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この星の中心と一つになりたくて

著編者 : 芹摘セイ

まちばりのワルツ

著 : 芹摘セイ

イラスト : 芹摘セイ

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 まちばりのワルツ(26,900字)   




 ぽきり。
 また折れた。今日で何回目だ。
 デニム生地を裏返し、さっと玉止め。曲がった縫い針の先端が手のひらにちくりと刺さる。ポケモンの出す“ミサイルばり”というワザは、こんなに脆かっただろうか。
「ワルツ、どうしたんだい」
 針穴越しに見た横顔からは何の色も読み取れない。夕食のカリーヴルストをしゃにむにむしゃむしゃ。油を引きすぎたのか、咀嚼するたびにギザギザの口元からどろりとした液体が滴る。首の周りの葉っぱが枯葉色に汚れているのに、そんなことは意にも介さないといったふうに耳の花を閉ざして、壁に掛かったショパンの肖像画を見上げている。マラカッチにしては動きの少ない子だな、といつも感じさせる。
「ワルツ、いいかい」
 よいしょ、と椅子から御輿を上げて屈み込む。マラカッチのワルツは普通の個体よりも小さいから、うんと頭を垂れないと目線が合わない。
「来週の火曜日はね、娘の――アンナの幼稚園でクリスマスパーティがある。みんなで飾り付けをして、美味しいものを食べて、歌を歌ったり、ダンスを踊ったり、プレゼントを交換し合ったり。それで、幼稚園の先生からたくさんの人形を作るよう頼まれているんだ。子どもたちにプレゼントするデリバード人形をね。お前の“ミサイルばり”の針が頼りなんだよ、私は。お前は頭の良い子だ、わかってくれるよね、ワルツ?」
 ちくりとした頭を一撫で。からら、と鳴き声が返ってくる。抱きかかえたとき、耳の花びらがすっかり縮こまっているのに気付いて、ああ、寒かったのだなと合点がいく。首元の葉っぱに食事用のナプキンを――まるで小さな子どもがするように――括り付け、その上から自分のかけていたマフラーを巻いてあげる。暖炉に火をつけたところで、寒さ対策はばっちり。リビングはぽかぽか、デリバード人形たちも後ろのソファーの上でぬくぬくしているようだ。
 人形屋という職業柄、安定した収入が得られるわけではない。ゲッティンゲンには他にもおもちゃ屋がたくさんあるし、人口の大半が大学生とその関係者。景気がよくなるのは、せいぜい春の復活祭か、秋のハロウィンか、冬のクリスマスくらいだろう――それぞれミミロル、バケッチャ、デリバードの人形がよく売れる。娘の養育費やら何やらを針と糸と綿と布切れで賄っていくのは、そう簡単なことではない。
 男手一つの商売、それを支えてくれるのが私のポケモンたちだ。針と糸と綿に関しては、ポケモンの出すワザで自給自足できる。中でもマラカッチのワルツの“ミサイルばり”、“わたほうし”は一級品である。か細く短くも、“ミサイルばり”の滑らかな手触りにはうっとりさせられる。“わたほうし”にしても、針通りがよくて、一度使ってみたら市販のものには乗り換えられないほど扱いやすい。そして、糸はというと――
「みるーっ!」
「ただいまー!」
 玄関から聞こえた2つの元気な声が、びゅおーとした冷たい風を持ち帰ってきた。窓を見る。通りの街灯が眩しい。窓枠の上のポッポ時計の針も縦に伸びきっている。18時か。冬の一日は短い。
「おかえり、アンナ、レオントドン」
 暖炉に薪を放り投げたところで、
「ぐえっ」
 どっしーん。黄色と緑の物体がでこに向かって飛んできた。レオントドン――クルミル――の“こうそくいどう”、そして“たいあたり”。その痛さ、冷たさのあまり尻もちをついた私の前で、あのね、あのね、と娘のアンナは大はしゃぎ。うーむ、幼稚園児に見下された気分。
「アンナね、きょうね、おゆうぎかいのげきのれんしゅうで、せんせいにほめられたの!」
「おー、すごいじゃん。確かアンナは、シンデレラの役だっけ?」
「うん! クリスマスがたのしみー!」
 パパもだよ、とくしゃりと撫でる。金髪のポニーテールからフリージオ型の結晶が零れ落ちていくのを見て、ハッとした。外は雪が降っている。洗濯物を取り込まねば。いや、娘の髪にドライヤーをあてるのが先か。いやいや、それとも。
「みるーっ!」
「からっか! からっか!」
 レオントドンを止めるのが先だろう。小さな口から“いとをはく”。リビングの床のカーペットはおろか、壁や天井まで、家の至る所に真っ白な糸が伸びていく。ああ、額縁の中のショパンが白髪のおじいさんになるよ。レオントドンや、家の中をホワイトクリスマスにするのはやめておくれ。クルミルというポケモンは、どうしてこんなにも糸を吐くのが好きなのか。
 マラカッチのワルツも、水を得たテッポウオのように生き生きと跳ね回っている。耳の花をぱっと開いて、トゲのある両手でレオントドンの前脚を握る。くるくるとダンスを始めて、ときどきぴょーんと大ジャンプ。おかげでレオントドンの吐く糸が余計色々な場所に飛び散っていく。止めるどころか、家の中を汚すのに加担しているじゃないか。
 半ば諦めて、作業机の真下にある延長コードのコンセントにドライヤーのプラグを差す。明日、朝一番で掃除しよう。
「ねーねー、パパー」
 ドライヤーの風を浴びて、アンナが気持ちよさそうに言う。
「レオントドンとワルツちゃんって、なかよしさんなのね!」
「そうだね」
「でも、いなくなっちゃうんでしょ、レオントドン」
 アンナの言葉がちくりと刺さる。不意に発せられたそれが、マックス5連発の“ミサイルばり”となって、私の胸に。いや、私なんかよりも、あの子が――
「しーっ、まだ内緒」
「えーなんでー?」
「明日。明日先生のところに行って、ちゃんと話すから」
 今日はダメ、と念を押して娘を浴室までおぶっていく。ふうと一息、洗面所の鏡で自分の顔を見る。ワルツは目聡い子だ。できる限り平静を保たねば。意味もなく手をすすいで、再びリビングへ。相変わらずレオントドンと手をつないで仲良く踊っているのを見て、さっきの会話はドライヤーの音で聞こえていなかったのだな、と安堵する。
 最近はいつもそう。娘のアンナを連れてクルミルのレオントドンが帰宅すると、ワルツは嬉しそうに回り続ける。やはり幼稚園の送り迎えを彼に任せっぱなしだったからだろうか。レオントドンはああ見えて頼もしい男だ。元々この辺りの野良ポケモンだったこともあって、ゲッティンゲンの地理には詳しいし、バトルの腕もなかなか。家から幼稚園までは徒歩10分、そのくらいの距離だったらボディガードとして心強い。万が一幼い子を攫うスリーパーのような輩が現れても、彼なら撃退してくれるだろう。人形製作に追われて忙しいクリスマス前のこの時期、幼稚園が終わった後に友達の家に集まってクリスマスパーティの出し物の練習をしているらしく、娘の帰りは遅くなりがちだが、迎えに行かなくてもいいのはありがたい。さすがに繁忙期以外は父として送り迎えをしているが。
 アンナとレオントドンが一日の大半を外で過ごしている間、ワルツは家の中でずっと私の手伝い。“ミサイルばり”や“わたほうし”を出したり、店番をしたり。きっと寂しいのだろう。アンナやレオントドンになかなか会えない、そんな毎日の繰り返しに辟易しているのだ。今日みたいに“ミサイルばり”の調子が悪くなって、すぐに折れてしまったのも無理はない。ポケモン同士が遊ぶ時間すらロクに確保できていないのは、2匹の主人である私の責任。申し訳ないと思う。
「ワルツ」
 作業机にランタンを置いて、
「今日も一日お疲れ様。待ち針を出してくれるかい」
 と声をかければ、優しげな光に照らされて、こくりと頷く影が伸びる。頭のトゲの先端から4、5センチほどの“ミサイルばり”が数本落ちてきた。普通のそれとは違って、針の頭に花柄の突起がついているもの。騒ぎ疲れたのか、またじっと動かなくなるワルツ。その頭を片方の手で撫で回し、もう片方は自分の腰へ。トレーナーベルトに空いた2つの穴、そのうちの背中側のものに嵌ったモンスターボールから赤い光が出ると、ワルツは吸い込まれるように消えていった。
「さて」
 作業机の上。無造作に広げられたデニム生地は、赤、白、ときどき黄色。この季節は幾度となく目にする配色。デリバード人形の尻に尻尾を縫い付けねば――ここは細かいから手縫いの方が縫いやすい。プレゼントを配るポケモンをプレゼントするというのは、冷静に考えてみればおかしな話だが、アンナの幼稚園のためだ。注文があった個数にはまだ遠いのだから。
「もうひと頑張りだな。アンナに夕食を食べさせたら、再開しよう」
「みるーっ」
 カーペットの上でごろごろしていたレオントドンが、ひょいと右の肩に乗ってきて、セーターをもしゃもしゃとかじる。おかげで服がすぐにほつれてダメになる。いつものことだ。
「パパー、はやくはやくー。シャワーさめちゃうよー」
 シャワー室の娘に呼ばれるのも、いつもどおり。
「今行くよ」

