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我楽多たちの物語

著編者 : 森羅

終わりの世界のRPG

著 : 森羅

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 窓ガラスに映る自分。それは夜という環境のせいか、やけにはっきりとガラスに映っていてまるで鏡のようだ。尤も見たところで憂鬱面の男が一人、頬杖をついているだけなのだが。テーブルの上には三つ折りの折り目が付いたB5用紙。その隣には注文した珈琲が白い湯気を立てている。いくら冷房が入って快適な喫茶店内だとは言え、真夏にホットなんかにするんじゃなかった。溜息が零れる。ああ、憂鬱だ。
 数度瞬きをして視線を移すと自分の姿の代わりに窓の外の景色が良く見えた。夜に覆われた町の通りにはいくつもの街灯が淡い橙の光を灯して黒色の世界に浮かんでいる。手元の腕時計に視線を落とすと、夜の二時半を少し回ったところ。待ち人は、まだ来ない。
 浅い溜息。珈琲に口をつけ、もう一度溜息。窓の外は昼夜が逆転したように人が多く、「普段寝ている時間に起きていられる」という高揚感からかやけにはしゃいだ様子のボウズが母親に連れられてタコ糸を巻きつけた腕を振り回していた。人の波は一方通行。まるで死者の行列の様だと、ふと思う。百鬼夜行とはまた違うが、時間的なものも空間的なものもあるのだろう、一方方向にしか進まない人の流れに黄泉の国に行ってしまいそうだと、そう少し思った。いつの間にか人ごみに紛れてしまったボウズを目で追いかけるのを諦め、今度は少し上に視線を移す。百鬼夜行云々に準えるなら、この人波に必要なのは鬼灯(ほおずき)の明かりだが、残念ながら人々が鬼灯の代わりに握るのは『タコ糸』。街灯の灯り以外は淡い黒に彩られた世界にその白色は思いのほか目につく。そして、そのタコ糸を追って視線をさらに上へと移動させれば、見えるのは赤色の『風船』。
 『風船』。それはおおよそ正しい認識だろう。ふわんふわんと浮かぶ、赤色のそれ。まるまるっちいフォルムの赤色のそれ。根っこの様な尻尾には飛んで行ってしまわないようにタコ糸が括りつけらているそれ。時々風に流されたように揺れるのは頭から生えた葉っぱ。何を考えているのかよくわからない小さな瞳はここからではあまり判別できない。どちらかというと赤カブのような姿のくせに、人の動作が起こす程度の風にぷわんぷわんと浮かんでしまうほどそれらは軽い。露店で風船売りが売っていてもおかしくないような姿かたちをしたそいつらはふわふわと、しかも大量に夜空に浮かんでいた。なかなか圧巻の光景である。道行く人のほぼ一人に一匹あてがわれているのだから、まあ当然の数だろうが。
 ハネッコ。夜空に浮かぶ赤カブ姿の風船たちはそういう名前の生き物だ。

「ごめん。待った? ちょっと時間過ぎちゃった」

 ふと聞こえた声に、意識を店内へと戻す。蛍光灯の、ひどく人工的な明かりが目を焼く。蛍光灯に煌々と照らされる店内は昼間の当たり前の日常を髣髴させた。がた、と俺の前の椅子を引く音。俺は当然のようにそいつと目を合わさない。選択を誤った珈琲を口に含み、ついでに腕時計を一瞥。二時、四十五分。約束の時間より少し遅いくらい。注文を聞きに来たウェイターに適当な飲み物を注文する声。……彼女と会うのは一年ぶりなのだがなんだかもっと長くあっていないようにも思えた。

「ちょっと、こっち見てよ」
「……ん。うぇ? あっ、え。あ、ハネッコ!?」

 がごんと俺の座る椅子が俺の動作に音を立てる。それは静かな店内によく響く音。羞恥を覚えながら、俺は机の上に置き物の如く置かれたハネッコの向こう側、彼女を睨み付けた。けたけたと楽しそうに笑う彼女。手元の珈琲の飛沫が手にかかったらしい、今更ながらに熱っ、と情けない声が出る。B5の紙には珈琲が飛ばなかったようだ。

