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我楽多たちの物語

著編者 : 森羅

欠けゆく月の想いびと

著 : 森羅

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 「欠けゆく月を想うひと」と合わせてお読み頂ければ幸いです。

     *

 ええ。私は後悔なぞしていないのです。
 ええ、不思議ですね。本当に不思議ですね。
 ですが、私は後悔なぞこれっぽっちもしていないのです。

 嗚呼、あれほど憎らしくて、呪ってやりたくて、絶望させたくて、ぐちゃぐちゃに、ぼろぼろに、壊して……壊して、やりたかったのに。

 おかしいですね嗚呼おかしいですね。
 本当に、どうしてなんでしょう。

 貴方様はご存じだったでしょうか。私の心を。
 ご存じの上で私を傍に置いていたのでしょうか。
 ご存じで無かったというのなら、私はそれを感謝します。どうか永遠に知らないで欲しいと、そう心から望みます。
 ただ、ご存じだったとしたら。ご存じの上で私を傍に置いていたのだとしたら。

 だとしたら、私は貴方様を嗤います。とてもとても愚かだと、そう嗤って差し上げます。

 愚かで可愛い、だんな様。

 ……だんな様。貴方様は、本当に。

   *

 お屋敷の離れ。
 私の一日は大抵、そこから始まります。

 すっかり日の昇った空を仰いで、溜息をつきました。
 お庭には芝が引いてあって、池があって、広くて、手入れが行き届いていてそれはもう美しいものです。ただ、私はその光景があまり好きではありません。それを見ると自分が籠の中の生き物だと思い知らされましたから。私の世界はそれだけなのだと、私にそう追い打ちをかけましたから。……いえ、それでも私は、あえて言うなら感謝すべきなのでしょう。ぽつんと孤独なあの場所よりはずっとましなのですから。えぇ、多分。きっと多分。……自分にそう言い聞かせているだけだと知って私は私を心の中で嗤いました。

「だんな様」

 とりあえず、とりあえずです。私が自分の境遇を恨むのであれ、嘆くのであれ、そんなことで現状は変わりはしません。私は私の仕事をせねばなりません。
 私の声にふすまの向こうは静かでした。今度はもう少し大きな声で。

「だんな様。もう朝ですよ」

 今度はもぞりと布団が動く音がしましたが、それでもどうやら起きるつもりはないようです。いつものことだと言えばそう、私がだんな様と出会ってその後『だんな様のお付き』という仕事があてがわれてからほぼ毎日のことなのですが、私は少しそれに笑いました。どうしようもない子どもです、だんな様は。
 私はふすまに手をかけました。細くて白くて綺麗な手だと、いつの日かだんな様は笑って下さったことがありましたが、私は自分の容姿がそこまで好きではありません。私はヒトではないのですから、できればありのままの姿でいたいとそう思うのは……いえ、その考えは傲慢なのでしょうね。私はまだ“主様”に縛られているのですから。

「だんな様。失礼します」
「……今日は、何もなかったはずで……だけど……」

 白い毛布の塊が、部屋に入ってきた私にたどたどしく答えました。部屋は比較的きれいに片付いていて乱雑とした様子はありません。私はだんな様の言葉には答えず、白い塊を引き剥がしました。自分で言うのもなんですが、なかなか容赦のない一撃であったと言えるでしょう。うぐっ、と小さな嗚咽が毛布の下の生き物から聞こえました。

「だんな様。寝続ける方がお体に障ります」
「……ん。……わかった起きるから。起きるから、起きるよ……」

 齢十一。確か、そう言っていたはずです。あ、いえ。私と出会って四、五か月、確か誕生日を迎えたはずですから、十二でしょうか。だんな様は予定が入っていない限り誰かが起こさねば起きません。下手をすれば丸一日でも布団の中に閉じこもっておられるでしょう。生まれつきあまり体が強くないとそう言っておいででしたが、それにしてもそれは逆に体調を崩しそうな生活だと言っても過言ではないと思わざるを得ません。ふらふらの足取りで眠たそうに眼を擦りながらヌオーもびっくりな速度でだんな様は身支度しておられました。……いえ、これも毎日のことなのですが。