   



 真っ赤なダッフルコートに真っ赤なニット帽、白のチノパン。赤ずきんちゃんというよりはサンタクロースに近いか。おニューの洋服に包まれた娘は、朝早くからきゃっきゃと嬉しそうだ。
「パパ―、きょうはどこにおでかけするのー?」
「アンナの先生のとこ」
 クローゼットの中のネクタイたちと睨めっこしつつ、
「レオントドンのこと、話しに行くんだよ」
 一匹のクルミルを肩の定位置に乗せる。とりあえず、こんな格好でいいか。
 クローゼットに取り付けられた全身鏡を見る。白いワイシャツ、グレーのベスト、上下真っ黒のタキシード。その上、黒の蝶ネクタイなんかもしちゃって。パーティか何かと勘違いされそうだが、男の服は白黒グレーが無難なのだ。
 レオントドンにも服を着せる。白い水玉模様の入った赤地のもので、我ながら可愛く作れたと自負しているやつ。ボールに入りたがらない、というかゲットしないまま懐いてしまった子だから、防寒グッズは欠かせない。
 肩の上でうつらうつらするレオントドンが頭の葉っぱを首筋に擦り付けてくるのを感じながら、カーペットの上に新聞紙を敷き、その上にバケツを置く。赤と白と黄色のデリバードカラーの絵の具が入ったものをいくつか。バケツの中にレオントドンが昨日吐き出した糸を浸した後、それを取り出し、束ねてベランダの物干し竿に吊るしておく。夜帰って来る頃には、天然の刺繍糸ができあがっているだろう。
 出かける前に、もう一度作業机を確認する。ワルツの待ち針がデニム生地をしっかりつなぎ止めてくれている。硬く、触り心地の良い銀色の針だ。昨日みたいに折れ曲がってしまうことはないな、とほっとする。
「よし」
 トレンチコートを羽織って、
「そろそろ行くよ、アンナ」
 キッチンの冷蔵庫の中に頭を突っ込んでいるアンナに声をかけたとき、
「パパ―、きょうのおゆうしょく、どうするのー?」
「あ」
 しまった、と思った。今日は日曜日。スーパーもデパートも軒並み閉まっている。冷蔵庫の中はせいぜいケチャップとマスタードと雑多な乳製品くらい。ああ、昨日のうちに食材を買い込んでおくべきだった。となると、必然的に選択肢は3つ。近場のガソリンスタンドの売店――24時間年中無休――で安上がりに済ませるか、駅の売店でケバブやらパスタやらを食べるか、フランクフルトの先生の家を訪問した後、適当にぶらぶらして空港でゴージャスな食事をするか。
「アンナはどうしたい?」
「くうこう! くうこうのレストランがいいー!」
 心なしか、肩の上で眠るレオントドンがよだれを垂らしているような。聞くまでもなかったか。まあ、いいだろう。クリスマス効果で財布も温まるし、偶にはぱーっといくのも。それに、アンナとレオントドンと、ボールの中のワルツ。一家みんなで出かけるのは久しぶりな気がする。
「わーい! りょこうだー!」
 我先に店内へと通じる扉を開けたアンナの後ろをついていく。木製のディスプレイラックが所狭しと配置された店の暖房は、レジ付近の小さなペレットストーブだけで、今日は稼働していないから尚更寒く感じる。レジカウンターの上の電卓と帳簿をリュックにしまい、ラックの状態を確認。俯せに倒れた兵隊の人形たちを起こしたら、あとはシャッターを下ろすだけ。“GESCHLOSSEN――CLOSED”の看板を店の中に忘れてきたことに気付いたときには、アンナは石畳の大通りを駆け足で進んでいた。吹っ切るようにブーツのつま先で地面を打ち、幼子を追いかける。
 朝のゲッティンゲンはうっすら雪化粧だ。灰色の空には無数のバニプッチ、バニリッチ、ときどきバイバニラのシルエット。それらがぶるりと震え、口から粉雪を降らしているのがわかる。上空の野生の氷ポケモンたちが“こおりのいぶき”を吹き込む地上は、ヴェーンダー通りと呼ばれる商店街。石造りの教会堂とカスターニエンの木が立ち並んでいるのが特徴的。淡雪の降り注ぐ並木道の下には、厚着した学生のカップルがぽつぽつと。喫茶店のテラス席に座って、ホットコーヒーを飲みながら談笑している。
 少し南に歩けば、マルクト広場。ドードリオに乗った少女の像のある噴水の辺りで、寒くなったのか、肩の上のレオントドンが「みるくしょん!」と、大きなくしゃみをかけてきた。唾液と鼻水と、人々の注目を浴びる。後ろの屋台で不細工なホルード人形と遊んでいたアンナが、「パパのリュックにはいったら?」と冗談めかして言う。けれども、いやだ、と言わんばかりに小さな首を横に振って、鼻水をまき散らすレオントドン。私が両の手のひらに乗せて、アンナが毛糸の手袋の上から撫でであげる。虫や草タイプのポケモンにとっては辛い季節になったな、と感じつつ、アンナの手を取り、人の合間を縫って進んでいく。
 真っ白な石畳を踏み歩き、いくつかの曲がり角を曲がった先は、ゲッティンゲン駅。雪をかぶった観葉植物が鎮座する建物入り口。腕時計を見る。7時57分。ゲッティンゲンからフランクフルトまで、ドイツ鉄道で2時間弱。遅くとも11時には先生宅に到着するだろう。構内の売店でケバブをちらつかせてくるトルコ人たちを華麗にスルーし、ホームへ。格子状のドームの下には、立ったまま、新聞を広げて読んでいる人が疎らに見えるだけ。赤く錆びた線路の上には野生のココドラたちが群がっていて、敷石を貪っている。そんな様子を羨ましそうに見つめているレオントドンのお腹の虫が鳴ったのがわかった。
「ねーねー、パパー」
 鉄道の時刻表を見ようと、アンナが背伸びしているのも。
「フランクフルトって、とおいのかな?」
 アナウンスとともに、ぶうぅんとした脳に響く音が近づいてきて、アンナの声が吸い込まれていく。
「うーん……そうだね。でも」
 線路の上のココドラたちがそそくさ逃げ出すと、
「すぐに会いに行けるよ」
 娘の手を握った。流線型の白い車体に赤いラインの入った列車、そのドア越しに見えた集団の波に揉まれないようにと、強く、幼子の金髪が腕と触れ合わんばかりに。最近はトルコ系の移民を本当によく見かけるもので、車内通路を後ろから前に歩いていると、ヒジャブを着用した女性たちが行列をなしていて、何事かと思う。男性にしろ、座席の横から覗いてみれば、ふさふさの顎髭でムスリムだとすぐにわかる。彼らの話す言葉が耳に届いて、それが脳に理解されないうちにもう一方の耳の穴からすり抜けていくのを感じながら、指定席へ。特に揺れることなくICE(Inter City Express)は発車し、真横に見えていた青い電光掲示板が徐々に遠ざかっていく。
 古びた建物の並ぶ灰色の都市を抜け、時折蒸気機関車とすれ違う険阻な山地を越えると、列車の車窓に映る景色が変わる。地平線の見えるライ麦畑。枯草色の広大な土地のただ中の野生の草ポケモン。プロペラ式の白い風車と、草を食むメェークルやシキジカの群れをいくつも追い越していく。稀に映るオランダ式風車の物珍しさに、デジカメのシャッターを切ってみる。案の定、ぶれている。諦めて仕事を再開することにした。
 座席は快適そのもの。隣の席にはマラカッチのワルツ、テーブルを挟んで向かい側にはクルミルのレオントドン、そしてその隣には、ヌイコグマのぬいぐるみを抱いて眠る娘のアンナ。テーブルの上には赤と白と黄色のデリバードカラーのデニム生地――ではなく、完成形のデリバード人形たちの姿が。ワルツが“わたほうし”で綿を出して、それを私とレオントドンが人形の胴体に詰め込み、尻を縫って仕上げる。使うのはもちろん、ワルツの針とレオントドンの赤い糸。糸がなくなったら、糸を吐いてもらい、それを私が赤絵の具で染め、レオントドンが“エアスラッシュ”を繰り出して風で乾かす。これらを繰り返しているうちに、お世辞にも広いとはいえないテーブルの上に、レオントドンの4分の1くらいの大きさのデリバード人形たちがピラミッド状に積み上げられていたのだ。
 車内は暖かい。隣のワルツも頬を赤らめながら、開いた耳の花から綿を出してくれている。張り切りすぎたのか、時折ふわふわ綿毛が一斉に飛び上がって、通路を挟んで隣の席に座っている老婦人の髪の毛にくっつく。そのたびに重たい頭を下げて、「すみません」と呟く。周りの乗客から冷たい視線を浴びることを除けば、人形製作は順調に進んでいた。火曜のクリスマスパーティの前日、明日には頼まれただけの個数を作り終えるだろう。少々高かったが、いい席を予約しておいてよかった。
「からっか、からっか」
 ワルツがワイシャツの袖を引っ張ってきた。
「どうしたんだい、ワルツ」
「からっか!」
 トゲトゲの右腕を窓に伸ばそうとして、何が言いたいのかわかった。
「……ああ、ライ麦畑か」
 そうだ。
 ワルツと初めて会ったのも、こんな冬の日だった。
「お前が住んでいた土地にそっくりだね」
「からっか! からっか!」
 車窓が映したその横顔は楽しげで。
「大丈夫」
 もっと、ずっと、見ていたいから。
「もう、寒くはないよ」
 席を入れ替えっこした。





