えた。

「ぼう……いや、おまえ、それ。“通行証”か!」
「ぴんぽーん、大正解っ!おじさんすごいねえ」

 男の張り上げた声に、周りの人間がなんだなんだと寄ってくる。ボクはそれに子供っぽく笑って、一人一人に見せびらかして回った。すごいでしょ、と。そのうちの一人が机に頬杖をついたままぽつりと言葉を零す。

「変わった装飾だな」
「うん!友達がね、してくれたんだよ」

 いいでしょ、とボクは嬉しそうに笑った。金色の輪が光を浴びてしゃらんと揺れる。闇夜に漬けて染めたような石は光を発しない。
 小さなその騒ぎが一通り収まってからボクは、皆の注目の中、片目の男に向かって笑いかけた。

「ねえ、おじさん。その傷、どうしたの?」

 無邪気に聞く僕の声に、辺りが一瞬時間を止めた。長いようで短い一秒の後、すぐさま何事もなかったかのように動き始めた時間に苦笑や談笑の声が不自然に戻る。
 片目の男も苦笑いを浮かべそれ以上は何も言わなかった。その様子にボクは首をかしげて辺りを見回し、でもすぐに次の言葉を発した。何も気にしていないよと、そう言いたげに。

「ねぇ、おじさん。ボクにポケモンバトルを教えてよ」

 にっこり、無邪気に、人懐っこく。細く細く、獲物を狙うニューラのように目を細めて。

―――金髪は、高ぇんだ。

 ……さぁ、“狩り”の時間だ。

  *

 灯台下暗し、とはよく言ったものね。
 ぱらぱらと、ジルは自分のまとめた報告書を見返しながら思った。またも軽くため息をつき、ジルは宿屋の窓から外を眺める。窓から見える晴れ渡った青空や町の情景などの景色や声の数々は彼女にとってどうでも良いものでしかない。ジルの興味があるのは唯一点、この窓から真っ直ぐ向こうに見える“ギルド”。赤銅色のケンタロスを象った紋章が彼らのシンボル。その旗が風に翻った。
 こんな首都に近い町で表での彼らは物や人を運ぶことを生業とする運び屋だ。だが、彼らはとんでもないものまで裏で運んでいた。その商品名は“人間”。

 ……この地方に“奴隷”と言う身分は存在しない。
 あるのはきちんとした“仕事”としての“奉公”であって、人間を誰かの所有物にしていいという法律は、人間を人間以下の存在とみなす法律は、断じてない。だが、“奴隷”を欲しがる人間は吐いて捨てるほどいるのだ。文句を言わない、傷つけても殺しても問題がなく、給料も払わずに済む、逃げ出すことのできない“所有物(モノ)”。
そんな都合の良い生き物を大金を積んでも欲しがる人間は確かにいる。そして、その需要に応えようとする商人も。だが、本来それは法律的にも倫理的にも断じて許されることでは無い。また、“外”と“内”を分ける壁やゲートもその大きな抑止力となる。町に入ってきた旅人、ギルドの数や人口を把握し、管理することは首都から派遣された番人の仕事だが、それはつまり“一人でも誰かが減ればすぐにわかる”ということと同意だ。
小さなコミュニティでそんな情報は即座に町中に広がる。なので、そんなことが起ころうものならすぐさまゲートは封鎖され、出て行った人間の数とこの町の人数、および現在町の中にいるはずの外部からの人間の数、ギルドの名前、人間の名前、そのすべてが明らかになる。確かに上手くいけば高価な“商品”とはなるだろうが、あまりにもリスキーすぎるのだ。
 だが、そんなことで諦める人間ばかりではなかった。全くもって人間と言うのはつくづく欲望に忠実らしい。“いなくなってもわからない人間”を攫えばいい、と。その単純明快な答えが奴隷商人たちの間で下された。“いなくなってもわからない”人間、ゲートと言う壁を無力化してすり抜けることができ、首都と言うこの地方の管理者をも騙すことのできる“戸籍を持たない人間”。

