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我楽多たちの物語

著編者 : 森羅

虚空の指笛

著 : 森羅

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 鋭い音が空を引き裂く。
 高く、遠く、澄み渡る青空に。
 寂しさと、孤独さと。そしてどこか優しさの混ざったその音が。

 空に共鳴を引き起こし、わたしの心を波立たせる。


 わたしはその音が嫌い。大っ嫌い。
 なぜってその音はアイツが響かせる音だから。
 ここは風そよぐ谷間の町。至るところでたくさんの風車が回り、それは生活の糧となる。
 とある風の神様が名前になっているこの町を人々はこう呼ぶ。

 西風の最も愛したところ、と。
 風の恩恵を受けた町、と。

 西風は豊穣をもたらす風で、その神様に愛されている事を裏付けるようにこの町には常に西風が吹く。風は風車を回し、昔は小麦の粉をひいてくれ、今は電気を作ってくれる。確かに全く名前負けしていない町だ。そんな事を思いながらわたしは学生鞄を片手に掴み、制服のスカートをボブヘアーの髪と一緒に揺らしながら足元の相棒と一緒に風車の林のあぜ道を走り抜ける。風に乗せられた空を劈(つんざ)くような笛の音、その音源に向かって。

 青空をポッポが飛んでいた。

   ※

 町外れの、本物の林の中でやっとアイツを見つけた。

「見っけ」
「…………」

 ちらり、と木の上で幹を背もたれにしていたソイツが一瞥をくれる。黒目黒髪の、どこにでも居そうなフツーの容姿。今日のコーディネートは黒っぽいジーンズに無地のTシャツというラフというよりも杜撰な格好。もう少し何かないのかと突っ込みたくなるような素晴らしいコーディネートだ。まあ、いつも似たような格好なんだけど。そして、わたしがまじまじと観察している間に、ソイツはまた視線を向こうに戻してしまった。空から戻ってきたピジョンが一羽、ソイツの差し出した腕――緑色のバンダナを巻いている右手首の方――ににちょこんと乗る。ふん、とわたしは鼻を鳴らして腕を組み、そして言った。

「ちょっと、何か一言ぐらい……期待するだけ無駄ね」
「…………」

 あいかわらずの無愛想っぷり。今度はこちらを見ようともしない。視線をこちらにすら向けていないのは意図的で、悪意すら感じられる。わたしとピジョンではピジョンの方が重要らしく、腹が立つことこの上ない。

「馬鹿と煙は高い所が好きみたいよ。あんたもなんじゃない?」
「…………」

 皮肉すらもやっぱり無視される。もう無愛想とかそういう領域を超えて存在を無視されているようなそんな気分。苛立たしさを感じながらもわたしは目線を下に降ろし足元の相棒に目配せ。ソイツに指を突きつける。相棒はやる気満々だ。

「今日こそあんたを倒してあげるんだから! 行って! リザード! ほら、あんたも申し込まれたんだから拒否できないでしょ!! さっさとポケモン出す!」

 そして、ようやく。ようやくソイツの嫌そうで面倒そうな顔が無言でわたしを見つめる。何か言いたげなソイツはしかし、すぐ諦めたように腕に乗っかっていたピジョンに目配せした。わたしはそれを確認して頷く。

「じゃあ、どっちかが瀕死になるまでの一対一ね。リザード“アイアンテール”!」

 わたしは鞄を下に降ろし、勝手に言い切ってリザードに指示を飛ばす。即座に反応した相棒は鋼鉄と化したその尾をピジョンめがけて振り下ろし、そして。

「ピィイィユィ」

 鋭い笛の音にピジョンが上昇。“アイアンテール”は空を切った。そして今度はピジョンの翼が太陽を背に滑空してくる。

「リザード、っ“えんまく”!」
「ピィィュイ」

 またも笛の音。いつもの手かと呆れたようなアイツの目がわたしの目に映った。でも、残念。今日はちょっと違うのよ! 案の定ピジョンは“えんまく”を追い払おうと“ふきとばし”を始める。上空で風を巻き起こすピジョンはその場から動かない。固定目標になったピジョン。今日は、勝てる。

「“がんせきふうじ”!」

 予想外のわたしの言葉にほんのわずか、ほんのわずかソイツの表情に歪みが走った。けれど、すぐにその指は笛の音を奏でる。もう遅い、勝てる、そうわたしが確信したその時。

 ピジョンが消えた。そして岩の塊は何もない空間を重力に従って落ちていく。

「え……?」

 頭が真っ白になるわたし。そして、それはポケモンバトルであまりにも致命的な一瞬。ピィ、と短い音でわたしが我に返った時にはもう遅かった。リザード、そう呼ぶ前にリザードの体がピジョンの翼を受けて軽々と吹っ飛んでいく。わたしは茫然とそれを眺めることしかできなかった。ほとんど無傷のピジョンが彼の肩に止まる。

「……もう、いいだろ……」

 やっと一言、普通の人ならびっくりするくらいの、ひどい風邪を引いたようなガラガラ声でしゃべったソイツはくるりと背を向け、町とは逆の林の奥に立ち去っていく。わたしはその背中を黙って見送っていた。

   ※

 風の愛し子。
 風の町で、最も風に愛されたもの。
 あれは風の流れを読むんだよ、風と遊ぶ子供だから。

 誰かがアイツをそう言った。
 ヒトに愛されないアイツを、憐れむようにそう言った。
 楽しそうに風と遊ぶアイツを、不憫であるとそう言った。
 憐れみの眼差しなど、アイツには不要なはずなのに。