「えー? ワルツちゃんとはじめてあったひ?」
 見上げたアンナがタキシードの裾に抱きついてくる。列車から降りてしばらく経つというのに、目覚めがすっきりしないのか、深々とかぶったニット帽から見える瞳はまだ細い。
 なんだ、覚えていないのか。
「ホルシュタイン地方。空気がからっとしていて、野生のミルタンクさんがいっぱいいるところ。1年前、アンナが年少さんのときに乳絞りに行ったじゃないか」
「ぜんぜんわかんないよ」
「まあ、あのときはまだ赤ちゃんみたいなものだったからね、アンナは」
「ち、ちがうもん! あかちゃんじゃないもん!」
 ふくれっ面になって、グーの手でズボンをとんとん、とんとん。私の太ももを叩いたり、揺さぶったり。しまいにはブーツの紐をほどいてくる。幼子の必死の抗議のせいで、地図を読むのにさえ集中できない。
 フランクフルト、マインカイ通り。中央駅から徒歩20分。雪こそ降っていないが、風の強い河沿いの遊歩道。舫杭の立つ整備された河岸では、ドーブルを連れた絵描きたちが向こう岸の高層ビル群を背景にスケッチしている。時たま河風に煽られて、キャンバスに添えられた鉛筆があらぬ方向に線を伸ばしていくのを見て、ああ、大変だなと零す。河岸で看板地図を見つけていなかったら、私だって冬の寒い時期にこんなところに長居するつもりはない。
 地図上の世界と現実の世界をしばし見比べる。遊歩道の周りの芝生の広場には、座ってホタチを磨いているミジュマルの姿が。茶色く濁った河の水面にも、流れに沿って背泳ぎしてきては、停留した大型クルーザーに頭をぶつけていくミジュマルの姿が。ざっと数十匹はいる。どこを見ても野生のミジュマルだらけ。頭がおかしくなりそう。
 この辺りは似たり寄ったりな景色が続いている気がする。先生の家は博物館の近くにあると聞いていたが、いかんせん博物館が多すぎる。同じような名前の、同じような見た目の建物ばかりで、結局わからずじまい。あちこち散策しているうちに、河に臨むこの通りに出てしまったという次第だ。
「みーる!」
 後ろからひと際甲高い声が聞こえてきて、アンナと目を見合わせる。
「どうしたんだい、レオントドン」
「みーる! みるみるみーる!」
 早足で向かうと、ベンチの上に敷かれたひざ掛けをレオントドンが虫食いしているのがわかった。風が強くて冷え込むから、ベンチに寝かせてかぶせていたというのに。
「レオントドン、だいじょうぶ? ぐあいがわるいの?」
 アンナが抱きかかえようとしたところで、子ども用のダッフルコートの小さなフードの中に入って、中をもぞもぞするレオントドン。否定の合図か。やがて顔を半分だけ出して、愛らしいジト目をきょろきょろ、きょろきょろ。私の腰の辺りで視線が定まった。
「もしかして、ワルツと遊びたいのかい?」
「みるーっ!」
 花が咲いたように笑って、私の右肩に飛び乗る。そのままトレンチコートにかぶり付くのはお約束だ。よかった、とアンナの頬も緩んでいく。
 腰のトレーナーベルトに手を伸ばそうとしたとき、まずい、と思った。ワルツはレオントドン以上に寒いのが苦手なのだ。普通の個体より幾分小さいとはいえ、クルミルのレオントドンみたいに両の手のひらに乗るほどというわけにはいかないから、服を作ってあげることもできない。まして私は仕立て屋ではないし。こんな所でボールから出したら、風邪をひいてしまう。だから冬の時期は、できるだけ外では連れ歩かないようにしている。かといって、ワルツをボールから出さなかったら、今度はレオントドンが大変だ。暴れて糸を吐き散らかしたり、私のコートをむしゃむしゃしたりするだけならまだしも、アンナや道行く人の服に飛びついて、手当たり次第にかじってしまうかもしれないし、そうなっては手が付けられない。暴れん坊のこの子ならあり得る話だ。
「パパ」
 ベンチに置いてあった私のリュックを持ち上げようとして、
「なにかきこえてこない?」
 アンナが不思議そうな面持ちで問えば、
「みる」
 と、肩の上のレオントドンが飛び上がり、前方宙返り。これは肯定のサイン。
 耳を澄ます。
 ぽろーん。
 ぽろろーん。
 ぽろろっ、ぽろろっ、ぽろろっ、ぽろ……。
 ぽろろっ。
 ぽろろっ。
 ぽろろ―ぽーろろろ、ぽーろろろ、ぽーろろろ……。
 ピアノの音。ひゅるりとした冷ややかな響きを伴う風が、時折軽快なメロディを口ずさみながら、冬の澄みきった草地の上に諧調を捧げている。陸地のミジュマルたちもペアになって手をつなぎ、嬉々として鳴き始めた。聴いているだけで愉快な気分になる、華やかな曲調。これは――
「ショパンの『華麗なる大円舞曲』だね」
 漏れた自分の白息は興奮の色を湛えていて、
「ワルツちゃんのだいすきなきょくだー!」
 アンナの言葉に頷くように、トレーナーベルトのモンスターボールが、かたり、と静かに揺れ動く。普段は自己主張することのないボールの開閉スイッチが押される。赤い光が弾けて、植物体のシルエットが完全に形作られる頃には、ワルツはレオントドンと手をつないでいた。丸くて豆粒のような前脚に、指の先のトゲをちくりと刺すように。「レオントドンはいたくないのかな?」とアンナが問う。問われたレオントドンが、両の耳元の葉っぱをぶいぶいと横に揺らすと、ワルツのギザギザ口の両端は嬉しそうに吊り上がる。灰色の雲の隙間から顔を出してきた太陽にかざすようにレオントドンの小さな体を持ち上げ、くるりと回る。私たちを取り囲むミジュマルの大群や岸の絵描きたちの注目を浴びながら、柔らかな芝生を踏みしめ、右に行ったり、左に行ったり。寒さの苦手な草ポケモンの女の子が頬を火照らせているのを見て、安堵の溜め息をついた。
「アンナ」
 空いた肩に娘を肩車して、
「私たちもそろそろ行こっか」
 音楽と2匹のダンスに誘われるがままに、
「うん!」
 遊歩道を歩き出した。
 


 
 