  *

「だんな様は、日の光を浴びなさすぎるのではないでしょうか。先程も申し上げましたが、寝てばかりの方がお体に障りますよ」
「そうか、な。いや、そうだね。……十六夜(いざよい)が言ってることは正しいよ」

 離れの縁側。そこに座ってお庭を眺めながらどこかぎこなく笑うだんな様。この方は自然に笑うことが苦手なようです。その笑顔を私は内心で憐れみました。
 わかっているのです。この方は何も悪くはないのだと。だんな様も、もしかすれば主様も、この家の者は皆、私と同じなのです。囚われて、縛られて、ここから逃げることができないのです。それはもしかすると私以上に。
 きらきらと朝露に輝く松の木に、池の水面のが細波立ちます。敷かれた芝は綺麗に一定の長さに切り揃えられておりました。じっと一点を見つめていたからでしょう。幼いだんな様の声に私は我に返りました。

「どうかした、十六夜」
「……いいえ。良いお天気ですね、だんな様」
「あぁ、そうだね。雨も好きだけれど」

 『十六夜』。だんな様が私に下さったのはそういう名前でした。半月ほど前、ここで月見に興じながらだんな様がそうおっしゃったのです。なぜ欠け行く月なのかと尋ねる私に、だんな様がおっしゃった言葉は少々子供らしくないものでした。その言葉に私はああこの方はやはりそういう人間なのだと思いましたし、そういう立場にいることを強いられているのだと思いました。哀れだと思いましたし、愚かとも思いました。ただその時、だんな様はなぜだか笑ってらっしゃったのです。とても良いことを思い付いたといわんばかりに少しだけ頬を緩めて。
 主様は私に名前など下さらなかったものですから、私自身興味もなかったですし、私についた名はこれが初めてと言えるでしょう。ヒトとは不可思議な生き物です。必要のないものにまで名前を与えて所有を示したがるのですから。他と区別して愛でたがるのですから。その感覚はとうとう、最後になるまで私にはわかりませんでした。
 ……ですが、後に振り返ると私がだんな様を愛しく思い始めてしまったのはきっとこの瞬間からなのでしょう。『十六夜』という名がすとんと私の中に落ちてきて、私が『十六夜』になった瞬間から。

 十六夜と呼ぶ声が幼くて、弱弱しくて、脆くて、どうしようもなく脆くて弱いそのだんな様を守ってやらねばと私にそう、思わせたのでしょう。

「十六夜」
「はい、だんな様」

 空気の漏れる音がだんな様の喉から微かに聞こえました。だんな様は気が付いていらっしゃらないでしょうが、それは確かに崩壊の音でした。私はそれに知らぬふりをします。気にしていたらキリがないと言う程のものでしたし、なにより意地の悪い話ではありますが、私はだんな様がどうなろうと知ったことではないと思っていたのです。死ぬなら早く死んでしまえとも思いましたし、苦しめばいいとも願いました。私は、本当に、この家が、主様が、嫌いでした。破壊を望むほどに嫌いでした。それだけの話でした。だんな様はそんな私の心を知ってか知らずか私を見て、少し笑いました。どこか憐れむような笑い方でした。

「……だんな様?」
「ん?あぁ、やっぱり良い」

 その視線がどうしようもなく痛くて、心の中を見透かされているようで、私は話の続きを促しました。しかし結局だんな様は首を振って立ち上がってしまわれます。その動きを視線で追う私は部屋に入っていくだんな様に、だんな様が何を言おうとしたのか理解しました。

「おっしゃって下さればお持ちいたしますよ。だんな様」
「すぐだから、良いよ」

 薬です。ヒトが脆弱だと私はよく知っておりましたが、だんな様のそれはかなり飛び抜けていたと思います。十分ほど歩けばふら付いておられましたから運動なんてもってのほかでしたし、年中体調を崩しているような方でしたので寝込むことも多々ありました。
 縁側に戻って来られただんな様は手に小さなプラスチック製の安っぽいケースを握っておられました。これでもかというくらいに詰め込まれたケースの中身は年端もいかない子供が飲む量の薬ではありませんでした。駄菓子の代わりに薬を食べるようなそんな錯覚に陥るくらい大量の薬を服用していたと思います。それは流石の私でも不安になるくらいに。