「ねぇ、リザード」

 風車の林の帰り道、わたしは鞄をブランコのように前後に揺らしながら相棒に声をかける。完全に回復した相棒は赤い炎を灯した尾を揺らしながら澄んだ瞳でわたしを見上げた。

「アイツが人嫌いになっちゃったのは、アイツのせいじゃないのにね」

 リザードはきょとんと首をかしげ、わたしはそれにごめんねと笑う。
 アイツが人と関わらなくなったのはアイツのせいじゃない。アイツだって、ずっと笑ってたんだ。人はこんなに幸せそうに笑えるのかと、そう思うくらい。けれど、アイツは風を読む。風の町で最も大切な存在である風に一番愛され……それが幸福と、不幸をアイツに招いた。
 人間という生き物は自分と異なるいや、自分の枠に収まらない何かを持っているモノを異物として扱う。拒絶するか、畏怖するか、はたまた取り入るか、憐れむか。それは良いか悪いかの問題ではなく自衛のための手段なのだろう。少しずつ、少しずつ、周りとのズレをアイツは感じざるを得なかった。周りに馴染もうとして、周りと同じようになろうとして失敗した。傷ついたような顔をして、恐れるような顔をして、そしてついに諦めた。いつもいつも笑っていた記憶の中の少年はゆっくりさっきのアイツと重なり、表情を失っていく。……それを悲しいと思う感情すら押し込めて、追いやって、隠して、忘れてしまって。

「リザード、わたしは……アイツに何ができるのかな……」

 リザードの黒真珠のような澄んだ双眸がただただまっすぐわたしを見ていた。
 遠くの方で音が聞こえる。笛の、高く鋭い音が。

『……ちゃん、ミワちゃん。あのね、この子は……』

 記憶の中の男の子は、今日もわたしに向かって無邪気に笑う。

  ※

 風が鳴く。風が泣く。風が啼く。そうやって、歌っている。
 ここはこの町で最も空に近い。当然、人が寝ころぶ場所ではないし、木とか鉄パイプとかを組み合わせた矢倉以外の何物でもない。それでもこうやって寝転がって高い空を眺めているのはとても好きだ。背中のあたりはひんやりしていて気持ちがいいし、何も考えなくていいし、なにより風が通る。

「……どうしていつもちょっかい出しにくるん、だろ」

 昼間の女の子、少し茶色がかった黒の髪に、同じ色の瞳の勝気なその顔を思い浮かべながら寝返りを打つ。無意識にそう呟いて、自分の声に顔をしかめた。やっぱり、話すのは苦手……いや、嫌いだ。ハスキーとかそういうレベルじゃすませられない、まるで年中インフルエンザだ。だけど、本当にいつもなんだ。わざわざ町中を駆け回って、探し出して。いつもあぁやってポケモンバトルを吹っかけてくる。毎日毎日よく飽きないものだ。なんで、また、俺なんかに。……おれ? 僕は……ぼく? なまえは? …………あぁ、わかんないや。忘れてしまった。苦笑が浮かぶ。いやだって、仕方がないや。自分が『誰』だったのかなんて誰も聞かないし、そんなものは自分でも必要としていないし。ほとんど言葉を使わないから、一人称は不要になった。言葉なんてなくても、彼らに伝えたいことはすべて伝わるから。知るべきことは教えてもらえるから。

「ピィイィ」

 矢倉の手すりに止まったピジョンに寝転がったまま“声”をかけると、ピジョンはクルクルと鳴いて羽ばたいていった。代わりにオニスズメたちが止まり木代わりに手すりに止まる。それを目の端で見送って、また目を閉じる。風の感触と、音だけを感じる。耳を澄ませて声を聴く。こうやっていると風と一緒に飛んでいるような、夢心地の気分になる。

 歌っている、唄っている、謳っている。
 風は多くを語らない。必要最低限のことだけ、囁くように、透明で高く綺麗な声で歌うのだ。
 雲を運ぶと、嵐を連れて行くと、恵みを呼ぶと、耳触りの良い歌声で繰り返し繰り返し同じことを。

「寝てるのか?」
「…………」

 かけられた声に、目を開けて起き上がる。ぎしぎしとガタが来ている矢倉が啼いた。目の前にいるのは良く知った人物。というより、この人以外この矢倉にわざわざ登ってくる人はいない。あの、リザードの子だって登っては来ないのだ。

「……じいちゃん」
「風はどうだ? 雨が降ると……どうした?」

 久しぶりに声を出したからだろう、目の前のその人――じいちゃん――は目を丸くする。だが、結局首を振って立ち上がり手すりの部分に吊るされたドラを三回鳴らした。カンカンカン、という指笛ほどではないが高い音が谷間の町に響く。それはもうすぐ雨が降るという合図。音を聞いた町人達が、ちらほらと風車を止めて作業業をやめていく。少し風が強くなるみたいだから、きちんと保護してやらないと風車が壊れてしまう可能性もでてきそうだ。もう一度最初より強めにドラを鳴らしておいた。