 即ち“不登録(アウトロー)”を捕まえれば良い、と。
 
 こうして、一種の強奪が始まった。“不登録(アウトロー)”は戸籍を剥奪されている、いわば“名前のない人間”だ。海賊化していたり山賊化していたりとする輩もいるが、森の中で静かに暮らしている“不登録者”たちもいる。彼らが狙ったのはそういう者達。
 特に子供と言うのは躾けやすく、また不登録同士の子供と言うことで剥奪戸籍にさえ載っていない正真正銘“存在の無い存在”のため、高額で取引されたらしい。“不登録(アウトロー)”達も勿論ポケモンを持っており、さらに言うなら正規の“認証持ち(トレーナー)”よりよっぽどポケモンに関する深い知識を持っていることも多いのだが、単純に奴隷商である彼らの数は膨大だった。“不登録者”についての情報を欠いていた首都はそのことに気づくのが遅れ、またきちんとした所在の確認ができない“不登録”を保護することもできなかった。
そのうえ、厄介なことに明らかに奴隷商をしていると判明できるギルド(一個人の旅人の奴隷商人は人数的にも不利となるうえ一人で運べる人数が激減するため、ほとんどいないに等しい)にも手を出すことができなかったのだからこれほど憤りを感じることはない。理由は簡単、その“商品”達は首都に存在を認められていない、“存在しない”者たちだからだ。“存在しない人間”を商品にしたという証拠がどうやったら出てこようか。彼らは、そうやって首都の目を掻い潜ってきた。
 ジルは目線をその建物から外し、ころんとベッドに横になる。栗色の髪が頬に圧迫された。

―――死にかけですよ、どうしますか。

 虚ろな薄紫の瞳。生気の欠いた肌。乾ききった唇。両手両足を戒める枷。
 散らばるのはホロ馬車の木片と歪な円を描く誰かの血液。

―――選択肢を与えましょう。生きたいかしら、死にたいかしら。

 死にかけの子供が生きる道など本来残されていなかった。出来ることと言えば、森の中に放りだすことだけだっただろう。なぜなら子供には戸籍がなかった。そんな子供を受け入れてくれる町などあるはずがなく、しかし庇護のないまま放っていけばあっと言う間に死ぬであろうことは明白で。
 放っておいてよいのかと、そう誰かが彼女の中でジルに尋ねたのだ。いまだ生きているそれを見捨ててよいのかと。それは正義感などではない。いや、そもそも正義感などジルは持ち合わせていなかった。誰かが彼女の行動を正義と称えようと、それは彼女にとっては義務と忠誠が成した業でしかないのだから。だが、その光景がどうにもその時のジルの癪に障った。だから気紛れに、本当に気紛れに彼女はそう問うたのだ。
 ぴくり、ぴくりと子供は確かに返事をした。
 否、少なくともジルにはそう見えた。

―――寄るなああ。寄るなああああ!!!大嫌いだ、大嫌いだ大嫌いだっっ!!

 拾ってしばらくの間は暴れて、正直手が付けられなかった。逃走はするわ、泣き出すわ。野生のポケモンの方がよっぽど扱いやすい。巣穴から出てこないハリネズミのように警戒して、敵意をむき出しにして、怯えて。
 
―――だれもいない。みんなどこに行ったの。置いていかないで、おいていかないでおいていかないで……

 痛々しいほど真っ白な包帯を全身にまかれ、その隙間から金色の髪が溢れていた。
 猫か何かのようにあっという間に逃げ出した子供を追って来たジルが見たのは、全てを失って空っぽになった生き物の姿だった。
 銅像か何かのように直立不動で、両のアメジストは透明な液体に潤み、頬には涙の跡が絶えなかった。壊れてしまったその生き物に、彼女は。

 そこまで回想した時点でジルは思い出を漁るのをやめ起き上がる。軽く髪に手櫛を入れ、結紐で髪を一纏めに括った。

「おかしいわ」

 シエルが帰ってきていない。あの抜群の方向感覚を有する子供が迷子になるということは考えづらいので未だどこかをほっつき歩いているのだろうか。勿論、それならそれで構わない。だが、金銭感覚の乏しいシエルには小遣いにもならない程度しか金を渡していない為、さすがにそろそろ空腹を訴えながら帰ってくるだろうとジルは思っていたのだが。
嫌な予感が胸をよぎり、外に出すんじゃなかったと後悔する。ここには標的がいる。シエルと鉢会うととんでもなく厄介な標的が。ギルドの方に目を寄越し、何もないことを確認。だがしかしいつも通りの街並みが逆にジルの焦燥感を掻き立てた。

「……」

 嫌な予感しかしない。頬を撫でる風がぴりぴりしている。静かであると言うことはつまり嵐の前兆なのだ。
 おもむろに彼女は立ち上がり、最低限必要な荷物だけを持って宿を後にした。