「やだ。大丈夫?」
「……いや、まあ。問題なし。……何なんだそれは」

 少し驚かせすぎたとでも思ったのだろう、彼女が手拭き用に置いてあったタオルを投げてくれる。素直に受け取って俺は零してしまった珈琲を拭き取った。白いそれに茶色いシミが生まれる。飛沫の飛んだ手も特に赤くなることもなく、大丈夫そうだ。手拭きタオルをくるりと丸めて脇に置くと、それを確認した彼女がようやく――やけにハイテンションで――俺の質問に答えた。

「んんー? はねっこ!」
「いや、それはわかるから」
「可愛いでしょ。むにむにー」

 おいお前は幾つになった、という質問は野暮すぎる。というか無駄だ。ハネッコの両頬(になるのだろうか。この一頭身の体は良くわからない。人間でいうところの脇のあたりと答えても差し支えはなさそうだが)を両手の人差し指と親指で抓み、好き放題に引っ張り回して弄るそいつは実に楽しそうで、文句を言う気も失せた。というよりハネッコ。お前ももう少し抵抗したらどうなんだ。やられ放題か。もうどうにでもして、状態か。びろーん、という擬音語が正しそうなくらい口裂けハネッコになってるが、お前はそれでいいのか。
 彼女にもみくちゃにされるハネッコを横目に俺は今一度窓の外に目線を移す。窓の外にもハネッコ。目の前にもハネッコ。はねっこハネッコハネッコハネッコ。葉猫。デフォルメされた猫の様な、赤カブ風船。それが、夜空を覆う。

「憂鬱気だねえ」
「憂鬱なんだよ、実際」

 むにゅむにゅーと悦の入った声を上げながら、彼女がハネッコを抱きしめる。胸の谷間に吸い込まれていくハネッコ。その表情はやはり何を考えているのかわからないようなぼーっとしたもので、押し潰されようとお構いなしの様だ。……羨ましくなんてない。断じて、無い。ぴん、と俺は今まで目を背けていたそのB5用紙を指で弾いた。ああ、珈琲が被ってしまえばよかったのに。そうすれば少しは俺の気分も晴れたかもしれないのに。俺の憂鬱の原因はなんといってもこの紙切れと――

「そんなにいや? 結構な名誉職なのに」

 ハネッコを押し潰した……失敬。抱きしめたまま上目づかいにこちらを見る彼女。そんな顔をされてもやはり俺には溜息しか出ない。
 ――ハネッコだ。

「名誉職だなんて、よく言ってくれるよ。前世紀じゃあるまいし」
「まあねー。でも、まあ、ほら。かっこよくない? “風渡り”」
「かっこいい、かあ……?」

 彼女の感覚は残念ながらさっぱりわからない。憎々しげな視線の先、目に留まる紙切れに書かれた文字は俺にとって戦時中のアカガミに等しい。

「『おめでとうございます』。……全然めでたくねえし……」
「『厳正なる抽選の結果、今年の“風渡り”に選ばれましたので、ご報告させていただきます。つきましては』ああっ! 読んでるのに!」
「声に出さんでよろしい。つかやめて。泣きたくなるから」