「やっぱり雨か」

 じいちゃんの言葉にこくりと頷くと、じいちゃんの比較的大きな皺だらけの手が頭に乗っかった。ぽんぽんと軽い音が頭上から聞こえる。ぬくもりが伝わってくる。
 じいちゃん、と言ってもこの人と血縁関係があるわけではない。そもそも自分と血縁関係のある人間は記憶の中に存在しない。一緒に暮らしているが、しいて言えば師弟関係というのが近いだろうか。まぁ、この人から学んだことなんてないに等しいのだけど。つまりはこの人が自分の前にこのドラを叩いていたということ。自分で一体何代目になるのかは知らないが、風の恩恵を受けて暮らす街でこの仕事は生活に欠かせない、なくてはならないものだったのだ。あえて過去形で言うのは現在では科学が進歩し正確な予報が簡単に手に入るようになったし、またこうやって風を読む人間が減ったから。惰性と伝統という文字がこの仕事を自分に与え続けている。

「降りるか。向こうのほうで雷が鳴っている」

 また頷くと、それを見たじいちゃんもまたにっかり笑って頷き梯子を下っていく。後に続いて矢倉を降りながら、強くなった風に目を細めた。じいちゃんに風は読めても、風の声は聞こえない。歌は聞こえない。学んだからこそ彼はこうやって天気を予測するのだから。変なのは、自分だけなのだ。自分だけが、『おかしい』のだ。ああ、いやだなあ。いやだなあいやだなあ……ふと、魔が差した。

「嘘のドラを鳴らしたら、どうなる……?」
「今日は珍しくよく話してるな。どうかしたのか? だが、冗談でもそんなことを言うな。……可哀相な子供だよ、お前は」

 憐れむような視線が自分を見上げていた。その目は嫌いだ。この人が自分を好いていてくれているのはわかっている。心配してくれているのも知っている。けれどそんな視線に慣れてしまって、もう何も感じない。嫌いだけど、だからどうしたという話。“可哀想な自分は、そんなこともわからない”。自分は、風読みだから。ただそれだけだから。そう心の中で言い聞かせる。自分は風を読むだけの存在で、その仕事を全うしているのにどうしてそんな目を向けられてしまうのだろう。それだけのために自分はここにいるのに。それ以外のすべてを、もう捨ててしまったのに。じいちゃんから目を離して、長めの指笛を鳴らす。口笛なんかよりよっぽど鋭く、強く、高く強烈な音。自分たちが下に降りきる前にピジョンは舞い戻ってきた。

「早く、家の中に入れ」

 じいちゃんが、その年齢を感じさせないくらい豪快な笑みを作る。そうやって笑ってくれるのはうれしい。だけど、自分はそれに何もできない。ん、とだけ頷いてさっさと家の中に入るくらいができることの上限だった。

 ……明日、あの子に聞いてみるかな……。

 クルクルとピジョンが肩の上でその柔らかい羽毛を頬に押し付けて甘えていた。

   ※

 最初はぱらぱらと。徐々に激しく、打ち付けるように。窓から暗くなった外を見ながらわたしは呟く。

「あ、本格的に降ってきた」
「そりゃ、そぉーでしょ。天気予報でも言ってたし、ドラも鳴ったし」
「わかってるけど」

 呑気な母親の声にわたしは窓から離れて、食卓にしている机に突っ伏した。ひんやりしていて気持ちいい。ドラを鳴らすのはアイツの仕事だ。アイツが風を読んで、それを知らせる。外れたことは、ない。

「ねえ、お母さん、アイツは可哀相なの?」
「……あんた、まだあの子にちょっかい出してるの? あの子に中途半端に首を突っ込むだけならやめなさい」
「違うもん。わたしは」

 呑気な母親は一変、諭すように真剣な顔をする。わたしはぎゅっと、机の上に置いてあったリザードのボールを握りしめた。お母さんはアイツのこと知ってるはずなのに。あんなに笑ってた時期を知ってるくせに。笑わなくなった理由を知ってるくせに。突き放すような、お母さんの表情にわたしは怒りをぶつけずにはいられなかった。

「なんで。なんで、アイツは笑わなくなっちゃったのか、お母さん理由、知ってるでしょ!? それなのに、どうしてよ!」

 わかってる。アイツは自分で望んでああなっているってこと。誰かが悪かったわけじゃなくて、ただ距離を置いてしまっただけ。そのことにアイツ自身が気づいてしまっただけ。
 風読みの、アイツの前にドラを鳴らしていたおじいさんがアイツを“拾ってきた”ってことも理由の一つにあげられるかもしれない。それでも、気づかなかったらアイツは笑ったままだったかもしれないのに。それが、良いことか悪いことかはともかく。握りしめた手の中でリザードのボールが小さく震えて熱くなる。

「……アイツは、可哀相じゃない…………っ!」

 どうしようもなくて、何もできない自分が悔しくて、何が何だか分からなくなってきて、ここに居続けることに居心地の悪さを感じざるを得なくて。

「ミワッ!?」

 わたしは自分の部屋に逃げ出した。

『……空が飛んでみたいの? じゃあ、同じだ』

 はにかむように、照れるように、そっと秘密は共有されたのに。

  *

 どんどんどん、と扉が叩かれた。じいちゃんは顔をしかめ、こちらに目を合わせてくる。男ばかりのこの家で朝からご飯のいい匂いがするということはないが、それでも別に何も食べないわけではない。ピジョンがバタバタと羽を散らせたので、急いで朝食を防御した。時計を見ればまだ七時前。ここに人が訪ねてくること自体少ないが、こんな時間にいったい誰だ?