「だんな様。あの。逆に、倒れてしまいませんか?」

 だんな様の手にあるそれをじっと見ながら私は言います。そんな私にだんな様は少し笑いました。ぎこちなく、弱弱しく。

「あぁそうかもしれ。……?」
「――様」

 ふっ、とだんな様の場所に影が生まれました。だんな様を呼ぶ声にだんな様は影を見上げます。一瞬、私以外は気が付かなかったでしょうがたった一瞬だけ、だんな様の顔が引きつりました。その顔に浮かんだのは紛れもない恐怖。私もまた影を見上げます。逆光で見えづらくはありましたが、その顔に微かに見覚えがありました。といっても親しい類の代物ではありません。媚びるような目付きは嘲笑したくなるようなもので、吐き気がしました。

「――様。お久しぶりです」

 影から吐き出された言葉に、だんな様は社交辞令とばかりに笑って答えます。その時にだんな様が手の中のケースを握りしめたことを私は見逃しませんでした。

「あぁ、ご無沙汰しておりましたね」
「ご当主にお目通り願ったのですが、その帰りにご挨拶を……」

 なんてことのない社交辞令。私は受け答えに応じるだんな様の隣で自分の心がだんだん冷えていくのを知りました。私にとってこんな付き合いなどどうでも良いことでしたのですから当然です。子供相手にへつらって、媚って彼は、いえ彼らは一体どうしたいのでしょう。だんな様を訪れる彼らも自己利益のためであってやりたいわけではないのでしょうが、ならばやらねば良いのです。『ご機嫌伺い』なぞ来ない方がよっぽどだんな様にも私にも、そして上っ面な笑顔を振り撒く彼らにも精神衛生上良いでしょうに。だいたい、内心でだんな様を馬鹿にしながらへつらうのもどうかと思わざるを得ません。ヒトの考えはよくわかりませんが、私からすればそれはただただ詰まらぬことです。
 話せば話すほどだんな様の呼吸が少しずつ狂い始めて、薬を取りに行く前に聞いたあの喉鳴りの音はだんな様自身も気が付くくらいの音量になっておりました。それでも構わず会話は続きます。心底興味のない詰まらない内容でした。風に揺れる松の枝や池に生まれる波紋を眺めている方がよっぽど有意義だと思えるほどの内容でした。
 そして、それはおそらくだんな様にとってもそうだったでしょう。ですがだんな様も相変わらず受け答えを続けておられました。まさに立て板に水、私と話す時とは打って変わってすらすら流れてくるだんな様の受け答えに私は冷淡な目をしていたことでしょう。だんな様もまた相手にへつらっているのです。どうしようもなく愚かな行為だと私は思いますが、だんな様は常に周りの目を気にされていました。それはもう、過敏すぎるほどに。
 身体の融通が利かないことにだんな様の心は怯えていました。こうしなければ、ああしなければ、と繰り返し繰り返し自分を責めて、傷つけて。少しでも認めてもらえるように、役立たず扱いされないように、失望されないように、舐められないように、認めてもらえるように。今にも崩れて壊れてしまいそうなくらいだんな様はいつも気を張っておられました。それは、その時あまりだんな様のことが好きでなかった、いえ寧ろ嫌いだった私から見ても不安になるほどでした。ですが、だんな様が『だんな様』である限りそれは避けられないことだったのでしょう。そして、この台詞も。

「ところで。お体の具合は、いかがでしょうか?」

 毒薬の台詞はだんな様の身を強張らせました。その様子に今までで一番楽しそうな、嫌味な顔が哂います。分かっていて言うのですから性質が悪いことこの上ありません。
 ストレスの捌け口を求めるように上辺は丁寧な、しかし劇毒入りに言葉がだんな様に吐き捨てられます。だんな様の手の中で、薬まみれのケースがぎゅっと音を立てました。風が吹いて池に波紋が描かれます。やけにゆっくり西日が傾きかけておりました。昼間の太陽に温められた風とは違い、少々冷えた風がお庭を渡ります。嗚呼、私も風のように飛んでいけたらどれだけ良いでしょうか!