 ぐるぐるお目々。顔の上を飛び回るアチャモマーク。緩やかな石畳のスロープを登る観光客たちが、一瞬だけこちらを振り返って見ては、また手元のパンフレットを捲りながら通り過ぎていく。
「レオントドン、こんらんしちゃったね」
 スロープの先にある石のベンチ、そこに腰かけたアンナの影が、酔ったように首を回して寝転がっているレオントドンの顔を暗くする。頭の真上に昇った太陽の光を浴びて、草ポケモンが一番元気になる時間帯なのに、早くもくたくた。そんな彼を、ひょいと立ち上がったワルツが抱きかかえ、おろおろしながら少し歩いた後、再び私の隣に座って植物体の膝の上に乗せた。芝生の広場で回って踊って、踊りながらここにやって来るうちにすっかり温まったようで、ボールから出して心底よかった。私の心配の種はむしろワルツの方だったのだ。レオントドンに関しては、強い男だから、キーの実でも食べさせておけば踊りの後の疲れなど吹き飛んでしまうだろう。
 マインカイ通りから少し北、フランクフルト歴史博物館……の建物横。観光客の憩いの場になっているエリアだ。そこから見えるのが、今日の小旅行の目的地。
「まさか、先生の家から聞こえてきたピアノだったとはね」
 やれやれ、と隣のレオントドンの口にキーの実を運べば、
「せんせい、ピアノをひくのがとってもじょうずなんだ!」
 えっへん、と両手を腰に当てて、アンナはすっかり威張りんぼ。
 人通りの多い広々とした道路を挟んで向かい側、臙脂色の切妻屋根を持つ木組みの家々が連なっているところ。その一角が先生の家だというのは、彼女のパートナーポケモンの姿を見てわかった。家の前の鉢植えの中で蕾をつけたシクラメンに水遣りをするポケモン――「はなぞののもよう」のビビヨン。都会では珍しいし、さっきまであの家からピアノの音が聞こえていたから間違いない。
「シュミットさん」
 我が家のファミリーネームを呼ばれて、振り返る。赤縁眼鏡の女性が立っていた。身を包んだベージュのトレンチコートが優しげな雰囲気を醸し出す、こげ茶の短い髪の女性。
「せんせいだー!」
「みるーっ!」
「アンナちゃん、レオントドン、こんにちは」
 前歯を見せて笑う女性。その肩の上に、ワルツの膝の上で寝ていたレオントドンが勢いよく飛び乗る。そのまま自分の小さな頬をすりすり、すりすり。真っ白な頬に、メイクが崩れてしまうのではないかと思わせるくらい強く擦り付けているのを見て、「よく懐いていますね」と挨拶代わりに言ってみる。「そうでしょうか」と照れくさそうな返事が返ってくる。「レオントドンばっかりずるーい!」と、アンナが垂れ目を作って、すらりとしたシルエットのジーンズに抱きつく。いつだって先生は皆の人気者だ。
「ワルツ」
 この子を除いては――
「アンナたちの先生だよ」
 お前も挨拶しなさい、と目で促せば、
「初めまして、ワルツちゃん」
 カツリ、と石畳を踏むヒールの音に、怯えるように体を震わせる。頭のトゲを引っ込め、景気よく咲かせていた耳の花を閉ざすと、ワルツは私の足の後ろに隠れてしまった。
「すみません。この子、人見知りしてしまうんです」
「いえいえ。初めましての人間は、誰だって怖いものですから」
「レオントドンのこと――」
「まあ、こんな所で立ち話もなんですから、上がってくださいな」
 はい、と低めのトーンで返して、前を行く女性の後をついていく。腕時計を確認する。11時43分。予定より大分遅れた到着だ。
「ふらーい」
 家の軒下からの声にドキリ。見上げた先には、ミニサイズのゼニガメじょうろを持った桃色ビビヨンが、肉眼で視認できるほど大粒の鱗粉を振り撒いていて、
「フレプ」
 女性に名を呼ばれるや否や、後ろから遅れてやって来たワルツに口づけ。そのまま私をスルーし、華麗にムーンサルト。女性の肩に乗っているレオントドンの後ろ脚を蝶の長い脚で掴み、大きな翅で包み込むようにして口と口をくっつける。ちゅー、という何かが吸われているかのような音まで聞こえてくる。おかげでレオントドンの頬は、酔っ払ったオクタンのように真っ赤っか。後ろを振り返ると、ワルツのギザギザ口の口角が片側だけ吊り上がっていて、どこか不機嫌な様子。挨拶代わりに“ドレインキッス”をしてくるとは、相変わらず大胆なビビヨンだな、と感じさせる。
「フレプちゃん、レオントドンのことがすきなのかな?」
 見上げるようにアンナが問えば、
「フレプは男の子なのよ」
 くすり、と女性がいたずらっぽく笑う。「えー!?」と、目を丸くするアンナの視線の先、ワルツが大きく息を吐いて、口元を緩ませたのがわかった。皆より後ろの方でシクラメンの蕾をぼんやりと眺めている彼女の手を取り、いざ中へ。扉を潜り抜けたとき、ビビヨンのニックネームがなぜ「フレプ」なのかがわかった気がした。
 焼き立てのパン。広々とした6人掛けのダイニングテーブルの上には、ハム入りパニーニにバインミー、ソーセージ入りタコスにフランスパン、粉砂糖の化粧をかぶったマフィンやシュトーレンまで。大皿にはサンドイッチ系の調理パン、小皿には菓子パンがすし詰め。世界各国のパンが大集合である。「うちの子はパンを作るのが好きなのですよ」と、厚手のオーブンミトンをした女性がキッチンからオレンジジュースの入ったグラスを運んでくる。その後ろには、わなわなと体を震わせ、“サイコキネシス”でシュトーレン入りの天板を浮かせるビビヨンのフレプの姿が。
 芳ばしい匂いに満ちたリビングの隅には、黒光りのするグランドピアノがある。足の裏のつかない椅子にアンナがよじ登り、レオントドンが黒鍵に寝転がって、ぎこちない『ニャース踏んじゃった』を演奏する。ぽろろん、ぽろろん、という高めのトーンの音楽が眠気を吹き飛ばしてくる中、テーブルの椅子に座ってシックな出窓の向こう側を眺めていると、中庭のただ中に池を見つけた。小さいながらも透き通ったその水面には、ヨワシやドジョッチのシルエットが映っている。彼らもきっと先生のポケモンなのだろう。珍しい客人が来ていて不思議に思ったのか、ひょっこりと頭だけ出して、枯葉色の芝生をきょろきょろ。その視線につられるように私も目を泳がせる。庭の端の石畳の上には、裸婦の像まであることに気付いた。初めて訪れたが、こんな立派な家に一人暮らしとは、さぞかし良家の出身なのだろう。
「さて」
 食事のセッティングを終えた女性が私の真向かいの席に腰を下ろした。それと同時に、ピアノの鍵盤の上にお腹をつけたレオントドンが、ガーンという音を響かせ、彼女の頭の上まで“こうそくいどう”。“サイコキネシス”でシンクの蛇口をひねって手を洗っているフレプは女性の隣に、譜面台に置かれた楽譜を読もうと難しい顔をしているアンナと、隅っこでおろおろしているワルツは私の隣に座り、各々パンを手に取り始めた。
「レオントドンのことなのですが、交換に出すということでよろしいでしょうか?」
 紙ナプキンを持った女性の手が口元に添えられると、
「はい」
 この日の面談のために用意していた言葉が自然と出てくる。
「ハロウィンの仮装大会のときに、先生はうちの子――レオントドンに初めて会いましたよね? 先生や私たち保護者、それにそのポケモンたちが幼稚園に一堂に集まって、子どもたちとハロウィンごっこをしたあの大会。そのときに私、思ったんです。レオントドンは私よりも先生によく懐いているな、と。先生、知っています? クルミルというポケモンは一回進化してクルマユ、もう一回進化してハハコモリという姿になるのですが、ハハコモリになるためには、トレーナーによく懐いていないといけないんです。裁縫が好きな子でして、ハハコモリまで進化して手先がもっと器用になれば、それはこの子にとって喜ばしいことになるでしょう。ところが、この子とはかれこれ学生時代からの長い付き合いになるというのに、貧乏な人形屋の私と暮らしていて、ハハコモリどころかクルマユにすら進化しない。やはり私では、トレーナーとしての技量が足りないということなのでしょう。それよりかは、大好きな先生のそばで暮らして、幼稚園で子どもたちと遊んで色々な体験をし、立派な姿になっていく方が望ましいのです。私としても長年付き合っていたパートーナーとの別れは辛いものですが、先生とポケモン交換をした方がこの子のためになります」
 畳み掛けるような早口で一気呵成に喋っている間も、私は自責の念に駆られずにはいられなかった。アンナはいいのだ。前からこの話をしていたし、レオントドンには幼稚園で毎日会えるから、寂しがることはない。むしろレオントドンが子どもたちの新しい「先生」になって、鼻が高いのではないだろうか。だが、ワルツは違う。彼女には何も打ち明けずに今日を迎えてしまった。ハロウィンのときから先生に交換の話を持ち出していて、当事者の間では概ね交換をするという方向で進んでいたのに、結局何も言えなかったのである。今日の面談は最終確認みたいなもので、1月からレオントドンが私の元を離れて先生のポケモンになることが決まっているのだと言ったら、彼女はどんな顔をするのか。想像しただけで胸が痛む。
 崩れ落ちそうになったパニーニのトマトを舌の上に運びつつ、そろりと隣を窺う。一匹だけ色が抜け落ちたようだった。暖かい部屋なのに耳の花は萎れていて、俯いたまま、自分の身長くらいの長さのフランスパンを両手で抱きかかえている。硬いパンの柔らかい部分を少しだけちぎっては、それを空の皿の上に置き、またパンをちぎるという動作を繰り返しながら。見た感じ、食べ物に手を付けてはいないようだった。
「シュミットさん」
 隣でバインミーのレタスを美味しそうに頬張るレオントドンを見やり、女性が言う。