   *
 
 一陣の風が、大広間を襲った。
 目に映るこの光景は、惨劇になるのかな。さっきまで普通に立っていた人たち、つまりこの大広間にいた約60人ほどの人間とポケモンが二名を除いて他は誰も例に漏れることなく床に寝ころび倒れている。血は、出ていないけど。
 ……何が起こったのか、きっと男にはわからなかっただろう。
 ギルド内に設けられた試合場でボクは向かいに立つ男ににっこりと笑った。例外の二人とはボクと、片目の男。

「な……おまえ、な、にを……?」
「ん?別に。“何もしてない”けど?」

 旋風(つむじ)が大広間を巡る。驚愕と恐怖をその顔に映す男に対してボクはただただ人懐っこく無邪気に笑うだけ。寄って試合を見ようとしていたギャラリーたちはもうあと10分は目を覚まさないはずだ。
 てくてくと、ボクはまっすぐその片目に向かって歩く。男が出してきたポケモン、ゴーリキー(今は試合場のど真ん中でひっくり返っている)の横を素通りして、まっすぐ。男は身じろぎをしたけれど逃げることはしなかった。

「全然わかってないんだね。ゴーリキーだなんて」
「何……?」
「ポケモンにはね、相性ってものがあるんだよ。それぞれ能力を持っていて、特性を持ってる。そんなことも知らないの?……あ、いや。ごめんね。まずクゥのこと、見えてなかったかな?」

 この地方の生まれではあるけれどボクにとってポケモンと言う生き物はとても身近な存在だった。どんな姿をしていて、どんな能力を持っていて、どんな技が使えて、どのポケモンと相性が悪くて。小さなころから周りの人たちに童話の代わりに聞かされたそれは全てボクの頭の中に記憶されている。聞かせてもらったそれは時に冒険譚で、時に体験談で、時にその人が誰かから聞いた話だった。
 そんな話を聞いて、ポケモンと触れ合いながらボクは育った。ボクにはそれが当然のことだったのだけど町の人間は言わずもがな、トレーナーやジルでさえ知らないようなことをボクは知っていたらしい。今でもあまり自覚はないけど、ボクのポケモンへの知識は首都の研究部が吹き飛ぶほど莫大なものなのだそうだ(ちなみに件の研究部で大暴れしたボクのせいで高価な機材が壊れたらしくジルの給与も吹っ飛んだ)。
 “町”の掟など、“人間の世界”の決まりなど何一つ知らない代わりに“壁のない町”で暮らしたボクは“自然の世界”を知っていた。そしてそこは明日何が起こるかわからない、誰の命も保証できない、そんな場所だったから人の話や行動を一回で覚える癖がついた。確かに“明日”の保証はされなかった。
 そして、だからボクは覚えていた。忘れるなんてしたことがなかった。
 
「ほんとにボクのこと、覚えてないの?」

 ボクの声が大広間に反響する。ひどいなぁ、と小首を傾げて男を見上げてみせると、金の髪がさらっと揺れた。
 男は目を見開いたまま答えない。こちらを凝視したまま何も言わない。ボクはそれに笑った。どこまでも無邪気に。仕方がないなぁとからかう様に。

「そっかぁ。覚えてないんだ。さみしいな。ボクはこんなに覚えてるのに。……ねぇ、その傷、どうしたの?もしかして」

 刃物で切り裂かれたような、傷は右目を失明させている。彼はその傷を隠すように手のひらで顔半分を覆った。
 旋風が、ボクの隣でその姿を現す。金属音にも似た鳴き声が鋭く空気を切り裂いた。唇の端を吊り上げて、とボクは薄く笑う。

「もしかして、彼にやられたの?」

 鋼鉄に似た羽の内側は鴇色。現れた銀色の巨大な翼はまるで刃。
 鳴き声に驚いた男は、腰を抜かしてその場にへたり込んでしまう。

「ぅっ。うわっ。そ、そのポケモン……!エアームドかっ!?」

 慌てふためきながら、状況を理解できていない男は震える指を突出し、声を発する。逃げようとしてしかし体が動かずもがく男とボクはしゃがんで目線を合わせる。その怯えたような目にボクは顔を歪めて笑った。
 クゥがボクの隣で威嚇するように嘴をカチカチと言わせる。男は青ざめ、何かを思い出したかのように目を収縮させていた。