「そんな体では、いえそんな体で」
「お心遣い感謝いたします。日も落ちてきました。そろそろお帰り下さい」

 ひゅー、とだんな様の呼気からあからさまに音が漏れました。その声に私はだんな様へと視線を戻します。突然の言葉に驚き、黙る男性。よもや反撃が来るとは思わなかったようです。ですが、そう思っていたのならその考えは甘すぎました。淡々と、抑揚を失い、色を失った言葉をだんな様は続けます。子供の、いえ病人のどこにこんな力があるのかと思えるほどの威圧感をその言葉は持っておりました。

「心配なさらなくても貴方がどうこうだと私は言うつもりはありません。ええ、確かに。確かに私はあまり丈夫ではございません。ですが、それは貴方に心配して頂くほどのものではございませんし、それに」

 ゆらり。その擬音語が一番正しいでしょう。立ち上がっただんな様は先程とは全く違った、いえ、ガラス玉のような目をしていました。だんな様を見下ろし、嘲笑っていた男性はその身を恐怖に捩じらせます。わざわざ藪を突くようなまねをするからそうなるのです。私はその様子をじっと見ておりました。少しだけ体が震えるのがわかります。その『だんな様』も私は数度拝見いたしましたが、何度見てもそれは鳥肌が立つものでした。恐ろしくて身体が震えるほど恐ろしくて仕方がないのです。それはどうしようもなく冷たくて、感情が籠っていない、ヒトを圧倒させる目でした。支配する立場の、支配者側の目でした。主様と同じ目でした。今のだんな様の目にこの男性はヒトとして映っていないのでしょう。それはそういう目でした。

「どうやら何か、勘違いしておいでのようですし」

 完全に温度を失った、とどめの言葉。
 この方は自分の方が立場が上であると知っているのです。この自分の三倍以上の歳を数えた男より自分の方が立場が上であると。支配者は自分であると。
 恐怖に顔を引きつらせて頷く相手にだんな様は笑いました。一切の感情の籠っていない綺麗なだけの微笑みで。

「お帰り下さい。どうぞ、お気をつけて」

 だんな様の手から滑り落ちたケースの薬がばら撒かれて、砂の上で音をたてました。

  *

 その夜は咳き込む音がひっきりなしに聞こえておりました。肺が壊れたような荒い呼吸と、喉鳴りの音と、痰が絡んだ咳とが不気味な音楽となって耳の奥に響きます。
 薬を飲み損ねた昼時から夕刻にかけてはたった数時間と言ってしまえばそれまでですが、だんな様にとってその数時間は限界を大きく上回った時間だったのです。あの男が完全に見えなくなるまで不気味に笑ったまま突っ立っていたのはほとんど執念とも言えるでしょう。しかしその枕元に控えながら、喉を嗄らせて咳を続けるだんな様に私の心は淡々としておりました。

「死んでしまいますよ、だんな様」

 布団の上で苦しそうに寝返りを繰り返しながら、無茶苦茶な呼吸と咳を続けるだんな様に私はそう申し上げました。当然のことを伝えるために、そう申し上げました。

「死んでしまいますよ、だんな様」

 私の声は冷徹でさえあったでしょう。だんな様は私の言葉を聞いているのかいないのか胸を押さえて体を捩じらせて長く咳き込み続けます。無理やり吐き出した咳に、血が混ざっておりました。私はそれを見ながら、繰り返し繰り返し呪詛のようにそう申し上げ続けました。