「あいよ。…………こりゃまた……」

 じいちゃんが言葉を失っている。町長でもきたのかと首を伸ばすが、そこにいたのはあの子だった。

「あ」

 思わず声が漏れる。どうしてまた、こんな朝っぱらに。声を上げたせいかじいちゃんは丸くした目でこちらへそちらへ彼女と自分を交互に見ていた。何が起こったのかわからず、どうしたのかと聞こうかどうしようかと頭が混乱しているうちにじいちゃんが口を開いた。

「どうしたんだ? ミワ」
「アイツに用があるのよ」

 ミワ、がきっぱりと言い切る。目線はしっかりこちらを向いて。
 ……ミワ? あの子の名前か。でも、ミワ?

「ミワ。とりあえず上がれや。おい、風を見てこい」
「おじいさん、どうして名前呼ばないの?」
「ミワ? 呼んでるじゃねぇか」
「違う。アイツの名前よっ!!」

 ……名前なんていらないよ。必要ない。呼ばれなくても構わないよ。風はそんなもの必要としてないから。しっかりとこちらを見ながら、人差し指が突き刺される。構わないでくれとため息をつき、彼女の隣をすり抜け軋む梯子を上って行った。じいちゃんに彼女が一方的に叫んでいるのが聞こえる。風は今日も歌っていた。何事も感じずに、朝焼けの世界を巡っていた。頬を優しく撫でて、風は地平線の彼方へ消えていく。

 風にだけ興味を持っていればいいじゃないか。
 こうやって風の歌だけを聞いていればいいじゃないか。
 そうやって、ドラを鳴らしていればそれでいいじゃないか。
 ねえ、なあ、それが望みなんだろう?
 なのに、どうして彼女はそれを壊そうとするのだろう?

 わざわざ、騒がしいことを起こすのだろう?

 肩のピジョンがその翼を広げ、空を切り取る。風切羽が、風を捕まえる。上昇気流がその翼を空へと押し上げる。

「ピィイイィィユゥ」

 高い指笛が、風に乗って流れていった。谷がそれを反響させる。合図された太陽が応えるように空に光を与え始めた。世界で、きっと世界で一番美しい光景が目の前に広がっていく。

「ねぇ、名前。わたしに教えてよ。アンタの口から聞きたい」

 唐突な、声。ぎょっとして振り向くと彼女がいた。景色に気を取られて登ってくるのに気が付かなかったらしい。今までここに上ってきたことはなかったのに。というより、そんなくだらないことのために今まで追いかけられていたのか?

「……どうして、いつも試合申し込む、んだ?」
「え?」

 困惑にも似た色が彼女の顔に映った。そしてそれはみるみる内に絶望にも似た表情へと変わる。……気に障ることを、言ってしまったのだろうか。

「…………そ、か。……それも忘れたんだ。……覚えてないから、よ。そのことさえ、忘れてるからよ」

 声の最後は掠れていた。その声は震えていて、泣いているようで。

「え、ぁ……すまない。ごめん。悪い。……泣かないで」

 自分の声は嫌いだったが、さすがに何か言わないわけにはいかなかった。残念ながら指笛ではこの子に何も伝わらない。だが、いざ声を出すとなると掛ける言葉がわからなくて、あたふたする。言葉を知らないのはこういう時に不便だ。とりあえず、梯子の上は危険なので矢倉の上に上げようと手を伸ばす。だけど、彼女は首を振って降りて行ってしまった。彼女の腰で赤と白のモンスターボールがガタガタと揺れる。彼女のポケモンはリザードしかいないはずなので抗議するように揺れているあれはリザードだろう。ポケモンにまで怒られてしまった。一体、自分は何をしてしまったのだろう? ……覚えていないから? 忘れているから? ……一体何を?

「ミワっ!!」

 じいちゃんの叫ぶ声に耳を貸さず彼女は走って行ってしまった。じいちゃんはこちらを見上げて肩をすくめる。……彼女は、“ミワ”は一体誰だったのだろうか。

 自分にとっての、何だったのだろうか。

「追いかけないのか?」
「……追いかける……?」

 下に降りると、腕組みしたじいちゃんがそう言った。追いかけなきゃならないものなんだろうか。よくわからない。

「泣いてる女の子放っておいていいのか?」

 ……泣いてる?

「ミワとは一番仲が良かっただろうに。まぁ、お前は全部忘れてるか……」

 忘れている? 何を?
 胸のあたりがなぜか痛む。ざわつくとでも言うのだろうか。そんなこちらの様子を気にもかけずじいちゃんは続けて言った。あの、嫌いな憐れむような目を向けて。

「全部お前は自分の中に押し込めちまったんだよ。記憶の上に記憶を重ねて、風化させちまった。何も知りたくねぇっ聞きたくねぇって閉じこもっちまった。記憶喪失でもなんでもねぇ、覚えている。ただ隠して自分を誤魔化してるだけさ。まぁ、俺もそれを止めようとしなかったから同罪っちゃあ同罪だが……。それもある意味良いのかもしれねぇと思っちまったから。だが、良くねぇよなぁ。護ってやれなくて悪かったな、すまんかったなぁ」

 じいちゃん……?
 呆けてじいちゃんを見上げると、じいちゃんはその大きな手をいつものように頭に載せて髪の毛をぐしゃぐしゃと撫で回した。そうして、彼はいつものようににっかりと笑う。憐れみの目はそこにはない。