「確かに、レオントドンが私の手持ちになったら嬉しいですね。アンナちゃんが毎日幼稚園に連れてきて、自由遊びの時間なんかは子どもたちに裁縫を教えてくれるものですから、皆の人気者なのですよ。『おさいほうのせんせいだー!』って、子どもたちは大はしゃぎなんです」
「娘からもよく伺っています」
「でも」
 悲しげにワルツを見る。
「シュミットさんにもちゃんと懐いていると思うのですよね、この子。それに――」
 女性が言いかけたところで、ことり、と何かが倒れる音がした。ワルツがオレンジジュースを零したのだ。テーブルの上でグラスが倒れただけなので、割れることはなかったが、ジュースが胸にかかり、ワルツも彼女が座っている椅子もびしょ濡れだ。
「すみません」
 椅子の背もたれに掛けていたリュックから新品のタオルを取り出し、苦笑していると、
「ねーねー、ワルツちゃん」
 両手で目を覆ってぺこぺこ頭を下げる彼女に、アンナが笑いかけた。
「ようちえんにいけば、レオントドンにはいつでもあえるじゃん。クリスマスがおわってね、パパがいそがしくなくなったらさ、アンナといっしょにようちえんにいこうよ。おともだちもいっぱいいて、とーってもたのしいんだから!」
 熱々のマフィンにふぅふぅして、かじりつく。屈託のない笑顔でそう言ってくれたことが何よりも私の心を軽くしてくれた。アンナに「ありがとう」を言って、ワルツの首周りの葉っぱや椅子の下を拭きとる。片方の手でタオルを持って、もう片方の手でトゲトゲの頭を撫でる。濡れて冷たくなった植物体に触れていると、「ごめんよ」という言葉が口を衝いて出た。
「ワルツはレオントドンと遊ぶのが大好きだもんね。今まで内緒にしてきて、本当に申し訳ないよ。でも、これはレオントドンのためなんだ。わかってくれるかい?」
 しゃがんで目線を合わせてくる私を見て恥ずかしいのか、しょぼんとした目を右へ、左へ。やがて顔を上げ、女性の肩の上でお腹を膨らませているレオントドンにワルツは視線を向けた。
「そういえばさー」
 ぴょんと席を立ち、アンナが女性の近くに行く。
「レオントドンはパパとせんせい、どっちがすきなのー?」
 口の中のタコスの辛さに舌がピリと痛んだ。子どもは大胆なことを聞くものだ。
 私と先生をこもごもに見つめるレオントドン。小さな首をぐるぐる回し、眉間に皺を作って考えた後、食べカスで汚れた頬を先生の頬に擦り付けた。「まあ、レオントドンったら」と女性が口に手を当てて笑う。笑っているだけで、自分の頬がチリソースやらトロトロのチーズやらで汚れていくのに、頑なに拭き取ろうとしない女性。そんな彼女をだらしないと思ったのか、シュトーレンの切れ端を両手で持って平然と食事をしていたビビヨンのフレプの表情が険しくなる。カシュ―ナッツとレーズンが削ぎ落されて穴ぼこだらけの切れ端を置き、ひらりと舞い上がる。長い脚を使って女性の顔の汚れを拭き取り始めた。
「くすぐったいわよ」
 両肩に2匹の虫ポケモンが乗っていて、女性はとても幸せそう。先程はワルツのことを気にかけてくれた素振りを見せたが、本当はレオントドンたちとずっと一緒にいたいのだろう。ポケモンに懐かれる人だな、とつくづく思わされる。
「先生」
 ワルツの体を拭きながら呼んでみる。
「ポケモン用の服って持っていますか?」
「持っていますよ」
「よろしければ、貸していただけませんか? うちのワルツの体に合った、70センチくらいのものを」
「いいですよ。でも、どうして?」
 肩の上のレオントドンも、女性と同じように目をぱちくりさせる。自分を見つめているワルツに気付いたのか、彼女が座っている椅子の下まで“こうそくいどう”でやって来た。
「ワルツはですね」
 トゲトゲの植物体を抱きかかえる。
「寒いのがとても苦手なのですよ。元々北のホルシュタイン地方のライ麦畑で暮らしていたのですが、そこで初めて会ったときも、冬の寒さに耐えられずに大分弱っていましたから。体を温めるナナシの実をレオントドンが見つけてくれたので一命はとりとめましたが、もしそうでなかったらと考えると恐ろしくなります。ですから、濡れたまま冷えて風邪をひいたら大変なのです。この子に合った服を自作できればな、と常々考えてはいるのですが、いかんせん洋裁に関しては素人でして」
「みるーっ!」
 滔々と連ねられた私の言葉を遮ったのはレオントドンだった。澄まし顔で聞いていたワルツの頭の上に乗り、前脚でトゲの先をとんとん、と軽く叩き始める。
「からら……?」
「どうしたんだい、レオントドン」
「みーる! みるみるみーる!」
 たらふく食べて膨れた両の頬をさらに膨らませ、不機嫌そうに目を細める。
 何かを訴えているような。
「レオントドン、お前の服はもう作ってあるだろう」
「みーる!」
 椅子の背もたれに掛けていた私のトレンチコートにしがみつく。口を使ってコートの一番上のボタンを留め、フードの中でじたばたしたかと思うと、今度はすっかり毛先の乱れたファーを噛みちぎる。確かこれは、強い否定のサイン。
「そういうことなら」
 紙ナプキンで頬を拭きながら、女性が微笑む。
「喜んでお貸ししますよ。部屋にいくつかありますから」
 こちらです、と席を立つと同時に、疎らに禿げたフードの中からレオントドンがひょっこり顔を出して、“こうそくいどう”でその肩に飛び乗る。「ありがとうございます」を言い、私の腕の中でワルツも真似して頭を下げ、リビング階段を上がる女性の後ろをついていく。
「よかったね、ワルツ」
 後ろを振り返って見た彼女は、階段を一段一段跳ねて登っているだけで、何の反応も示さない。
「さ、お好きなものを選んでくださいな」
 先頭を行く女性がドアノブを回すと、
「こ、これは……」
 思わず変な声が漏れた。部屋のデスクには、作図用紙と方眼定規とミシン、その上からだらりと伸びきったテープメジャーが。壁面のユニットシェルフには、寒色系の毛糸の洋服が大小様々なものまで収納されていて、青、藍、紫の冷ややかなグラデーションをなしている。そして何と言っても、毛糸玉の多さ。フローリングには色とりどりの毛糸玉が、足の踏み場もないほどたくさん転がっている。女性に招かれたソーイングルームは、毛糸だらけだった。
「みるーっ」
 部屋に入るや否や、レオントドンは床にある赤い毛糸玉に飛びついた。それを抱っこしたまま、フローリングの上をころころ。「ダメだよ。人様のものに勝手に触ったら、迷惑じゃないか」と制しても、まるで聞く耳を持たないといったふうに、玉乗りのように転がっていく。そんなレオントドンと追いかけっこ。窓側のデスクまで行こうとして、足元の毛糸玉に躓いて、どっしーんと間抜けな音を響かせて転ぶ。ああ、迷惑をかけたのは私の方だったな、と反省している間にも、シェルフのそばでは、先生が洋服を床の上に広げて、ワルツがその手触りを確かめている。女性の服選びは長いもので、それを破顔して見守っていられるあたり、先生は流石だなと思う。
「よくご自分で服を作られているのですか?」
 転んだ痛さのあまり、地べたに俯せになったまま尋ねれば、
「ええ」
 ワルツの肩にメジャーを当てながら、女性が答える。
「買うと高いですからね、ポケモンの服って。作ってみると楽しいものですよ。もしかしたら、レオントドンも興味があるのでは?」
「レオントドンが? 洋裁に?」
 まさか、と思って起き上がる。デスクの作図用紙の上には、玉乗りしていた赤い毛糸を脚を使って伸ばしている彼の姿が。そこから真下に落ちてきた毛糸の塊は、開きっぱなしの扉めがけて、ころころ、ころころ。次第に小さくなりながら、廊下の方へと赤い糸の軌跡を描いていく。そうやって伸ばした毛糸の先端を小さな前脚で握って、自分の背丈よりも高いミシンまでよちよち歩き。毛糸を針押さえ部の金具に引っ掛けたり、ギラリと光る針を後ろ脚で触ってみたり。それから自分の着ている赤い服と握っている赤い毛糸を見比べて、ミシンの後ろに隠れる。目元に毛糸を近づけ、顎を盤の上に置いたまま、「コ」の字型ミシンの隙間から真剣な表情でワルツを見つめている様子が可愛らしくて、私の口元は緩んでいった。交換に出す前に、レオントドンにミシンの使い方を教えてあげよう。今まで手縫いしか教えてこなかったのだから。
 レオントドンの視線につられてシェルフのそばの女性陣をぼんやり眺めている間にも、洋服選びは終わったようだ。無地の青、藍、紫のセーターの3種類の中から、ワルツは青色のものを選択したのだとか。「なかなか似合ってるよね」と、バンザイして女性に服を着せられているワルツを見ながら、デスクの上のレオントドンに呟いてみる。お世辞のつもりはなかったのに、同意を求められた彼は作図用紙の上に寝転がって、渋い顔で首を捻ったり、お腹を丸めて自分の服とワルツの服を交互に見たり。品定めでもするかのように小さな顔を上げ下げする。このままでは用紙に皺が寄るのではないか。一人心配していると、階段の方が騒がしくなってきた。
「まてー! ポケモンのタマゴー!」
 毛糸の部屋に入ってきたのは、アンナとビビヨンのフレプと、何か丸いもの。元気に動き回るそれは、ポケモンのタマゴのようだ。床に脚をつけたフレプが大事そうに翅で包み込むのを見て、何のポケモンのタマゴかわかった。
「ワルツ、見てごらん」
 フレプが温めているタマゴをちらと見やり、
「あのタマゴとレオントドンを交換するんだ。元気なコフキムシだぞ、あの子がお前の新しい友達になるんだよ」
 努めて明るい声音で言い聞かせても、耳の花を閉じたまま、ワルツは背を向けて座っていた。着ている青い服が彼女のブルーな気持ちを映し出しているようだった。





