
月蝕
15−6
著 : 北埜すいむ
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――大丈夫大丈夫、ボケてるんだとさ。
――ボケてるって? まだそんな歳じゃないだろ。
訊いたが、話に覚えがあることに気づく。同じ噂を、トウヤも市街で耳にしていた。
ヨシオは意地の悪い笑みを浮かべつつ、頭をトントンと指差して言う。
――どうやら弄りすぎちまったらしい。
「おかえりなさい、ルディ。忘れ物をしましたか?」
固まっているミソラへ顔を寄せ、オリベは言った。
「ミヅキちゃんと出かけたばかりではありませんか」
ミソラを庇わなければならない。咄嗟に動いていた。惚けた顔で突っ立って老爺を見上げているミソラの前に、腕を差し出し、一歩退かせる。
予想だにしない出来事に息を詰めたまま、トウヤは次の動きに構えた。様々な想定が、瞬時に脳裏を駆け抜ける。リューエルのお尋ね者と知っての撹乱。耄碌老人の妄言。――記憶を失う前のミソラの知り合い。おかえりなさいと言った。ミソラが帰る場所。ミソラのいるべき場所。そこに迎えにきていたミヅキ……。
けれど――引っかかる。彼に見えているのは、「長い金髪に色白碧眼の異邦人」ではなく、「黒い短髪の少年」ではないのか。
オリベの次の動きは、こうだった。
背を向けた。そして、戸を開け、玄関へ入った。
「寒かったでしょう。さ、上がってください」
廃墟に片足を突っ込んでいる外観とは異なり、室内は綺麗なものだった。
絵画の飾られた玄関。ダークブラウンで統一された品の良い家具が並ぶ。レース編みのテーブルクロスには染みひとつない。ただ――編み目に、埃が詰まっている。硝子戸は水拭きの跡が汚らしい。時計の針は夜明け前を指して止まっている。
生活するための道具は一通り揃っているが、生活をしていた痕跡が希薄だ。読みかけの本もない、飲みかけのグラスもない。水差しに差された白い花だけが、やたらと生々しく艶めいている。今時期、あんな綺麗な花は、花屋で買わなきゃ手に入らない。花を買うだけの余裕があるなら時計を修理した方がいい。
自身の足で労せず歩けるにも関わらず、日当たりのよさそうな窓辺の一等地に、車椅子が置いてある。同居人がいるとは聞いていないが……。
「ルディと出会ったのは、北方の異国でのことでした」
ローテーブルを挟んで向かいあうオリベが、懐かしそうに目を細める。耄碌していると思ったのは最初だけで、発言の様子も内容も、十二分に冴えていた。
「あるポケモンの捜索のために、奥地の雪原を調査していましてね。ひどい吹雪でした。テントを張れる状況でもなく、拠点に戻ろうとしていたとき、行き倒れたバックパッカーを見つけたのです」
雪に半ば埋もれていた彼らを、自身も遭難しかけていたにも関わらず、オリベは親切にも掘り起こした。
「若いカップルでした。可哀想に、二人とも既に息絶えていましたが、女性が抱いている赤子だけは、まだ仄かにあたたかかった」
『Rudolf Schaefer』。遺品から探り出した赤ん坊の名前。産毛のような金髪がまだ生え揃わぬうちだったが、人見知りもせずよく笑い、オリベの指を小さな手で握りしめた。生きようという信念が、小さな体に満ちていた。
同行者はいない。異国語も喋れず、攫ったと思われても仕方のない状況だ。他に手段もあったろうに、焦りのあまり盲目になっていた。調査の終了とともに船に乗せ、連れて帰ってきてしまった。
雨垂れが浸みていくような男の語り口を、トウヤはなるべく注意深く聞き取ろうと試みた。口調には『ルディ』への深い慈しみが感じられる。その優しさは、親から子へ、あるいは祖父から孫へ向けられるのに、あまりによく似た色味をしている。
その優しい顔を、トウヤへも、彼は惜しげもなく向けようとしていた。
……顔に刻まれた皺は、六十過ぎという年齢にしてはいささか深すぎる。そのせいだろうか。対面しているのはあくまで好意のはずなのに、嫌な緊張が引いていかない。手のひらに滲む汗を、トウヤは腿で拭う。
「何せ、独り身なものですから。赤ん坊を育てるというのは、想像していたより遥かに大変でね。ほら、アサギ。ミヅキちゃんのバクフーン。子育ての経験があるでしょう。役に立つからと彼女が連れてきてくれて、よく世話を焼いてくれました」
玄関入ってすぐの居間のほかに、もう一室部屋があり、そこは『ルディ』が子供部屋として利用していた――今も、している――らしい。ミソラはそこへ『忘れ物』を探しに入っている。トウヤはミソラを、『ミヅキとの外出のさなかに忘れ物を思い出したルディ』を、この家へ送り届けにきた『ミヅキの知り合い』だった。
「賢い子ですよ。読み書きは私が教えてやりました。私はもう引退した爺ですが、あの子には、教えてやりたいことがたくさんある。これからも、あの子が望む限り、学ばせてやるつもりです」