「どうかな?ボクのこと。思い出してくれた?……まぁ、いいよ。忘れてても」

 にこっとボクは屈託なく笑う。目を細めて、口元を吊り上げて、嘲笑う様に。

「だって、いちいち“商品”のことまで覚えてられないもんね?」

 ひっ、という悲鳴が男から洩れた。広げられた銀翼がその威圧感を増す。周りに寝転ぶ誰かから小さなうめき声が漏れた。青ざめていた男の顔が、ボクの言葉と笑顔で蒼白へと変わる。唇が震え、腕が震え、瞳の焦点が定まっていない。それに対してボクはただただ笑うだけ。無邪気に、空っぽに、細く細く、どこか妖しく。

「……エアームドの。餓鬼……」
「思い出してくれたんだね、うれしいなっ」

 弾むような声が場違いに零れていった。

―――ほおら。誕生日、おめでとう。誕生日祝いだよ。

 遠景が、優しい優しい、大切で綺麗な想い出が、記憶を巡る。
 誕生日祝いは、銀の翼を持ったそのポケモン。
 綺麗な鋼鉄の翼で空を斬る彼に、クゥという名前をあげた。

「クゥの翼、綺麗でしょ?クゥはね、ボクの家族なんだ。ねぇ、この傷はクゥが付けたものじゃない?」

 片目の瞳孔を見開いた男の顔との距離を縮める。刻印されたその傷がどれほど深いものなのか初めて知った。

―――この餓鬼、何しやがる!?……ぅうわっ、よ、寄る……っ!!?

 そっ、とその傷跡をなぞるようにボクは手を伸ばし、指を走らせる。それに対し喉元に死神の鎌を突き付けられたかのように硬直する男の耳には聞こえただろうか。
何も知らず、ただ呑気にこの世界で当たり前の“日常”を過ごし続ける人々の生活の声が。
 そう、当事者でない者たちにとってはどこかで起きた事件や事故など所詮他人事なのだ。あの時も、そして今も、それは変わらない。膝の上に肘を置いて頬杖をつく。顔はそれぞれ種類は違えど『笑顔』。今の笑顔は、とてもきれいに。代わりに何の感情も込めずに。

「あ、ごめんね。久しぶりじゃなくて初めまして、だったかも。だって」

 金色の髪が煌めく。薄紫の瞳がとろんと肌の色に溶け込む。

「だって、“わたし”はあなたが殺したでしょう?」

 しぎゃあ、とクゥが天に向かって鳴いた。“わたし”はその鉤爪を撫でてまた目線を男へと戻す。

「あなたが連れ去った“わたし”はね、もう死んじゃったの。あのときにあなたが“わたし”を殺したから。父さんと母さんと、あの場所にいた人たちから“わたし”を引き剥がした時に″わたし”はもう死んでたの。
“不登録(アウトロー)”は基本的に良く思われないけど裏で奴隷商なんてやってた“認証持ち(トレーナー)”のほうがよっぽど裁かれるべきだと思うな。
……ねぇ、今どんな気分?“わたし”にはあなたを裁く権利がありそうなものだけど。ねぇ、クゥ?」

 ガラリと変わった声色に同意を示すようにクゥが金属音にも似た声で鳴いた。顔は蒼白のまま、紫色の唇を小刻みに震わせる男に対し、“わたし”はくすくすと微笑む。

「そん……なことが、許……」
「だって、“わたし”は死んでいるもの。存在しない存在だもの。だから問題なんてない。法になんて触れない。そうでしょ?あなたたちもそうしたじゃない。“存在しない存在”だから法に触れずに済むと、“不登録(わたしたち)”を狙ったんだから。それともそれは構わないとそう言うの?」

 さらさらと揺れる金髪。金輪に捕えられた黒い石。

「『金髪は高い』んだっけ?」

 かつて自分が吐き捨てた言葉ににびくりと肩を震わせるのは男。もう声を出すことも叶わないようだ。瞳孔を収縮させ、肩で息をしながら“わたし”を見つめ続ける。……まるで目を離せば死んでしまうと言わんばかりに。“わたし”はそれに笑った。無様だと嗤った。仕方ないなあと笑った。恐怖が刻印された顔に向かってにこっと“わたし”は笑って返す。何も知らない無垢な、子供の笑い方だった。