 日曜の訪問以来、ワルツの“ミサイルばり”の調子はまた悪くなってしまった。帰りにフランクフルト空港で高価なドイツ料理を食べさせても、洋服店でGUCCIのワンピースを試着させても、耳の花が開くことはなく、縫い針もすぐに折れてしまうという事態に陥った。もしそれを見越して、先生宅を出発する前に先生から縫い針を拝借してこなかったならば、明日――火曜のクリスマスパーティに持っていく分のデリバード人形を作り終えることはできなかっただろう。人形たちが日曜のうちに全て完成したのは、不幸中の幸いといったところか。せっかく先生に服を貸してもらって、ワルツをボールの中から出してフランクフルトの街を歩くことができたのに、当の本人は意気消沈していたからである。それは彼が近くにいなかったことにも起因しているのだが。
「レオントドンってさ、ワルツちゃんのこと、どうおもっているのかな?」
 つないでいたアンナの手の感触がするりと抜けた。淡雪の積もる芝生の道を大股で飛び越え、前に回り込んで私とワルツの顔を覗き込む。唇を強く結び、上目遣いで問うてくるものだから、思わず私たちの足も止まってしまった。
 ゲッティンゲン、ケルテンハムパーク。ヴェーンダー通りの自宅から徒歩10分。アーモンドの木々に囲われた自然豊かな公園で、春には溢れんばかりのタンポポが咲き誇る。都会の中のオアシスのようなこの場所は、アンナが通う幼稚園への近道になっていて、朝は子連れの若い婦人たちで溢れかえる。幼稚園は公園の外れにあって、それとほぼ一体化しているので、公園を散歩しながら登園するのもよし、自家用車や路線バスでもよしとアクセスが良いのだ。それは野生のポケモンたちにとっても同じことで、日替わりで色々なポケモンが公園や幼稚園を訪れる。今日はサボネアの群れが遊びに来ているようだ。ステンレス製の長い滑り台の階段の前に10匹余り集まっていて、一列に並んで順番を守って滑っていくサボネアたち。その様子を遠巻きに眺めていると、進化して悪タイプが追加されるのが信じられなくなる。
 クリスマス前のこの時期は、レオントドンにアンナの送り迎えを任せているから、公園に来ることはめったにない。にもかかわらず私とワルツがここにいるのは、昨日フランクフルトの先生宅を離れる際、レオントドンが私たちと一緒にゲッティンゲンに帰ることを拒んだからである。例の毛糸だらけのソーイングルームから出ようとせず、昨日の午後から登園日の今日に至るまで先生と行動を共にしているのだ。彼は私よりも先生を選んだのだと受け止めているが、それをアンナは快く思っていないらしい。
「ワルツちゃんはさ、すきなんだよね? レオントドンのことが」
 返答に窮した私たちを見兼ねたのか、今度は眉を「ハ」の字にして悲しげに。からら、と私の隣でワルツが鳴き、しゅんとした目を逸らして頷く。その一挙一動のぎこちなさは、真冬の厳しさに打ちひしがれたことを物語ってるかのよう。リュックからひざ掛けを取り出し、ワルツの肩にかぶせてあげる。昨日レオントドンが虫食いして穴を空けた箇所をまじまじと見た後、アンナはしゃがんでトゲトゲの手を取った。
「レオントドン、もっとそばにいてくれればいいのにね」
 幼子の口からほろりと出た言葉。それに対してワルツは、先程よりも大きく首を縦に振る。頬を朱に染め、握られた両手の先端にあるトゲとトゲをくっつけたり、離したりともじもじして。雪でぐちゃぐちゃになった芝生に据えられていた視線が上がって、アンナと目が合うと、ワルツの顔もぐちゃぐちゃに歪んでいく。咄嗟に黄色い瞳が潤む。幼子の首に抱きついたとき、アンナは笑っていた。青く澄んだ瞳から雫が流れ落ちたまま、「いたいよ」と。アンナの方がワルツよりも少しだけ背が高くて、さながら姉妹のようだった。
「アンナはいいお姉さんだね」
 ダッフルコートのフードについた粉雪を払い落とすように撫でると、
「だって、アンナね、ワルツちゃんのことがだーいすきだもん!」
 えへへ、とはにかんで、雪道を駆け出した。まだ誰も踏みしめていない新雪の道に元気な足跡を残していくのを見届け、ワルツもそれを辿るように、一歩一歩跳ねていく。そんな様子を横で見守っていると、堅く閉ざされていた口から二度目の「ごめんよ」が零れた。
「何もしてあげられなくて。レオントドンとはタマゴグループが違うからって、ワルツの気持ちをわかってやれなくて。針穴に通っていた糸を断ち切る糸切ばさみのような存在だね、私は」
 そっと手を伸ばす。からら、と小首を傾げたワルツの手がニットの手袋の上に乗せられて、
「ねえ、ワルツ」
 踵を返す。
「お前も先生の元で暮らす、っていうのはどうだ?」
 レオントドンと一緒に、と口走ったところで気付いた。
 何を言っているのだろう。
「からっか! からっか!」
 手の中のトゲが立てられる。ほつれたニットを貫通して、あかぎれた指の先に、乾いた手のひらの中心に、ぐさりとしたものが食い込んでくる。痛い。動けなかった。けれども、肩の上のひざ掛けが落ちてしまうほど強くワルツがかぶりを振ったのが、つないだ手の振動を通じて伝わってきた。
「私やアンナと一緒にいてくれるのかい……?」
 痛さのあまり熱くなった目元を空いている方の手で拭ったとき、
「からっか!」
 ふわりとしたものに包まれた。思わず横を見る。揺れた視界の端で木々が凍えたように身を震わせる中、ワルツは温かそうだった。快活に笑う黄色い瞳も、うんと力を込めて握ってくれたトゲトゲの手も、私の肩の上に掛けてくれた雪まみれのひざ掛けも、何もかもが。
「温かいよ」
 お互いの温もりが消えゆくのが怖かった。このままずっと、ずっと手をつないでいたかった。だから私たちは、しばらく公園を散歩することにした。なだらかな雪の原っぱをあちこち見て回っていると、結構色々な発見があるものだ。子どもの頃はとても手が届かなかった雲梯や鉄棒が小さく感じるし、ジャングルジムだって、あっという間に登れてしまう。公園全体を見渡せるほど高くはないが、サボネアの群れが少し遠くの砂場に移動していて、体を砂に埋めることで半身浴をしているのが見える。大の大人がポケモンを連れてジムの頂上で仁王立ちしているのを不審に思ったのか、下を通り過ぎる婦人たちから冷ややかな視線を浴びる。けれども、寒さでワルツの体が縮こまってしまうことはなかった。