「行ってこい。どういう結果でも俺は気にしねぇから」

 鳥の巣になった頭が、勢いで頷いてしまう。

「ピィィイイィ」

 指から奏でられた高い音色に、ピジョンが肩に戻ってきた。

  ※

 腰につけていたボールからリザードが飛び出てくる。わたしを心配するような目でこちらを見上げてきてくれるけどわたしはそれに何も言えない。堪えていた涙が目から溢れ出す。力が抜けるようにぺたりと座り込み、リザードの首回りを抱きしめてその温もりにすがった。

 あぁ、『期待』なんてしなかったら良かったのに。
 わたしはなんて馬鹿なんだろう。

「ごめんね、ごめんね、リザード。ごめんね」

 ぐるるるっ、と唸るように鳴きながらなすがままにされるリザード。ふわりと暖かい身体。彼はこんなにも優しいのに。

「アイツは馬鹿だ。ひどいよね、リザード」

 黒い宝石のようなその眼は何も言わない。低いうなり声が聞こえるだけだ。

『ごめんね』

 記憶の向こうで、そう笑う幼いアイツ。
 泣き出しそうで、でも泣いてなんかいなくて笑ってて。

 ただ、それは拒絶の言葉だった。

   *

 自分がわからなくなったのはいつからだっただろう?

 僕は……「僕」?
 俺は……「俺」?

 あぁ、もう一人称すらもわからないんだ。言葉すらも不要で、名前すらも不要だから。……だって使わないんだから。忘れて当然だろう? 笛の音だけが唯一、僕の……? 俺の? 存在を示してくれる。風だけがいつまでもどこまでも平等に世界を走っていく。

「ピィイィイィィィッィイーィ」

 鋭く強いその音に、隣にいたピジョンがさらにスピードを上げて空を走る。それだけで、彼女には十分意味は伝わる。けれど、なぜか言葉は勝手に継いで出た。

「ミハネ、飛んで。探して、あの子を」

 並走していたピジョンは自分の声に頷き、自分を追い抜かして空を切る。

 ……どうして、彼女の名前を、呼ばなくなったのだろう?

 彼女の名前を呼ぶのは、ひどく久しぶりだった。

  *

「ミハ、ネ……?」

 良く知るピジョンがわたしの頭上に影を作った。その姿にリザードが鼻を鳴らし、わたしはリザードを離す。彼女の名前を呼ぶか呼ばないか、頭上に作られた影に気づいて数秒たったか経たないかのうちに、ピジョンは翼を休めるようにわたしの右肩に収まった。くるくると甘えるように喉を鳴らすミハネ。わたしは無意識にその喉あたりを人差し指で撫でる。よく、こうしてあげたのだ。彼女がまだポッポだった頃に。

 まだ、アイツが心の底から笑っていたころに。

「ミハネ……」

 繰り返し彼女の名前を呼ぶ。リザードと同じ黒い瞳がなぁにと言わんばかりに濁りのない目でこちらを見ていた。西風が頬を撫で、羽毛をなびかせ、火の粉を散らせる。

 その名前は、アイツと付けたものだった。
 由来を考えれば今じゃとても恥ずかしくて、付けられないような名前。それはもう、赤面ものの。

『“みはね”にしよう。それがいいよ。そうすれば、』

 風邪を引いたような声で、それでも嬉しそうに名前を付けていた。わたしも楽しくて嬉しくて仕方がなかった。けれど、その名前を呼ばなくなった。わたしも、アイツも。

 アイツは忘れるために。
 わたしは、

「ミハネ!」

 記憶のそれよりもっと低くなったガラガラ声がわたしを過去から現在(いま)へと呼び返す。はっはっ、と肩で息をしてソイツはわたしたちを見付けた。ソイツの目がまっすぐわたしたちをみる。けど、わたしはそれどころじゃなかった。今、コイツ、名前、呼んだ……?

 ……忘れたんじゃなかったの。
 忘れてしまいたいと、そう思って忘れたんじゃなかったの?
 全部全部記憶を押しつぶして、そんなことさえ忘れてしまって。自分のことさえ忘れてしまって。わたしのことも忘れてしまって。
 あんたは何もかも忘れた、大馬鹿になったんじゃなかったの? 人を傷つけて、傷つけるだけ傷つけて都合よく忘れた馬鹿になったんじゃなかったの?
 なのにどうして、ミハネと呼ぶの。
 その名前は、あんたが付けたんじゃない。忘れないように、いつでもどうなっても覚えていられるように、そう言ってつけた名前じゃない。
 それなのに忘れることを選んだあんたにその名前を呼ぶ資格があると言うの?

 記憶が重なる。そう、ミハネに名前を付けたのはアイツ。あんなに笑って、あんなに楽しそうに嬉しそうに。だから、アイツが言う前にわたしも名前を付けた。彼に。アイツと同じ方法で。アイツと同じように楽しそうに嬉しそうに。

 それをわたしは今でも覚えているのに。
 忘れないために、自分で思い出してくれるように、わたしはその名前を、彼に付けたその名前を呼ばないようにしていたのに。

「カエデ」

 彼の名前を呼びながらすくっ、とわたしは立ち上がった。黒い瞳と朱色の体をした火蜥蜴がわたしの声に体を起こす。ミハネがわたしの肩から飛び上がり、アイツの肩へと戻っていく。アイツの目が少しだけ丸くなっている。ミハネはこれから何が起こるのか知っているかのように、その翼を広げた。そして、わたしは言う。いつもみたいに。