「……ぃやだ……殺さな」
「どうして?」

 男の言葉を遮った自分の弾んだ声は、やけに大きく聞こえた。小首をかしげて、無邪気に。知りたがりの子供のように“わたし”は彼に尋ねる。どうして駄目なのかわからないと。
 クゥがまだ?と言いたげに首(こうべ)を垂れてその嘴をまたカチカチと鳴らした。窓の外は、晴れ空。
 “わたし”は恍惚と笑っていた。目の前の、自分を“殺した”男を殺すことに対して何のためらいも持たなかった。それなのに。

 唐突にフラッシュバックを起こすのは、それもまた記憶。

―――諦めなさい、あなたにはもう還る場所がないのだから。

 森の中で、泣いた。涙が枯れるまで泣いた。みんなどこに行ったのと、置いていかないで欲しいと。クゥに縋ってその硬い翼に泣きはらした目を押し付けた。それでも“わたし”の声は結局聞き届けられなかった。置いていかないでとそう言ったのに。置いていかないでと、呪文のように繰り返したのに。空っぽになって、頭がぼおっとしてきて、何もなくなってしまったとそうわかり始めた頃、ジルが言った。

―――私があなたに義務を与えるわ。するべき任を与えるわ。あなたは私と同じになりなさい。“不登録”の“あなた”はもう死んでしまったでしょう?それなのに生きたいと言うのなら、あなたは――――

 “ボク”は。

「シエル!!」

 ばぁん、と開け放たれた扉。その先にはジル。少しだけ肩で息をして、彼女はボクを呼んだ。
 一秒固まってからすぅっ、とボクの表情からあの恍惚とした笑みが引く。目を丸くしてジルを見つめてからボクの顔に映るのは最初彼に話しかけた時と同じ、にぱっとした人懐っこいそれ。いまだ震える彼に向かって、ボクはクゥをボールへと収納する。

「…………なぁんてねっ。殺さないよ、おじさん。だって、“ボク”は“行脚(ハイド)”だもん」
「ハィ……ド……だ、と」

 さっきまでとは別の意味で驚きを映す彼にボクは笑い、ジルに説明を譲った。
 いつの間にか扉を閉めて、ボクの傍に辿り着いてたジルは軽くため息をついて、男に向かって近づいていく。肩の上下はもう整っていた。
 ジルの手が懐へと動き、しゃらん、とボクの左手首の飾り紐についた黒石の、水色版が男の目の前に差し出される。金色の輪はそっくり同じだ。
 
「えぇ、“行脚”。聞いたこと、あるかしら?首都が放った“行脚”のこと。一応これが証拠なのだけれど、見てもわからないでしょうね」

 透き通った水のような石に金色の輪が乱反射を起こす。その宝石の輝きに魅入られたように茫然と現状に流されていく男に、ジルは優美に微笑んでから話し始める。
 ボクはそれを隣で聞きながら、けど意識は過去に飛んでいた。