 ワルツが縫い針だとしたら、レオントドンは刺繍糸。
 ふと、灰色の空を見上げながら考えた。
 針は一途で、糸は気まぐれ。針はずっと人間の手元にあるけれど、糸はそうはいかない。いつかは糸切ばさみによって切られないといけないし、一旦そうなると、針穴をすり抜けていく。驚くほど、あっさりと。そうやって新しい主人と針穴を求めに行ってしまう。そんな存在――いや、そんな運命だ。レオントドンが先生を選んだことに理由なんてないのかもしれない。

 朝の登園ラッシュの時間が過ぎ去って人影が疎らになった頃、公園の隅っこにシーソーを見つけた。板の下に古タイヤが埋設されているごく普通のもので、学生時代、恋人とのデートの行き先が決まらずにぶらりと立ち寄ったとき、2人で漕いでいたのを思い出した。季節は春だったか。恋愛というものはしばしばシーソーゲームに例えられるから、自分と彼女が乗って釣り合いが取れるのか確かめたくなったのだ。板の上の雪を軽く払い落としてみる。塗装の色が変わっていることに気付いた。当時のシーソーの板は、道端に咲いていたタンポポと同じ黄色だったが、今は赤色。そういえば、レオントドンもあのときに――
「おいで」
 古タイヤをつんつん触っているワルツを、シーソーの支点部の辺りへと手招く。そこへ彼女が跳ねてやって来たのを確認すると、地面を覆う雪をしゃがんだまま掻き分ける。手袋に土がこびり付いてくる頃には、ギザギザの根生葉を持つ植物が顔を出していた。
「タンポポだよ。レオントドンはタンポポが好きなんだ。今は咲いていないけど、私が初めて会ったときも、この辺りのタンポポの花の上で寝ていたくらいだからね」
 両手を口に当てて黄色い瞳を大きく見開いているワルツに、もう何年も前の話だけどね、と言い添える。
「ねえワルツ、私にいい考えがあるんだ」
 からら、と疑問の色を含ませた鳴き声が返ってくる。
「明日はアンナの幼稚園でクリスマスパーティがある。レオントドンも、私と行くかはわからないけど、先生と一緒にやって来る。お遊戯会が終わったら、皆でプレゼント交換をするんだけど、そのときにね、レオントドンにタンポポの葉っぱをプレゼントするっていうのはどうかな」
 本当は花をプレゼントできればいいんだけどね、と苦笑い。そんな私をじっと見つめた後、何か閃いたように片手を挙げ、ワルツはぴょいと低く跳んだ。そのまま雪の上にお腹をつけて寝転がり、指先のトゲを使って一株のタンポポの葉の付け根を軽く引っ掻く。10枚ほどあった葉をバラバラに切り離すと、一枚の葉の葉先を別の葉のそれに結び付ける。ワルツの“くさむすび”だ。
「上手じゃないか」
 ワルツのお腹の下にひざ掛けを敷く。
「お前の出す可愛らしい待ち針を通せば、葉っぱのリボンができあがるね。レオントドンもきっと大喜びだ」
 ギザギザの根生葉をつなぎ合わせている彼女の横顔を覗き込むと、
「からっか!」
 ギザギザ口がにっこりマークを形作った。
 昼が近づいてきて、暖かくなり始めた公園を見回す。今日は月曜だから、店を閉めるわけにはいかない。タンポポの葉っぱを必要な分だけ摘んで持ち帰って、暖かい店の中で仕事をしながら、傍らでワルツのプレゼント作りを見守ることにするか。昼の自由遊びの時間になれば、園児たちも公園に遊びに来るから、遊具の近くにずっといては邪魔になるだろうし。作業に集中しているワルツに声を掛けようとしたとき、
「みるーっ!」
 聞き慣れた元気な声に、私の提案は遮られてしまった。地べたに寝転がっていたワルツがさっと起き上がり、背伸びして私のリュックのファスナーを開く。すかすかの空間にタンポポの葉っぱの束が放り込まれると、幼稚園のある方から“こうそくいどう”で走ってくる物体の存在に気付いた。それは色を識別できるくらい近くまで来ていて、黄色と緑。身の危険を察知してでこを手で覆ったときにはすでに遅く、鍛冶屋のハンマーで頭を叩かれたような激痛が走った。
「レオントドン」
 尻もちをついて、雪の上に打った尻を摩って温めながら、
「お前もワルツと遊びたくなったのかい?」
 突拍子もないことを尋ねた。先生の家から幼稚園に通っていたはずの彼が、なぜ私たちの所にやって来たのかという疑問よりも勝っていたのだろう。
 みる、と平坦な鳴き声が返ってくる。そのまま私の右肩に乗って、白い息を吐きながら前方宙返り。これは肯定のサイン。
「よーし、それじゃあ、3人で鬼ごっこをしよう」
 着ている青いセーターの裾を伸ばして、恥ずかしそうに俯いていたワルツが見上げる。
「体も温まるし、楽しいよ。ルールは簡単。私とワルツが鬼役で、レオントドンが逃げる役。場所はこの公園内。ポケモンのワザは、相手を傷つけない範囲なら使ってもOK。時間内に逃げ切ればレオントドンの勝ちで」
 肩の上でトレンチコートに噛み付く彼を横目で見る。
「私がレオントドンをボールで捕まえれば、私たちの勝ちだ」
 先生とポケモンを交換するためには、ボールに入れておかないといけないからね、と付け加える。くりくりした目を一層大きくしているレオントドンが、トレーナーベルトの腹側に空いた、ボールの嵌っていない穴を覗き込むように首を曲げる。フン、と彼が得意げに鼻を鳴らして、右肩が軽くなったのを感じると、私とワルツも指折りで10秒数え始めた。
 レオントドンは“こうそくいどう”が使える。滑り台やジャングルジムで挟み撃ちしようとしても、ワルツの“わたほうし”で足止めしようとしても、大ジャンプして逃げられてしまう。足の遅い私たちががむしゃらに追いかけたところで、絶対に捕まえられないのだ。大分走り回ってワルツの耳の花が開きかけた頃、砂場の近くで彼女に声をかけた。
「リュックの中に、レオントドンが吐いた赤い糸が入っているんだ。それをお前の“ミサイルばり”に通して、針ごと投げつける。レオントドンの着ている服に針が引っかかれば、きっと捕まえられるよ」
 こくりと頷くワルツ。その頭のトゲから針穴つきの“ミサイルばり”が2、3本落ちてきた。ところが、それをつまんで持ち上げようとしても、腐った木の枝のようにすぐに折れてしまうのだ。体も温まって昨日のショックからある程度は立ち直ったとはいえ、完全にワザが使えるくらいに調子が良くなったわけではないのだろう。私もワルツもがっかりして、砂場の縁石に体育座り。
「さあぁぁぁぼねーあっ!」
 そんな中、後ろから妙に威勢のいい声が聞こえた。振り返る。細雪の積もった砂風呂に目元まで浸かり、極楽顔のサボネアたち。そのうちの一匹が砂から体を出して、縁石の下から私たちを見上げている。
「からら?」
 困り顔で見下ろしたワルツに、
「さぼさぼ、さぼねー!」
 一層鋭く鳴き、サボネアはマラカッチのワルツよりもトゲだらけの腕をぐるぐる回し始めた。すると、回した方の腕から“ミサイルばり”が次々と落ちてくる。ワルツの出すものよりも太く、手に取ってみると鉄のように硬い。やがてワルツの隣に座り、より近くで披露してみせる。ワルツも真似して、サボネアよりも一回り大きい腕を回す。幾許かぎこちなさを感じさせるが、ゆっくりと大振りに。今まで頭からしか出せなかった針が、手の先のトゲからも落ちてきた。まるで“ミサイルばり”の出し方を教わっているような。
 ワルツの出した“ミサイルばり”は、相変わらず細くて短い。けれども、触っても折れないくらいの強度はある。針穴に長い長い赤い糸を通し、玉結び。サボネアにお礼を言う。いい汗かいたワルツも、回した方の手でサボネアと握手する。サボネアからうっすらと笑みがこぼれると、鬼ごっこを再開するべく私たちは砂場を後にした。
 レオントドンは例の公園外れのシーソーの上で寝ていた。アーモンド林を木から木へと飛び移って逃走していったものだから、追いかけてかたや疲労困憊、かたや余裕綽々といったところか。体の軽いポケモンで、シーソーが殆ど傾いていなかったので、そこに乗っているとは思いもしなかった。レオントドンは寝起きの悪い男だ。いつものように豆粒のような脚を目一杯広げて仰向けになっているかと思いきや、今日は鼻ちょうちんまで作っている。これでは、私たちの勝ちが確定したようなものだろう。
「からっか、からっか」
 赤い糸の通った針を持つワルツが、反対側のシーソーの板の上に立つ。ぎぃ、と彼女の乗った方の板が大きく下に傾く。
 釣り合わない。クルミルのレオントドンよりもマラカッチのワルツの方が体重が大きいからか。はたまた、2匹の思いが食い違っているとでもいうのか。彼女の思いの方が重いから? 
「ワルツ」
 彼女の名を呼んだとき、私の尻はレオントドンが寝転がっている方の板の先端に置かれていた。レオントドンや反対側のワルツに背を向け、空気椅子のような姿勢で膝を曲げる。徐々に体重をかけていった。