「……つまり、あの子は赤ん坊の頃から、ずっとあなたと一緒に?」
「ええ」
手元に落としていた視線が、ゆっくりとこちらへ向く。
薄ら闇に、朧に霞む表情。
「二人でずっと、この家に。あの子は自由でした。のびのびと、良い子に育ってくれました」
無知な子供相手に、子供だましを聞かせるような、年長者の怠惰が、垣間見えた。
臆することはない。トウヤは自身を律しようとした。相手はポケモンを連れていないし、外部と連絡を取れる通信機器も見当たらない。何か起これば、こちらには有能な手持ちたちがいる。
老いて白濁のある瞳は、見えない世界に向けられているように思えた。偏狭なトウヤの視野では捉えられない世界を見ていた。そこに何があるのか、あることすら、トウヤには知れない。けれどこっちだって、与えられるものを呑み込むばかりの雛ではない。考えることができる。直接見えなくとも、迎え撃つことはできる。
「どうして嘘を吐くんです」
正面切って問うても、オリベは微笑みを崩さなかった。
「この街で、この家で不自由なく暮らしていたなら、あの子は雨も雪もよく知っていたはずだ」
――ミソラは降りしきる雨の中で、柄にもなく大はしゃぎした。傘の差し方すら知らなかった。雪が積もっているのを見たときは、目をきらめかせて「お伽話のようだ」と言った。
オリベが微笑するさまは、まるで一枚の絵画のようだ。呼吸をしているのも疑わしいほど微動だにしないものに、じっ、と対面していると、逆に追い詰められている気がしてくる。青い静寂。ちりちりと時が過ぎる。
目を逸らしたい、逃げ出したい獣の心を、トウヤは抑え込んでいられた。別室のミソラを思う気持ちが、彼が『ルディ』を思う気持ちに遜色ない、引けを取らないと信じていた。それを証明せねばならないと思うからこそ、トウヤは目を逸らさずにいられた。
「君は、ワカミヤくんのご子息ですね」
ほとんど顔色を変えずに、オリベは口を開いた。
名乗るまでもなく、突然現れた若者の正体に、老人はとうに気付いていた。
「私は学校の先生です。ホウガの研究所が解散になるまで、あの工場町の小さな初等課学校で、携帯獣学を教えていました。君のお姉さんは、よく懐いてくれましてね。放課後もたびたび遊びに来ていました。オリベ先生、オリベ先生、と言って」
オリベ先生――敬称を末尾に伴うと、その名がようやく記憶のふちに引っかかった。
「……姉から話を伺っていたかもしれません。でも、あなたが教壇に立たれているのを、見た記憶はありませんが」
「携帯獣学は五年生以降の単位です。君は初等課程の途中でホウガを離れたでしょう。君が私のことを覚えていなくとも、無理はありませんよ」
けれど、と、彼は目を細める。
「私は覚えていますよ。ワカミヤトウヤくん。君のことは、よく覚えています」
その目が、つい、と、僅か横へふれる。
双眸から、左頬の痣へと、ほんの一瞬、焦点を移した。
「……あの事件のことは、到底忘れ得ませんから」
そう――正しい大人というのは、こうだ。表面の奥にある怒りや悲しみ、憎しみを、器用に隠して対話できる。根底からわきあがる嫌悪感を、決して相手に悟らせない。
目蓋で感情を覆い隠し、トウヤは小さく頭を下げた。
ヒビ郊外で相対したとき、ミヅキはトウヤの大切な人たちを、人質の頭を数えるように並べ立てた。ミソラのことはなんと語ったか。
『可愛がっている弟子がいるらしいじゃん』。それだけだ。他の人質と同じ軽さだ。トウヤの弟子が自分の関係者だと分かっていれば、もっと言えば、刺客を送り込んだつもりだったならば、そこに触れないのは不自然だった。
アズサの名前や年齢、彼女が逃走を手伝ったこと、カナミの腹に子供がいることまで、ミヅキは把握していた。トウヤの連れている弟子が金髪碧眼の異邦人だと、知らないわけがない。その異邦人が、仲良しの子供と同一人物だと、気付かなかったということは、つまり。
ミソラがその子供であるはずがない――
トウヤと一緒にいるはずがない――
子供は、いなくなっていない――
今も、彼女のそばにいる、
という順に、考えてしまえば、さあ、どうだ。
この物語の中に、金髪の子供は、二人いる。
「なわけないです。ミヅキちゃんが可愛がってたのは、私ひとりだけですよ」
部屋中の引き出しという引き出しを開け放ち、本棚を物色していたミソラは、不機嫌を隠そうともしなかった。
「それに私、この部屋、知らないですし」こちらの顔を見ようとしない。トウヤの推理に随分とご立腹のようだ。「全然びびっと来ませんもん。前は『バクフーン』って言葉聞いただけでも聞き覚えあるなって思いましたし、ミヅキちゃんの顔写真見たらぶわって一気に思い出したんですよ? 住んでた部屋なんか、思い出さないわけないですよ。ましてや親の顔なんて、絶対分かるじゃないですか」