 文章を読み上げようとする彼女からアカガミを取り上げる。徴兵制度は廃止になったはずなのに、という冗談を言えるほど心に余裕はない。珈琲を流し込み、長く息を吐く。全く、碌でもない街に俺は生まれてしまったものだ。抱きしめるのにも飽きたのか、今度はハネッコの耳を引っ張りながら彼女はむぅと剥れていた。先に声に出して読み始めたのはりっちゃんの方なのに、と。……無視する。
 昔々のお話だ。我らが偉大なるご先祖様たちは遊牧民だったらしい。と言っても羊や牛を飼って、草地を探して遊牧していたわけではない。赤カブ……いや、ハネッコだ。ハネッコ。ハネッコの後を追いまわしていたのだ。それはもうストーカーの如く。ふわふわ風に乗って飛ばされるだけの存在に一体どこに魅力を感じたのか是非とも無知な俺にご教授頂きたいが、生憎すでに彼らは夜空の星になってしまっている。いや、実に残念だ。……と、少し話がずれてしまったが、そうしてハネッコの後を追いまわして、たどり着いたのがこの土地だったのだと言う。肥沃な土壌は水源も近く、まさにこれ天啓とご先祖は思ったのだろう。遊牧の暮らしを止め、この地に根付いた。ハネッコが導いたこの土地に。
 だがしかし、人は旅を止められてもハネッコ達は旅を止められない。彼らは風に流されるだけの存在なのだから。飛んで行ってしまう赤カブを見上げて、ご先祖は何を考えたのか――そこで手でも振って見送りゃよかったのに――そのうちの数名がハネッコ達を追いかけた。そうしてこの街の歴史は続いて行った。そう、“風渡り”は言うなれば歴史の繰り返しであり、再現であり、証明であり……羊飼いならぬハネッコ飼いなのだ。
 大体選ばれるのは十代後半、いや十八歳以降から二十代の半ば過ぎ辺りまで。性別不問。人数は五人から八人。特別な理由がない限りはこんな三つ折りB5の紙切れ一枚で、たとえ働いていようとも一年間の有休があっさり取れる。というかほぼ強制的に取らされる。一年間ハネッコを追いかけていろとのお達しだ。涙が出るほどありがたくない。

「でもさ、なぁんかさぁ、ロマンチックだよねえ」
「何が」

 ぷにゃあ、とふやけた顔をして、彼女はいつの間に届いたのやら自分のグラスに口を付ける。気泡がぷつぷつと上がるそれは見ているだけでも涼しげ。ああ、だからホットはミスだったと思ってる。もう二度と真夏には頼まない。さっきまで抱きかかえられていたハネッコは、大人しくテーブルの上に座っていた。

「ハネッコ。ロマンチックって言うよりファンタジーチック、かな。りっちゃんはさ、嫌がってるけど、あたしは行ってよかったって思ってるよ? だって、ハネッコが見せてくれるのは見たことない世界だもん。いやあ、ご先祖様たちの気持ち、わかったよ。わかる、あれはわかる。ほら、だってりっちゃんだってやったじゃん。皆が放したハネッコ追いかけてさ、でも子供の足じゃ追いつかないから、二時間くらいしたらふらふらになって帰ってくんの。そんで怒られてたじゃん。見たかったんでしょ? ハネッコの行く先。見れるよ。これは本当に見てた方が良い。見た方が良い。行ってよかったって絶対思えるよ。人生影響出るレベル」
「弾丸トークだな……。あと、『りっちゃん』やめろ」

 去年の“風渡り”は目の前で恍惚とした表情を浮かべている。あれは素晴らしかったと、幸運だったと。興奮が蘇ってきたのかハネッコがまた潰された。むにむに、ぐしゃぐしゃ。その様子は可愛がっているのやら苛めているのやら。憂鬱しか感じない俺は居心地の悪さを感じて彼女から目を逸らした。
 窓の外に広がる光景。鬼灯の代わりにハネッコ。妖の代わりに人間。珍妙奇妙な行列はまるで異界に紛れ込んだような気分を味わせてくれる。少し不思議な、日常から外れてしまった世界。今この街はそんな世界に呑み込まれている。朧な光を等間隔で灯す街灯もその一因。彼女が言った通り、ファンタジーだと言えば確かにそうだ。ロマンチストではないつもりだが、雰囲気は“人を呑む”。この夜は確かに異質で、一年一度の『当たり前』の恒例行事で、少し不思議な光景なのだから。

「りっちゃん」
「……何?」

 『りっちゃん』を止めろと言うのに。いつまで俺を餓鬼だと思っていやがるんだ。ただ、言ったところで聞き届けてもらえそうになかったので何も言わないが。珈琲を飲み干し、ようやく空になったカップをソーサーに戻す。陶器と陶器が触れ合う音。今度はお冷を手に取り喉を冷やす。ああ、生き返る。