 気まぐれな糸に理由なんてない。
 そんなことはわかっている。
 だから、せめて。無理やりだとしても。
 針穴をすり抜けようとしていた糸を再び通してあげる、糸通しの役目を果たせれば、それでいいじゃないか。

 捻るように首だけ横に回し、後ろの状態を確認する。視界の端にワルツの耳の花が映った。開いているのか、閉じているのかはわからない。けれども、ワルツの手を離れた針がレオントドンの着ている赤い服に刺さったのがわかった。針穴に通された赤い糸が、平衡を保つシーソーの上で水平に伸びていることも。そして、糸の結び目をワルツがしっかりと握っていることも。
「からっか!」
 2匹が赤い糸でつながって、
「私たちの思いは、いつも一緒だよ」
 シーソーが釣り合って、手の中のモンスターボールが、どっと笑ったように大口を開いた。
「レオントドン、ゲットだぜ……なんちゃって」





「おじょうさま、わたしといっしょにおどっていただけますか?」
「はい、よろこんで」
 スポットライトで照らされたステージ上で、白いタキシード姿の男の子が、ピンクのドレスでおめかししたアンナに手を差し伸べる。レッドカーペットと貴族たちのハリボテを背景に、2人は手をつないで踊り始める。「あの男の子とアンナちゃん、いい感じよねえ」という近くの婦人たちのひそひそ話に鼻を高くしている間にも、物語は進行していく。意地悪なお姉さんが金の靴を履こうとする場面、それから王子様との結婚式の場面。先生のナレーションとともに暗転し、幕が下りる。会場内は喝采の渦に。
 お遊戯会の『シンデレラ』の発表が終わると、保護者一同は園児たちが普段使っている教室に招かれた。ふかふかの絨毯と、中央にある小さな電子ピアノ以外は綺麗さっぱり片付けられている殺風景な部屋。クリスマスツリーすらまだない。それなのに狭く感じるのは、今日が24日だからにほかならない。どこもかしこも休みだ。両親でパーティに来ている家族が多いのなんの。着替えを終えた園児たちと先生が戻って来るとなると、一層ぎゅうぎゅう詰めになってしまうだろう。狭い部屋でのプレゼント交換が終わって、やっとのこと園児たちにデリバード人形を配るときがやって来る。教室後ろのロッカーの中には大きく膨らんだ私のリュックしかなく、そこからデリバード人形の長い眉毛がはみ出ているものだから、早くも保護者たちの注目の的になっているようだ。私がロッカーに一番近い所にいるせいか、大人たちがこちらに視線を投げかけてくる。それで色々な人と目が合ってしまい、視線のやり場に困る。かといって、窓の外にしんしんと降り積もる雪を見ていると寒くなってきそうだから、景色を楽しむ気にもなれない。
 壁に掲示されたストローオーナメントやメブキジカの似顔絵をぼんやりと眺めて、娘の作品を探していると、トレーナーベルトの背中側のモンスターボールが揺れた。ワルツが自己主張するということは、レオントドンが近くにいるということなのだろう。教室の後ろの引き戸を見る。小さな隙間から、タンポポのように黄色い顔がこちらを覗いている。レオントドンがよちよち歩きで近づいてくる頃には、ワルツは独りでにボールの中から出ていた。今日は服を着せてはいなかったが、暖かい部屋なので問題あるまい。
「からっか!」
 耳の花を満開に咲かせて、
「みーる?」
 レオントドンの前脚にトゲトゲの手を伸ばす。ワルツの手のひらには、小さな緑色のリボンがあった。タンポポの葉を何枚も結い付けて束ね、それを私の指輪に通してリボン型にしたもの。裏には、花柄の突起のあるワルツの待ち針が固定されていて、洋服につけることができる。昨日ボールに入れられた後も、レオントドンは先生の家に帰ったから、2人で時間をかけてプレゼントを作ることができたのだ。
 首を捻って唸り、微笑んで見守る保護者たちの方を振り向いた後、レオントドンは入って来た引き戸の隙間まで戻った。皆の視線が廊下の方に向けられる。今度は赤くて大きめの何かが教室に入ってきた。床の上を這うように動くそれは、所々に白い水玉模様の入った毛糸のセーターのようだ。ワルツの目の前までやって来ると、畳まれた赤セーターの下から葉っぱが顔を出す。黄色い物体が見えてきたところで、下にいたポケモンがはねのけるように起き上がる。そこで初めて、セーターの柄と色合いがレオントドンの着ている服と同じだということに気付く。自分の体よりも大きいセーターを頭の後ろに載せて運んできて、肩で息をするレオントドンを、ワルツは両手を当てることで隠せないくらい口を大きく開けて見つめている。
「それをワルツにくれるのかい?」
 つられるように口をあんぐりさせると、
「レオントドンが一生懸命作ったんですよ」
 引き戸が完全に開かれた。憚ることなく教室に入ってきた赤縁眼鏡の女性を不審に思ったのか、父親たちが「誰?」とぶっきらぼうに問う。普段から面識のある母親たちが「幼稚園の先生だよ」と答える。私たちと対面すると、先生は姿勢よく正座して、エプロンの上にレオントドンを乗せた。
「レオントドンが私の家に残ったのは、お別れする前に、ワルツちゃんにプレゼントを作るためだったんですよ。元々クルミルというポケモンは、自分で服を作るのが好きですから。ね、レオントドン」
「みる!」
 元気に鳴いて、先生の肩に飛び乗る。そのまま、エプロンをかじることなく頬をすりすり。私に対しては決してすることのない仕草を見せたかと思うと、今度はワルツの腕の中に飛んでくる。それをワルツがナイスキャッチ。トゲの指と丸い前脚が重なったときには、植物体の顔は床の上のセーターのように赤くなっていた。「レオントドンには敵いませんよ」と苦笑して、セーターをワルツの頭からかぶせようとする。棒のように立っていた彼女は、耳の花をゆさゆさ揺らし、私の手を払いのけて自分で服を着る。先生もレオントドンを抱いて、胸に葉っぱのリボンをつけてあげる。リボンの裏側からはピンク色の待ち針の突起が見えていて、まるでワルツの耳の花のよう。
 お揃いの服を身につけた2匹。お互いにじっと目を合わせ、一瞬だけ離れた指と脚を再びくっつける。くるりと回ると、ぴょーんと大ジャンプ。保護者たちに囲まれて教室の中央に躍り出た。
「ダンスにはピアノの伴奏が必要ですね」
 意気揚々と立ち上がる先生に、地べたに座っていた大人たちが道を譲るように身を引く。人々の視線はすっかり教室の中央へ。母親たちは頬を緩めて囁き合い、父親たちは首に掛けていたデジカメの電源に手を伸ばし始める。電子ピアノの椅子に先生が腰かけると、ぴろろん、という音色が教室内に反響する。フランクフルトの河沿いの遊歩道で聴いたものよりも可愛らしい響きをもっていて、それを聴きつけた園児たちが、教室の引き戸の上にある透明なガラス窓から覗いているのがわかる。キラキラした目の子どもが一人映り込んでは、また別の子どもがひょっこり顔を出す。廊下で一人ずつ順番にジャンプして、中を覗き見することにしているのだろう。やがてアンナの番が回ってきたようで、後ろの引き戸のガラス越しに目が合った。笑っていた。黄色の園帽子をかぶったいつもの姿がやはり一番可愛らしくて、私も顔を綻ばせた。
 それにしても、ワルツは幸せそうに踊っている。軽やかなピアノの曲に合わせて、絨毯の上をすいすいと。輪になった観衆に華麗なる円舞を披露する。相方をリードしようといつもよりもゆっくりめに回るものだから、レオントドンの胸元のリボンから待ち針が伸びているのだって後ろからでもよくわかる。ときどき見せてくれる横顔は晴れ晴れとしていて、窓の外のホワイトクリスマスの憂鬱を吹き飛ばしてしまいそう。あたたかい春が来て、タンポポに花が咲いて、レオントドンとまた遊べる日が来るのを待っている顔だな、と心密かに思った。

まちばりのワルツ

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2021.9.20  13:28:08    公開


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