奥の部屋は、まさに子供部屋然とした子供部屋だった。桃色と白の縞模様の壁紙に沿って、パステルカラーの机や棚が並んでいる。ベッドはひとつきりだった。青空と雲の描かれた掛布団と、お揃いの枕も、ひとつきり。
「失礼な話ですよ、私の顔を見て他の人の名前を呼ぶなんて。そう思いません? 一瞬ドキッとしたの返して欲しいです」
プリプリと怒りながらも、本を一冊ずつ引き出しては、表紙を確認し、捲っている。ページの狭間から記憶の欠片を探し当てようとするかのように。
「分かるのは、私じゃない誰かが今朝までここにいて、ミヅキちゃんはその子を連れて出ていった、ってことだけですよ」
――そう、それは、ミヅキを思って突っ走ってきたミソラには、到底看過できない事実だ。
ミソラの横に立ち、トウヤも本棚へ目をやった。知っている題名が多い。ほとんどが子供向けの童話だった、初等課程の低学年の教科書に記載されているか、または幼子に読み聞かせるのにお誂え向きの物語。……だが、ラインナップに偏りがある。トウヤは眉を寄せた。魔物、魔法使い、湖の妖精、まじない師……
携帯獣学の先生が選ぶだろうか。架空の世界の話ばかりで、ポケモンが登場する本がひとつもない。
「……お前、最初、ポケモンのことを『魔物』だと言ったよな」
「よく覚えてますね」
不貞腐れた声。ミソラにも勘付くところはあるようだった。
雨も、雪も、触れたことがないだけで、存在は知っていた。例えば砂漠の真ん中か、あるいは日の当たらない地下室で、年頃の男の子は髪を切るものだとすら知らず。限定的な情報だけ与えられながら無垢に仕立て上げられた、美しい子供――トウヤの描いていたイメージからすれば、この子供部屋は窓が大きすぎるし、庭へ出る戸口もついている。けれど――
「あの人がミソラの関係者なのは、それらしい気もする」
「どうしてそう思うんです?」
「喋り方が似てるんだ。出会った頃のお前の、無理に背伸びしたような喋り方と、よく似ている」
ミソラは一瞬押し黙り、そして、嫌々絞り出すように打ち明けた。
「地下道を歩いてるとき、ミヅキちゃんに変身したメグミが、私のこと『ルディ』って呼びました。……多分、私忘れてるけど、そう呼ばれてたんでしょうね」
そうよ、とだけ、メグミが返した。
夜闇が迫っていた。みるみるうちに室内も暗くなり、文字の判別が難しくなり、部屋の電球は切れていた。居間に戻ると、オリベは安楽椅子に深く掛け、穏やかに目を閉じていた。
家を後にした。外からあらためて見るオリベの家は、宵闇の中でいっそう廃墟のようで、そこに住む人の生活を想像しがたい趣がある。
「私、あの人のこと、嫌いじゃなかったと思います」
並んで帰路を歩く。日が沈むと海風は肌寒く、透明なメグミが寄り添ってくる左側だけ、場違いな温かみを帯びている。
例えばハシリイで、外国人たちに腕を引かれてミソラが攫われかけたことがある。ミソラはぽろぽろと泣いていた。あのときのような動揺は、今日のミソラは決して見せなかった。唇をへの字にして前を向き、早足に帰り道を進み続けた。けれどそれは、慣れてしまっただけの、強い感情を麻痺させただけの、悲しい老成の面持ちだった。
「でも、なんでだか分からないんです。あの人と一緒に暮らしていたんだとしたら、僕、どうしてあの人のもとを、出ていったりしたんでしょうか」
霊が横を通り過ぎても、声をあげるどころか、少年はもう目線すらやらない。
「どうしてあの人を置いてきぼりにできたんでしょうか。育ての親のあの人より、ミヅキちゃんのほうが大切だったのは、どうしてなんでしょうか。ミヅキちゃんはどうして、僕じゃない人を連れて出ていったりしたんでしょうか」
返事の代わりに、背中に手を当てさすってやる。けれど右隣を歩くミソラに右手は思うほど力を掛けられず、庇護できると思っていた自分の、無力さを、トウヤは思い知る。
「ミヅキちゃんが連れていった『僕』って、一体、誰なんでしょうか」
2021.2.14 20:52:11 公開
■ コメント (2)
※ 色の付いたコメントは、作者自身によるものです。
21.3.6 23:43 - 北埜すいむ (kitano) |
ミソラが帰るべき場所にあたる彼女の家に帰っては、老爺のオリベと過去の話をあれこれ語るミソラやトウヤにとって、この事にとても懐かしく思ったかもしれませんね…… 次回も楽しみにしています! 21.2.14 21:51 - LOVE★FAIRY (FAIRY) |
帰ってきました!でも帰ってきたと言えるのかどうか……ミソラは本当にこの家に住んでいたのか……ごちゃごちゃこんがらがった内容ですが次話でちょっと見えてくる!?といいな!?と思います!!