―――名前をあげるわ。“あなた”は死んだのだから。……そうね、『シエル』。それが今からあなたの名前よ。

 空っぽになってしまったから。死んでしまったから。“不登録”の“わたし”はもういないから。

―――『空』と言う意味なの。あなたのエアームドと同じ。

 そう言って微笑んだジルの手を、“ボク”は掴んだ。

―――生きたいと言うのなら、あなたは。

 ……ジル、タイミングが良すぎるよ。折角、殺せたかもしれないのに。でも、ボクは。


―――あなたは“行脚(ハイド)”として生きなさい。


 ボクは、“わたし”じゃないんだね。

   *

 “行脚(ハイド)”。そう呼ばれる人たちがいつからいたのかと言う証拠はどこにもない。
 なぜなら、彼らは……いや、彼女らはどこまでも“影”の存在であり、光を浴びることのない存在だからだ。首都がこの地方を監視下に置くために、放った人間達。彼女らに求められたのは首都への絶対的忠誠と確実に与えられた任を全うする能力。
 主な仕事は犯罪行為やその他きな臭いことを行う“不登録(アウトロー)”および“許可証持ち(トレーナー)”および、ギルドへの調査、制裁。それには首都への反乱行為も当然含まれる。安全維持、安全管理と言う言葉はとても便利だ、とシエルはいつも皮肉っている。
そう、“行脚”と呼ばれる者たちはどちらかと言うと黒に近い色をした仕事が回ってきやすい立場でもあるのだ。なぜなら、先程も言ったが彼女らは表には出ない“影”であるから。ともすればトカゲのしっぽのように切られることも無きにしも非ずと言うところだろうか。尤も、こうやって裏で動く“行脚”やその他諸々の支えがあってこその首都なのだが。中央に居座って、“ねをは”ったポケモンのように動かない首都にとって“行脚”は大切な情報源だ。
また、彼らが各地を旅してまわり、その場その場での諍いなどを咎めることで首都への反感を削ぐという効力も持つ。尤も、それは義務ではなく、そこにあるのは“行脚”個人個人の正義『観』であるのだが。
ゲートの管理者等よりもよっぽど早く、そして嘘偽りなく情報は首都へと伝わっていく。ちなみに“不登録”だったシエルは首都への忠誠を誓っていない。自分を“殺した”人間に通行証を渡した首都に忠誠など誓うわけがない。なのに“行脚”をしているというのはもう異例中の異例とかいうやつで、それはジルが口添えをしてくれたおかげであり、また首都側がシエルの知識を欲したとも言う。
 首都としてはガーディのフリさえしないポチエナを囲い込んだ気分だろう。条件はジルと言う監視役をつけること。ジルがいて初めて、シエルは動くことを許されている。ジルがシエルに与えた“命”はシエルにとってはかなり窮屈なもののだった。尤も、シエルがそのことで冗談の文句を言ったことは一度もないが。

「シエル、シエル?」
「……ジル」

 手早く首都およびこの町のゲートの管理者と連絡を取り、彼らを拘束してもらう。首都への護送は首都がゲート、あるいは他の“行脚”に連絡を取ってくれるだろう。
 シエルのエアームドに当て身を食らわされた人間達もそろそろ目を覚ますころ。“行脚”としては当然なのだが、シエルはだれ一人殺していない。ひとまずすることの終わったジルが、魂の抜けたようにぼおっとしていたシエルに声をかけると、シエルはほんの少し笑った。

「ジルったら、タイミングが良すぎるよ。狙ってたの?」
「まさか。そんなはずがないでしょう?」

 そっか、そうだよね。とシエルは笑い、口元にほんの少しの微笑を浮かべているような顔でまた遠くを見る。焦点の定まっていない目、その触れれば消えてしまいそうなシエルの様子にジルは唯声をかけることしかできなかった。
 シエル、と。その“行脚”の名前を呼ぶことしかできなかった。

「シエル」
「……ジルったらひどいや。…………ひどいよ。折角」

 その次の言葉はシエルから出てこない。代わりにぽろぽろとあの時と、ジルが空っぽの生き物に名前を与えた時と同じようにシエルは泣いた。
 大粒の雫が、床に落ちて歪な円を描く。

「勝手に標的に手を出して、ごめん。ごめん、ごめんなさいごめんなさい。……でも、殺してないよ。誰も殺してないよ。『シエル』は“行脚(ハイド)”だから」

 ジルは、何も言わなかった。誰も殺していないと、傷つけていないと、ちゃんとできたでしょ、と泣きながら笑うシエルをどうすれば良いのか彼女は知らないから。褒めることも慰めることもなだめることも、彼女には出来なかった。そうするべきなのかと悩みしかし結局彼女にできたことは、ただシエルの傍にいるだけ。
ただ黙って、その独り言にもならない、オルゴールのように壊れた蓄音機のように繰り返される言葉を聞くことだけだ。

「『“行脚(ハイド)”には過程ではなく、その結果だけが求められる』」
「『“行脚”には求められることを執行する能力が必要で、必須』」
「『“行脚”は誰も殺さないこと。この地方に生きる者たちのために行動すること』」
「『“行脚”は……」

 繰り返しジルがシエルに言い聞かせていた、“そうあるため”の言葉がシエルの口から零れ落ちていく。
 自分はそうあらねばならないと、それだけが存在意義なのだと、自らに言い聞かせるように。それはジルがそう望んだことで、シエルがそう望んだこと。だがしかし、それはあまりにも痛々しかった。