「りっちゃん、そろそろ時間じゃない? ハネッコ送り」
「あー……そうだな、そろそろ。あと三十分くらい」

 彼女の声に時計を見やる。ああ、確かにそろそろだ。この街に戻ってきたハネッコを再び空に送る。今日はその日。だから、この街は徹夜する。夏至の夜は短く、その短い時間を多くの人が眠らない。朝一番、日の出の風にハネッコを飛ばすために。夏を追いかけるハネッコ達は二週間ほどここに里帰り(という言い方もどうかと思うが)して、また飛び立つのだ。そして、それはつまり。つまり俺の出発の時でもある。椅子から立ち上がり、伝票を絡め取った。

「やった。おごり? りっちゃん」
「寧ろおごれよ。餞別に」
「いやあ。りっちゃんのいいところとっちゃ駄目じゃない。ねえ、ハネッコ?」

 ふわん、と浮かび上がったハネッコの尻尾にはやはりタコ糸が括りつけてあって、彼女はそれを握りしめていた。いまいち釈然としないままレジで金を払い、釣り銭を受け取る。喫茶店の扉に掛けてあったカウベルが鈍い音を立てて、むわっとした空気の中に俺達は放り出された。

「夏だな……」
「りっちゃんはこれから一年ずっと夏だよ。ハネッコは暖かい方に飛んでいくから」

 俺の言葉にすぐさま訂正を入れる彼女。勘弁してくれ。いやもう、どうにもならないんだが。冷房に慣れた体がじわじわと熱を帯びる。いまはまだちょうどいい温度だが、あと十数分もすればそんな言葉を思った自分に鉄拳を食らわしたくなるだろう。

「はい」
「ん?」
「手」

 短い命令。俺は彼女に乞われるがまま右手を差し出す。何か? どうしたんだ。一応彼女の属性を答えるなら昔馴染みの女友達となる。それ以上は、無い。そして、やはりその通りだった。
 ぐるぐると差し出した右手に巻き付けられるタコ糸。つまりハネッコ。離しちゃだめだよ、と念を押されて訳の分からないまま俺は巻き付けられたタコ糸を握りしめた。おいおい、二十を過ぎた男になんつうもんを手渡すんだ。自然風に揺られるハネッコは本当にただの風船のように俺の頭上を浮かんでいる。彼女はただただにっこりと笑うだけ。

「あたし、今から最後の仕事なの。去年の“風渡り”の仕上げ」
「……ああ、風を起こすんだっけ」

 そうそう、と返事はすぐに返ってきた。ハネッコを飛ばすための朝一の風。それは前回任に就いたものたちの最後の仕事。確かにそれならこのハネッコは誰か別の人に手渡すしかないだろう。だがなぜ俺に渡す!? 俺だって一応次の……。

「なんだかさ、RPGみたいだね」
「は?」
「ほら、ロールプレイングゲーム。役割を演じて物語が展開していくあれ」

 いや、わかるけど。唐突に話を始めた彼女に俺はぽかんとするしかない。いきなり一体どうしたんだ、こいつは。俺の右手の動きにタコ糸が張る。空気抵抗を受けているらしいハネッコのその感触が伝わってくる。

「ゲームでやったみたいにさ、りっちゃんのジョブ選択は“ハネッコ飼い”でさ。街の命に従ってハネッコを護りながら世界を回るのだ! なんて」
「ひどいゲームだなそれ」

 羊飼いのジョブは確かに見たことあるが、ハネッコはいくら何でもないだろう。しかも勇者なし。魔王なし。魔法使いなし。ハネッコとハネッコ飼いオンリーのひどいパーティ。クソゲーだ。俺のつっこみに彼女はけたけたと笑う。一年間ハネッコを追い続けてネジが二、三本緩んでいるらしい。だがそれは、決して悪い方向だとは思わないし、どうにもそう思えなかった。