「戦って」

 戸惑うアイツを無視してわたしはリザードに、カエデに指示を出す。飛び出していくカエデに応えるように、ミハネの翼が空を切る。ぶつかり合う二匹。戸惑いの色を未だ消せていないアイツはわたしとミハネの間でおろおろと視線を彷徨わせていた。けれど、ミハネがそんなアイツを叱咤するように鋭い鳴き声を上げ、それに我に返ったアイツは人差し指の第二関節あたりを噛む。
 ミハネとカエデは乾杯を繰り返すグラスのように、離れてはまた触れていった。

――アイツがミハネに名前を付けた時、ヒトカゲだった彼の名前はわたしが付けた。アイツと一緒に。アイツと同じように“忘れないため”に。ずっと覚えていられるように。いつでも思い出すことができるように。そういう意味をニックネームに込めて。

「ちゃんと喋って指示だしてよ!! 指笛じゃなくて、あんたの声でミハネに指示を出しなさいよ! カエデ、“ほのおのきば”!」

 それは。それは一つの小さな、馬鹿みたいな約束だったのだ。

「意気地なし! 自分の声を怖がってどうするの? 逃げてどうするのよ!?」

 指笛を奏で続けるソイツに、積りに積もった怒りをぶつける。ソイツはわずかに指を口から離して、怯えるように目線を斜め下へと押しやった。カエデの火の粉が、ミハネの飛び散った羽を焼く。

 その時わたしたちは幼くて、どうしようもなく幼くて、『現在(いま)』がずっと続いていくものだと、理由もなく盲信していた。とんでもなく、馬鹿だったの。変わっていくなんて、全て一瞬で変わってしまうものだなんて、知らなかったの。
 そして、馬鹿なわたしは今でもその思い出と約束に縋っているの。

「忘れられた方の身にもなりなさいよね!! 覚えてるこっちが馬鹿みたいじゃない!」
 
 片方が忘れてしまった約束なんて、とっくの昔に崩れてしまっていると知っていたのに。
 切れてしまった細い糸、それを繋ぎ止めたくて、結び直したくて必死だった。手を伸ばしては振り払われ、しつこく付きまとっては突っかかった。強がりを繰り返して、けなしてみせて、探し回って。
 もう糸は形を失ってしまったのだろうと気づいても、やめられなかった。こちらを見てくれれば十分だった。

「あんたなんて最低よ! 忘れたくせに……忘れたくせにミハネの名前を呼ばないで!!」

 思い出して、思い出して、思い出して。
 壊れた約束、忘れ去られた幼い思い出、彼の名前。わたしの名前。ミハネの名前。アイツの名前。
 呼んで。ねえ。呼んで。昔みたいに呼んでよ。昔みたいに笑ってよ。知ってる、それを恐れてるって。怖かったんだって知っている。でもお願い、思い出して。わたしの身勝手なお願いだけど、お願いだから、呼んで。昔みたいに笑って、呼んでよ。指笛なんて大嫌い。そんな音は聞こえない。聞こえないの。

 指笛じゃあんたが何を言っているのか、わからないもの。

「わたしがあんたに挑むのはね!! 約束したからよ!」
「……誰、と……?」

 ようやく、ソイツは口を動かした。拙い言葉を、掠れた音で創る。
 ミハネとカエデの衝突が、止まった。

「あんたと」

 短く、本当に短くわたしは答える。それはとてもとても恥ずかしい理由だから。
 それはとてもとても未練がましくて、つまらない、けれど大切な理由だから。

「何、を……?」

 言葉を話せることを思い出したように、掠れ掠れ、ゆっくりと紡がれる声。
 足らない舌は呂律が回っていない。そして、それは本当に純粋に聞いたんだろうけど、答える側のわたしは口ごもるしかない。なので代わりに聞く。

「……思い出して、いいわけ?」
「…………」
「忘れる、それがあんたの選択だったんでしょ? 嫌なこと全部忘れて、喋らなくなって、今の自分を作って、満足してたんでしょ? なのに聞いていいの?」
「……わか、らない……」

 忘れてしまっているのだから当然の答えだ。でもその煮え切らない答えが癇に障った。
 わたしはカエデに炎技を命じる。反応が遅れたミハネはその翼を焼かれた。背中に風を受ける。風の町。西風の最も愛したところ。風に愛された町で風に愛された子供は、人に拒絶されて風に全てをあげてしまった。……神様、風の神様。どうかアイツを返してください。わたしたちが傷つけ、貴方が奪ったのだから、どうかもう一度返してください。

『ごめんね』
『ごめんね』
『ごめんね』

 頭の中で繰り返される拒絶の言葉。アイツの笑顔はとてもとても綺麗で、とてもとても空っぽだった。
 でも謝っても、許さない。許さないし、絶対に離さない。

 だから、どうか。泣かないで。

  *

「ミハ……っ!」

 翼を焼かれるミハネについ声が出た。空へとのがれる彼女にピュィ、と短く指示を出す。

 ……知りたい? 知りたくない?
 わからない、わからないよ。一体、自分は何から逃げたんだろう?
 どうして忘れているならミハネの名前を呼んじゃ駄目なんだ?

「ピュィイイィッ」

 ミハネには、一体どういう意味があった?
 カエデには、一体どういう思いがあった?

 みわ、ミワには?