「…………誕生日、おめでとう。『シエル』……」

 今日初めて、『シエル』は生まれたのだと。そう言いたげに。
 薄紫色の宝石のような瞳からぽろぽろぽろぽろ涙を零す金髪の子供の口から、小さな祝いの歌が、聞こえた。

   *

 事後処理には二日かかった。それはボクが暴走したってのもあるんだろうけど、何よりあのギルドの規模が大きかったということが二日掛かった要因だ。一日目の記憶ははっきり言ってほとんどない。というか、ギルドにジルが来てあのギルド衆が連行された後からの記憶がほとんどない。
 きっと、放心状態のままベッドでぼおっと天井でも眺めてたんだろう。あぁ、もう。心を揺らすなとそうジルには言われているのに。また迷惑をかけてしまった。二日目では完全回復して、いつものようにジルと話したり、ルシアンと遊んだりしていたけど。

「クゥ、ルシアン。ジルはまだなのかなぁ……」

 事後処理も終わったし、次の仕事は回ってきたしでそろそろこの町を出なきゃなんだけど、ジルはもう少しと町を出るのを渋っていた。まぁ、事後処理が済んでそのあと二、三日その町でゆっくりすることもあるけどさ。
でもボクとしては……いや、“わたし”はもう死んでいるのだから、死んでいるのだから何も問題はない。死んだ人間は悲しまないし、苦しまない、何も感じない。ここにいるのは“ボク”だ。だから何も問題はない。ないんだ。
ルシアンの鼻を触れるか触れない程度さわさわするとくしゅん、とルシアンはくしゃみを漏らした。自分も構ってほしいと言わんばかりにクゥのボールが激しく揺れてボクとルシアンはそれに笑う。

「シエル」

 と。ジルが扉を開けて中に入ってきた。片手には皿。朝ごはんは食べたところのはずだけど、と首をかしげるボクにジルはいつものように微笑んだ。なんだなんだと皿を見ると、そこには三角柱の物体。桃色のクリームが全体ついていて、チーゴが乗っていて。これ何、と問いかけるようにジルに目を移すと、ジルはその笑みのまま答えを教えてくれた。

「ケーキよ」
「けーき?」

 少しの間、意味が分からなかった。それから記憶の中で“それ”が何なのかわかる。これが“けーき”なんだ……。食べてみたいと思う衝動に駆られ、ジルと“けーき”の間で視線を右往左往させるボクにジルはそれを渡してくれる。食べていいの、と聞くボクにあなたのだから、と答えるのはジル。ボクは嬉々としてそれを口に入れて。

「んにゃああぁあっっっ!!!!?」

 それはとんでもなく、辛かった。
 胃がねじ切れそうなほど悲鳴を上げる。舌の感覚が麻痺する。悲鳴にルシアンがびくりと驚き、その肩を震わせた。涙目になりながらボクはひぃひぃと舌を出す。熱っ辛い痛っ辛い熱っ!?“けーき”って甘いんじゃなかったっけ!?口の中が熱を持っている。ボクは何が何だかわからないままジルを見るとジルは楽しそうにその様子を見ている。

「し、る!?」

 舌が回らない。辛っ!?これ、絶対マトマだ!クリームが桃色なのもそのせいだ!!
 外は今日も晴天。青空に浮かぶ雲はまるでチルタリスが飛んでいるみたいだ。だけどボクはそれどころじゃない。

「あなたが暴走したせいで、とても、とても、私に迷惑がかかったの」
「ごべんなざいっ」

 ジルのにっこりが怖くて仕方がない。ぴしっ、と足をそろえて背筋を伸ばして起立。麻痺して動かない舌でボクは返事をする。ルシアンはベッドの上に飛び乗ってごろりと横になってしまった。
 ジルは椅子に座り、その笑みのまま楽しそうにボクの様子を見守りつつ言う。
 
「だから、罰よ。一欠片も残さず食べなさいね」
「にっ!?」
「食べるでしょう?」
「……ぶあいっ!」

 逆らえるわけがない。ボクが悪いことは明白だし。だけど、これじゃまるで拷問だ。辛い、辛すぎるよ。やわらかい唐辛子を噛んでいる気分で、病気になりそうだ。
 辛さのあまりぼろぼろと涙を流しながらボクは噛みしめるように少しずつそれを口の中に放り込んでいく。ジルが見守る中、ルシアンが欠伸をかみしめた。町が発する喧騒は今日も何一つ変わらず、ただ当然のように日々を流れていく。
 人の不幸も、幸福も、事故も事件も、祝祭も全てを内包して。

「辛いよぉ……」 
 
 味の感覚がわからない。涙がたまった両目は歪んだ世界を映した。

 母さんの言っていた“けーき”の味は、やっぱり、未だ、わからない。

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2012.10.8  23:59:51    公開


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