「いいじゃあん。この街じゃ名誉職だよ? つまり上級ジョブだよ? でさでさ、そんなりっちゃんに、あたしはこれを渡すのです!」
「……は、はあ……」

 まるで酔っているようなテンション。大げさなそぶりで、これでもかというほどもったいぶって、両手で差し出されるのは一つのモンスターボール。赤の白。おなじみのカラーリングに中身は容易に想像がついた。

「ささ、遠慮なさらずに。今後の旅に役立ちましょうぞ」
「いや、うーん……。まあ、はい。どうもありがとう魔法使い」
「ひどい棒読みだねー、りっちゃん。それと、それならあたし賢者がいい!」

 テンションも高いが、なにより職業格差がひどい。というか、さっきまでハネッコをむぎゅむぎゅ好き放題していたやつの台詞かそれは。呆れ果てながらも、俺はそれに少し笑う。賑やかな人の流れに、空を揺蕩うハネッコ達。俺の生きる何の変哲もない世界の、不思議な時間。それは、少し人をおどけさせるには十分な空間と雰囲気。
 それは何かに毒されたように。

「まあ、これについては礼を言っとくよ。助かる」
「どういたしまして。気を付けてね、りっちゃん。楽しんできてよ。それこそRPGみたいにさ。役割を演じるのに理由も遠慮もいらないのだ! ……でもさ。さっきも言ってたけど世界を見るのって悪くないと思うよ。これ、ほんと。本気。だって、あたしだって忘れてたもん。ハネッコ追いかけてたこと、忘れてたもん。あの先に何があるのかなあって、そうハネッコの後追いかけて、走るあたしは無敵だったのに、そんなことも忘れてたもん。だから、本当に楽しかったんだー!」

 両手を夜空に突き上げ、彼女は笑う。ハネッコはゆらゆら揺れているらしくタコ糸からその振動が伝わってきた。何か俺は言うべきではないのかと、そう思考を巡らせること数秒。けれど彼女は本当にそろそろ行かなきゃだし、と手を振り人ごみに紛れてしまう。実にあっけない。苦笑が漏れるがまあ、彼女との付き合いはそんなもんだ。

「さて、行くか……」

 仕方がないので、少し呟く。気合を入れるために。彼女から受け取った魔法の道具ならぬモンスターボールをポケットにしまいこんだ。そうして赤カブ風船、訂正。タコ糸ハネッコを引っ張り、人の流れに従う。ふわふわと逆らわないハネッコ。勿論俺が歩けばハネッコが受ける風は向かい風になるのだが、それでもハネッコの抵抗(というより風の抵抗)なんてそれこそ風船のそれと同じだ。先程までとは少し違い、ハネッコの葉っぱがぴこぴこ動いている。なんだ、さっきまで大人しかったくせに。斜め上を見上げながら歩いていると、意外にこのハネッコは感情豊かで好奇心旺盛な方らしい。くるりと回っては人見を、ハネッコ見を楽しんでいる。さっきまでのぬいぐるみのような大人しさは何だったんだ。眠かったのか、それとも相手が女だったからか。その両方のような気もするが突っ込まないでいよう。とりあえず、元気で何よりだ。風が吹けば小さな鳴き声が上から幾つも聞こえた。ぽこぽこん、という間抜けた接触音も聞こえる。きゃいきゃいとはしゃぐ子供の声。空に浮かぶハネッコに手を伸ばすその姿は彼女を髣髴させた。