「ピュゥウウゥウイィ」

 風が歌う。

 指笛の音色に音色を重ねるように。
 いつものように高く、綺麗で、透明な声で。優しく、無慈悲に。
 世界も、人間も、ポケモンも、知ったことではないと。
 その全てを包み込んで、撫でて消えていく。

 その歌が、大好きで。

「ピュイゥ」

 自分の声は、嫌いだった。
 嫌いで、大嫌いで、指笛の音色だったら、まだ綺麗だったから。
 空を貫くような鋭い音。その音は嫌いじゃなかったから。

「笛吹くなああぁ!」

 彼女から繰り返される言葉。
 そんなことを言われても、困ってしまう。なぜ、笛の音ではいけないのだろう。
 ミハネ、ミワ……ミハネ?

 赤い火の粉が風に揺れる。右から吹く風、左から吹く風。全部、わかる。わかるから、ミハネに的確な指示が出せる。……けれど、それは、

 それは自分以外誰もできない。
 ミハネ以外には誰にも伝わらない。

 もしも、もしも彼女に何か伝えたいと思ったら、一体どうすればいいのだろう?
 変なのだ、おかしいのだ。自分だけがそんなことができるなど。おかしいと、皆が言った。奇妙だと奇怪だと。でも。いけませんか、それではいけませんか。そんなに憐れまれるようなことを、していますか。自分はそんなにも不幸なのでしょうか。
 赤色のリザードを従えた彼女、ミワがこちらを真っ直ぐ凝視している。少し赤く腫れた目。その目にあるのは憐れみではなく、怒り。……泣いていると、じぃちゃんは言っていた。彼女はどうして泣いているのだろう?

 あれだけ人に噛みついておきながら、リザードに的確な指示を出しながら、一体誰のために泣いているのだろう?

 わからない、わからないよ。
 ぼくには……おれにはわからないよ。

『ごめんね、ごめんね。ごめんね、ミワちゃん』。

「ピュゥッ!」

 音が、崩れた。指示を失ったミハネが、僅かに躊躇う。
 あ、と思ったころにはもう遅い。昨日の、彼女の立場と同じだ。
 そして、昨日の自分と同じように彼女もその隙を見逃さなかった。

「カエデ!」

 炎が、ミハネの綺麗な翼を焼いた。
 とてもとても強い赤色をしていて、目を奪われるほど綺麗な炎だった。
 風が、火の勢いに力を貸した。

 火に炙られた風が、熱風が襲う。反射的に目を閉じて、次に目を開いたときに見えたのは翼。朱色の、力強い翼だった。
 地に落ちたミハネは手傷を負った翼を動かし、体勢を立て直そうともがいている。

 リザードン……?

 リザードの進化系であるそのポケモンは翼があると言う。
 風を捕まえるための。空を羽ばたくための。

「……カエデは、あんたのポケモンでしょ……」

 絞り出すような彼女の言葉が掠れて聞こえた。……リザード、いやリザードンが……?
 ミハネを抱き上げ、焦げたその羽毛をそっと撫でる。クルル、と小さく甘えるような声がミハネの喉から聞こえた。

「交換したの、覚えてない?」

 縋るような響きを持っている彼女の言葉。
 ……交換。ミハネと、リザードンを?

「『名前を付けよう。もし離れても覚えていられるように』」

 毅然とした声で、彼女は言った。

  *

「あんたが、言ったのよ。名前を付けようって。わたしのポッポに『ミハネ』。あんたのヒトカゲに『カエデ』。カエデはわたしが名前を付けて、ミハネはあんたが付けた。由来はあんたが考えた。離れないように。覚えていられるように、忘れないように」

 二回りも三回りも大きくなったカエデがわたしに身長を合わせるように首を下げる。わたしはその鼻の頭を撫でた。大きな翼、人も乗れるくらい大きな、カエデの翼。朱色の、綺麗な翼。その翼のことを教えてくれたのは他でもないアイツだった。

 ぽつり、ぽつりとわたしは言葉を発する。そうよ、こうやって喋ってくれないとわからない。
 あんたが何を伝えたくても、何かを伝えようとしてくれても、わたしには届かないじゃない。

『空を飛んでみたいんだ』

 最初にあったのはそんな夢。
 風に愛された町で、そう夢見た子供が二人。女の子と男の子。

『……空が飛んでみたいの? じゃあ、同じだ』

 照れるような言葉に顔を上げると少し恥ずかしそうに、少し嬉しそうにはにかんだ笑顔が逆光に見えた。
 共有された秘密。共有された約束。小さな小さな馬鹿みたいな、約束。
 小指を使って指切りをする代わりに、二人のポケモンを交換した。

『ミワちゃん、ミワちゃん、あのね、この子は』

 ポッポと、ヒトカゲ。
 二匹が大きくなって、人を乗せて空が飛べるようになったら、一緒に飛ぼうと。
 だけど翼を持たないヒトカゲに、これじゃあ空が飛べないと、そう女の子は駄々をこねた。
 すると、男の子は笑って秘密を教えてくれた。

『この子はね、“しんか”するんだ。大きくなって、翼が生えてくるんだよ。ドラゴンの子供なんだ』

 ドラゴンの意味はその時分からなかったけど、その時は男の子の屈託のない笑顔に女の子は納得した。交換する時に、名前を付けた。提案は男の子。何て名前にするの、と聞く女の子に、男の子は悪戯っぽく笑って見せた。

『もし離れても約束を忘れないようにする名前。お互いをずっと覚えておける名前、もし忘れても思い出すことができるような名前』

 どんな名前? 男の子の言葉の意味さえあまり理解できなかった女の子は男の子に対して首を傾げるだけ。男の子はさらに笑いながら言った。幸せそうな、楽しそうな笑顔だった。