「死んでしまいますよ、だんな様」

 ごっ、がっ、と喉の奥で詰まるような音と共に旦那様が吐いたそれは血が混ざっておりました。すえたような嫌なにおいが鼻を突きます。私が渡した薬を流し込み、そのたびにそれごと胃の中のものを全て吐き出されました。徐々に吐血へと変化した咳と嘔吐は、結局洗面器から溢れて畳をわずかに赤くしました。
 仄暗い部屋の中、洗面器の中で波打つ赤色はどす黒く、おぞましいものに見えました。だんな様に対して死ねばいい、苦しめばいいとそう願っている自分を映しているようで。知っています。それは願ってはならない願いなのです。私は『ポケモン』なのですから。ヒトの姿でいるよう、そう言われてもポケモンであることには違いありません。ヒトの姿でいるよう言われ、ヒトの姿を取っている時点で私はポケモンなのです。どれだけ嫌であろうと主の命に従う他ない、ポケモンなのです。苦しめばいい、死ねばいい、どうなろうと知ったことか、それは私が思ってはいけない考えなのです。ですが、主様。私は今はもう居ないかつての主に吐き捨てます。主様、私は貴方様が嫌いでした。死ねばいいと願いました。ええ本当ですとも。そう幾度となく思いましたとも。ええ、わかっています。それは願うべきでない願いなのです。考えてはならぬ考えなのです。
 私がどれだけ主様を嫌おうと、この家を嫌おうと、私は主様のポケモンだったのですから。ですが心から主様の幸福を願うことなどできませんでした。ええ、できなかったのです。苦しかったのです、私も。私も、私も、私も!私だって!
 私は発狂しそうでした。

「……死んで、しまいますよ……」

 私の声は、消え入りそうでした。
 ですが、吐くだけ吐いて幾分楽になったのでしょう。大きく息をついた後、だんな様の呼吸は安定しておりました。

「……十六夜」
「はい、だんな様」

 別に私だってただ座って見ていただけではありません。タオルでも絞って参りましょうか、となんとか笑みを浮かべ腰を浮かせかけました。ですが、だんな様は首を振ります。大丈夫だから、と。

「死んでしまうって言ってたけどね……死なないよ……。死ねないから、死なないよ」

 無茶苦茶です。死ねなくてもヒトは死ぬのです。死にたくないと願っても死んでしまうのです。私は顔をしかめずにはいられませんでした。小さく咳を漏らしてからだんな様はそんな私に向かって微かに笑います。それはあのどうしようもなく幼くて、弱弱しいそれでした。暗い場所で白い布団は比較的明るく見えて、淡い光を放っているようにも思えました。

「だって、僕は逃げられない。僕で、僕であることから逃げることなんてできない。……そうだろう?
なら、死ねない。僕は、僕だから。嫌でも、そうなんだ。だから、逃げない。……いや、逃げれない。
十六夜、君もだろう?逃げられない。違う?同じことだと、僕は、思ったんだけど。勝手な妄想だったら謝るよ」
「だんな、様……」

 私はだんな様の問いかけに答える言葉を持ちませんでした。それは当たっていましたから。
 私はどれほど願っても、逃げられない、逃げることの許されない生き物でしたから。

「ねえ、十六夜。どうして、君は」

 高熱で半ば朦朧とした意識の中でこの問いかけをしたためでしょう。この質問を、だんな様は次の日には忘れておいででした。
 それがどれほど私に対して衝撃を与えたかも知らずに。

「どうして、ヒトの姿をしているの……」

 はぁ、と短い息がだんな様の口から吐き出されました。少し楽になったとはいえ、会話に体力を持っていかれたようです。
 私はだんな様に気が付かれないように震え始めた右腕を左腕でつかみました。だんな様の問いかけは聞かなかったことにして私は立ち上がります。タオルお持ちしますね、と小さくここから逃げるための言い訳のように呟きました。ふすまに手をかけ、開き、できるだけできるだけ早く立ち去ります。
 だんな様が次に続けた言葉を、聞かないことにするために。

「……ありがとう、十六夜。いいよ、ここに居なくてもいいよ。自由にしてあげる。自由にしてあげるよ。君がここにいる義務なんてないんだから。だって、苦しかっただろう?ここは途轍もなく息苦しいだろう?ねえ、十六夜――」

 苦しいって感じて当たり前なんだよ。
 逃げることのできない、弱音を吐くことも、弱みを見せることもできない哀れな生き物の、本物の言葉でした。
 微かに、本当に微かに最後その言葉を吐き出して、今度は規則正しい寝息が私の耳に届きます。