――ほら、だってりっちゃんだってやったじゃん。皆が放したハネッコ追いかけてさ。

 ああ、やったとも。俺は記憶を呼び起こす。ハネッコが一体どこに行くのか、一緒に連れて行ってほしくて。その先に何があるのか知りたくて。だらだらと歩を進める。大分、前が混んでいるのだろう、人ごみは少しずつしか進まない。人との密着もあるせいでじっとりとシャツが汗ばんできた。出来上がる料理は人間蒸しのハネッコ添え。……勘弁してくれ。ふと振り返ると、俺の少し後ろを歩く人の数はまばらだ。二十分ほど前に行動しようとするとこんなに後ろに並ぶ羽目になるのか。一番前を陣取ろうとしたのはいつの話だったか。一番後ろで靴ひもを締め直したのはいつだったか。
 ふと、嗅覚が捉えたのは煙草の匂い。煙の出どころを探すと、すぐそばのおっさんが紫煙をくゆらせていた。灰が、落ちる。すぐに隣の奥さんらしき人に咎められてしぶしぶ煙草を携帯灰皿の中に押し込んだが。俺がそれに見入っていたように彼女から預かったハネッコもまた、煙草をじっと見ていた。煙草が灰皿の中に押し込まれると、今度は小さな瞳を俺に寄越してくる。俺はそれにタコ糸を持っていない手を広げて苦笑するしかない。ハネッコよ、残念ながら俺は煙草を吸わないんだ、と。あの煙はポケモンには毒だ。人間にとっても毒だ。副流煙は後ろに流れて行って、それを吸った人間達の肺を少しだけ汚す。それを吸ったハネッコ達の命を少しだけ削っていく。すでに俺に興味を失ったらしいハネッコはやはりくるくると一回転を繰り返していた。一方通行、一方方向。前だけを見るハネッコ達、前だけを見る人間達。やはりそれは少し異質で、異世界に迷い込んだようで。けれども確かに毎年のことで。朝が来るまでの、少しだけの時間。一年で一番短い夜の時間。俺達はこんな異様な出来事をごく当たり前に受け止める。それは先程の煙草と一緒。気づかないうちに、知らないうちに、毒されている。夜に、伝統に。正しい、間違っているではなくそういうものとして。俺達は思考を放棄する。

 ハネッコを空に放てと告げる毒。
 俺達はもうそれに抗わない。それに理由を求めない。“そういうもの”なのだから。

――だって、あたしだって忘れてたもん。

 忘れていた。そう、考えるのをやめたからだ。
 当然だと受け止めれば、この光景を異様だとは思わない。この夜を不思議なものだとは感じない。

――あの先に何があるのかなあって、そうハネッコの後追いかけて、走るあたしは無敵だったのに、そんなことも忘れてたもん。

 何が無敵だ。ハネッコどころか俺にさえ置いて行かれて、ピーピー泣きながら帰って行っていたくせに。タコ糸を引いてハネッコを手繰り寄せる。頭上で葉っぱと耳を揺らして宙を泳いでいたハネッコは特に抵抗もなく腕の中に納まった。気紛れに頭の部分を撫でてやると、少し目を細める。気持ちいいのか、体の筋が伸びていた。なかなか可愛げがあるじゃあないか。時計を確認して、ハネッコのタコ糸を外す。決してハネッコの尻尾を傷めないよう結ばれたそれは少しばかり解きづらい。それでもまあ、毎年のこと。慣れたものだ。周りを見回せば、他の人々もまた、ハネッコのタコ糸を外しにかかっていた。大人のやるそれを興味深そうに眺める十にもなっていないだろう少年は、夜更かしにハイになっているのか父親にあれやこれやと尋ねていた。今から何が見れるの、だとか。ハネッコどうするの、だとか。そのタコ糸をどうして結んだの、解いてどうするの、どうしてまだ放しちゃいけないの――エトセトラエトセトラ。
 そんな声変わり前の言葉を聞き流しながら、俺は空を見上げる。徐々に白み始めた空。夢の時間が終わる。夜の時間が、一年に一度だけの“何の変哲もない不思議な時間”が、終わりを告げる。ああ、いつもなら何も感じずに返って眠っていただろうに。
 前方から吹いてくる風。彼女達の最後の仕事。