『“みはね”にしよう。それがいいよ。そうすれば、』

 ミハネ。その意味はひどく単純。
 小さな子供が思いつくような、つまらない言葉遊び。
 えへへと、はにかむ笑い。照れたような顔は赤く染まっていた。

『ミワちゃんのこと、忘れないよ』

 漢字表記なら美羽(ミハネ)。わたしの名前は美羽(ミワ)。

「自分の名前を、お互いに付けたのよ」

 リザードンの名前は、楓(カエデ)。
 アイツの名前は。

「思い出した……? キカゼ」

 木風(キカゼ)。

  *

 キカゼ。

 ひどく、ひどく、遠い言葉だった。
 リザードンを連れて、彼女が笑う。泣きそうな顔で、崩れそうに笑う。
 違う、本当は、本当はきっとずっと覚えていたんだ。見ないようにしていただけ。忘れていたいと思ったから、忘れようとしていただけなんだ。あの憐れみの目が、大嫌いで。風読みだから、そうあろうとしただけなのに。そうあっただけなのに。ただそう、聞こえていたことをそのまま伝えただけだったのに。そんな目を向けられで、じゃあ一体どうすればよかった? 幼い自分にはそんなことわからなくて。風読みを継ぐために連れてこられた人間なのにって、そのために拾ってもらった人間なのにって。それなのに風を読めば気味悪がられて、その矛盾が気持ち悪くて、でも続けないとじいちゃんに何も返せなくて。だから、忘れることにした。感じないことにした。風とだけ、語るようになった。逃げて逃げて逃げて、大切なものまでも、一緒に封じ込めて。
 忘れてはいけないものだったのに。忘れないための名前だったのに。

『じゃあねえ、キカゼだから、この子は“かえで”』

 そうだ、幼い自分達には『木風』が『楓』に見えたんだった。
 向かい風が頬を撫でる。優しく優しく過ぎ去っていく。ずっとずっと、彼女は覚えていてくれた。あんな、つまらない幼稚な約束を。覚えていてくれて、ずっと一人で守ってくれていた。思い出した? と問う彼女に掠れた息を吐き出す。
 もう、いい加減にしよう。いつまで恐れているんだ。もう、あの頃のような右も左もわからない子供ではないのだから。たった一言言えば、きっと時間は動き出す。忘れたふりをして目を逸らしていた、幼い自分のまま止まっていた過去がやっと過去のものになる。

「……思い出した、よ」

 ああ、なんて馬鹿なんだろう。

   *

 『ごめんね』とわたしを拒絶した時のように、泣きそうな顔でキカゼは笑った。
 ピジョンを腕に抱えたまま、泣きそうに笑うキカゼの傍にわたしは歩み寄る。カエデも同じようにわたしに従う。目の前に来たわたしに、キカセは申し訳なさそうに、苦笑する。ピジョンの飾り羽が腕のあたりに流れていた。

「逃げるなんて、あんたはずるい」
「……うん……ごめんね」

 身長は、いつの間にか抜かされていた。
 バトルを挑んでいたのは、ヒトカゲをリザードンに進化させるため。ピジョンをピジョットに進化させるため。約束を、叶えるため。そうすれば、思い出してくれるかと、わたしはずっと期待していたのだ。

「忘れちゃうなんて、あんたはひどい」
「うん、知ってる」

 謝るキカゼ。掠れた、年中インフルエンザのような声は、それでもわたしにちゃんと届く。
 懐かしくて暖かい声だった。

「自分の名前さえ忘れちゃうなんて、論外」
「うん、……悪かったよ。怖かったんだ」

 あぁ、なんてひどいんだろう。
 このキカゼとか言う人間は、どうしてこんなにひどい人なんだろう。
 ごめんねと、謝りながら笑うんだろう。その笑顔が歪む。
 知ってるよ、知ってる。怖かったんだって知っている。耐えられないほど恐ろしかったんだって今ならわかる。それでも、それでもわたしは帰ってきてほしかった。キカゼに帰ってきてほしかった。

「指笛じゃ、わたしには聞こえないの。だから、大嫌い」
「……うん、ごめん」

 腕の中で、くるくるとミハネが鳴く。安心しきったように、その身を預けて。
 その姿さえ歪んでしまう。

「謝る、から……だから、泣かないで」

 片手でミハネを抱きかかえながら、もう一方の、緑色のバンダナの巻かれた腕がわたしを撫でる。

 西風が、どこか違う町の香りを運んでその隙間を流れて、地平線の向こうへ走っていった。
 風の音が、歌っているみたいだった。

  *

 鋭い音が空を引き裂く。
 高く、遠く、澄み渡る青空に。
 優しさの混ざったその音が。

 空に共鳴を引き起こし、わたしの心を波立たせる。


 ここは風そよぐ谷間の町。至るところでたくさんの風車が回り、それは生活の糧となる。
 とある風の神様が名前になっているこの町を人々はこう呼ぶ。

 西風の最も愛したところ、と。
 風の恩恵を受けた町、と。

 ピジョットの羽が、空に散って、リザードンの翼が風を追いかけた。

***
短編ノベル集に投稿したものを一部改編しております。改悪されたようにしか見えん…!
奇しくもカエデ(というかカエデ属の紅葉)の花言葉は「大切な思い出」だそうです。

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2013.6.29  15:35:27    公開


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