 みしみし軋む廊下の板、ぐらぐら揺れる闇夜のお庭。
 だんな様、だんな様。私は、私は、私も……。

 十六夜の夜から約半月。闇夜で良かったと、その時私は心からそう思いました。

   *

「だんな様、朝ですよ。……お加減はいかがですか?」

 できるだけ何事もなかったかのように、私は声を押し殺してだんな様の部屋を訪れました。
 返事はやはりありませんが、今日は無理に起こすつもりは特にありません。ただ様子だけは確認しておこうとふすまに手をかけました。

「だんなさ……!?」
「あー十六夜ちゃあん」
「十六夜、助け……」

 明けた瞬間目に入ったのは、だんな様の傍に座っていた黒色のワンピースに白いエプロン姿の、分かりやすく言えば給仕服の少女。ただし秋の稲穂のような温かみのある金色の尻尾が二本、彼女から延びていました。私は彼女とは主様がいらっしゃった頃からの古馴染みですので、彼女が誰かを答えることはできます。九本あるはずの尾を二本しか出していないのはただ邪魔だからと言うふざけた理由だとか、給仕服も今となってはほぼ自分の趣味だとか。ですが私は状況を理解するのに五秒を要し、目の前の状況に頭を抱えました。

「山吹(やまぶき)……。貴方、何をしているんです?」
「えーそりゃもちろん『だんな様あぁっ。きゃあ、もう今日も可愛いですねえ!』って」

 けろりと答える山吹に瀕死のだんな様が布団の上に蹲っておられました。楽しいのか彼女の二本の尻尾がぐにゃぐにゃぱたぱたと暴れています。
 キュウコン。山吹を種名で答えるならそうなります。唯一私が『何』であるのか知っているものであり、古い友人でもありました。そしてこうやってたまにだんな様にゲリラ攻撃を仕掛けるはた迷惑な狐でもあります。流石に今回は、タイミングが悪いとしか言いようがありませんが。

「……山吹」

 だんな様が小さくそう言うと、はあいと元気よく答えた彼女はぴょこんと飛び上がってその場から退きました。山吹に促されるがまま私は山吹が居座っていた場所に座り、だんな様に尋ねます。

「お加減、いかがですか?」
「……昨日よりはだいぶいいよ」

 微かな笑みと、強がりの言葉に私も釣られて笑いました。
 お水をお持ちいたしますねと立ち上がり、未だ入口の所に立ったままの山吹をすり抜けようとして、

「ふふーん、十六夜ちゃん。大切にしなきゃだめよ」
「……どういう意味ですか?」

 囁かれた、どうしようもなく楽しそうで、嬉しそうな山吹の言葉の意味を私はその時理解しかねました。疑問符を浮かべる私に山吹は一層笑って答えます。だんな様はどうもまた、眠ってしまわれたようです。

「さあ?でも、そう思っただーけっ。だんな様は優しいもん」

 にししと尻尾を揺らせて笑う山吹に、私は肩を竦めるだけでした。

  *

 意味深な山吹の言葉は当たっていたと言えるでしょう。
 ええ、大切にしなければならなかったのです。そして大切にしてきたものなのです。
 だんな様、貴方は、本当に……。

 本当に、どうしようもなく『ばか』なのですね。


 幸せでした。

 ただ、ただ幸せでした。

 幸福で幸福で、恐ろしくなるほど幸せでした。

 幸せを甘受することに慣れてしまうほどに幸せでした。

 だから、だから。

 何も怖くはないのです。

 貴方様のために祈れることだけで、幸せなのです。

 どうか、どうか幸せになってくださいな。私の可愛い……。


 私の可愛い“だんな様”。


***
こんばんは。あるいはこんにちは。
「欠けゆく月を想うひと」をお読みくださっていた方はご存知でしょうが、似非擬人化物の短編でございます。side違いで同じ登場人物達の物語。ちなみにこちらの方が「欠けゆく月を想うひと」よりも時間軸が過去になっております。“だんな様”sideのお話である「欠けゆく月を想うひと」は明確に年齢を示しているわけではないのですが、もしそのことに気が付かれた方がいらっしゃったら本当に本当にありがとうございます。。。!!
それでは、長々と失礼いたしました。


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2012.11.30  23:10:50    公開
2012.11.30  23:21:38    修正


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