 ハネッコを、放した。

 わっ、と小さな歓声が上がる。その声は主に子供たちから。
 ふわふわと風に流されて飛んでいく、大量の赤カブ。植物みたいな動物みたいな、空飛ぶハネッコ。朝焼けの空を飛ぶ、大量の赤い風船。久しぶりにじっくり見たそれは、絶景の一言だった。こんなにすごいものだったのかと、今更ながらに息を呑む。赤い身体に金色の光を受けるハネッコ。最初に飛び出したのは、一体どの子だったか。上を見上げていた俺にはわからない。駆けだすのは小さな体躯。大人の静止の声なんて、聞こえてはいない。だって、あいつらは今『無敵』状態なのだから。空を見上げたまま、苦笑が漏れた。

――ハネッコの行く先。見れるよ。

 子供に倣う様に俺もまた歩を進める。子供の歩幅程度なら、ある程度の速さであれば並走できる。全力で走るそいつらには多分、すぐに抜かされてしまうだろうが。

――りっちゃんのジョブ選択は“ハネッコ飼い”でさ。街の命に従ってハネッコを護りながら世界を回るのだ! なんて

 彼女が言ったのはあまりにひどい職業設定のRPGだ。だが、夢の世界の延長、当たり前の非日常の『続き』。そう思ってみるのも悪くはないのかもしれない。ひどく、餓鬼臭い考えなんだけど。現実問題として、そうなのだから。少しくらい主人公でも気取らないと、楽しくない。
 自称・賢者からもらった魔法の道具をポケットから出す。ポンコツ魔法使いがくれたお守りは、小さな開閉音の後、民族衣装の様な黄色の翼を広げた。とりもどきポケモン、シンボラー。
 それはハネッコ達の風のルートを完全に記憶した、最強のお守り。一声かけると、一つ目のそいつは数度羽ばたいてから俺を乗せてくれた。悪いね、お子様たち。これが大人もどきの汚さだ。風を捕まえたシンボラー(とりもどき)がハネッコ達のすぐ近くにまで飛び上がる。汗を吸ったシャツに風がひやりと走った。涼しい、と目を細める。ふわふわ飛ぶそいつらはひどくスピードが遅いので、飛行タイプがいればあまり追いかけるのに苦労はしない。俺以外の今年の“風渡り”達がハネッコ達を守るように位置につく。ポケモンの羽ばたきがハネッコの経路に影響を与えないように距離には細心の注意を払う。ふと、街を振り返った。
 歓声を上げながら追いかけてくる子供。見送る大人。真後ろから吹いてくる追い風。真後ろから登ってくる太陽。

――いやあ、ご先祖様たちの気持ち、わかったよ。わかる、あれはわかる。

 行ってよかったって思ってるよ? だって、ハネッコが見せてくれるのは見たことない世界だもん。
 彼女の声に俺は確かに頷く。なぜって、俺はこの不思議な世界の終わりを、この夜明けの空をこの時初めて見たのだから。

 ハネッコを追いかけていれば、朝日は見えない。
 すぐに家に帰ってしまえば朝日は見ない
 あの行列の前あたりに居て、それでハネッコを見送らず太陽の方を見ていないと、これは見えない。
 ハネッコの様な赤色に染まる街は、空の上からしか見えない。

――ロマンチックって言うよりファンタジーチック、かな。

 確かに空想的だ、ポンコツ魔法使い。確かにご先祖様は、正しかったかもしれない。これは、魅せられずにはいられない。
 それともこれもまた、毒されているだけだろうか?

 風を捉えた翼が、ハネッコを追う。
 風に捕えられた赤カブが、何かの冗談のように空を飛ぶ。

 それは、至って平凡で何の変哲もない世界の、少しだけ不思議な旅の始まり。

***   ***
お題「ハネッコ」。
はねっこはねっこ!とかきゃふきゃふ(死)言ってたはずなのに、いつの間にかおにいさんが主役みたいになりました。ハネッコの可愛さが伝わってない、だと……(死活問題)
まあ、それでも好き勝手に書かせてもらった分楽しかったんですが。多分、好き嫌いが結構はっきり分かれる話なんじゃないかなあと思いますね……。子供心は大切だと思うのです。
夜の世界って、なんだか別世界のようで、とても魅力的じゃないですか? 

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2013.7.23  01:28:06    公開
2013.7.23  12:12:09    修正


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