月蝕
10−7
著 : 北埜すいむ
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その暮れ、砂漠の町に、雪が舞い降りてきた。
*
喘ぎながら走り続けた。
日が暮れるほどに、夜が迫るほどに、冬は胸の中にまで押し寄せてきた。指先は痛々しく赤らんでいる。足は感覚のない棒だ。それでもとにかく走り続けた。どこに向かうのかなんて知らない。ただただ逃げるしかなかった。北風は重かった。ずっと向かい風だった。風自身が意志を持って、そうしているんじゃないだろうか。そんな錯覚さえ起こる。押しのけ、かきわけて前に進んでいくたび、耳元で鳴る風切り音は、口々に自分を責め立ててきた。
お前の居場所などない。お前に居場所などない、と。
涙なんか出ないのに、鼻水ばかり出て、喉の奥はつんと冷たい。
夕方の淡い昏迷の中、大通り、閑散とした農村部もひたすらに走り抜ける。どれも同じだった。塗り潰したような景色だった。目だけがくっきりと浮かび上がり、氷の棘になって、次々体を突き刺した。声のない視線に否定され続けて穴だらけになって、逃げ惑っていると、いつの間に町の外へ出ていた。視界いっぱいに広がる、灰色の空。枯色の草原。もう誰もいない。うんと高い位置で、白い穂が狂ったように揺れている。怖かった。どこにも帰れない場所へ誘われていくのだと思った。それでも、走って逃げていくしかなかった。両側から倒れ込んで圧迫するような枯れ穂の間、車輪が踏み折った道の上を、一心不乱にひた走る。一度も振り向かなかったが、走っても走っても、土色の町の亡霊が、いつまでも遠ざかってくれなかった。
――逃げられない。
行く手を、雪がちらつきはじめる。
初めて触れるはずの雪。けれど初めて雨に触れたときのような感動はなかった。恐怖、焦燥、ただそれだけだった。みるみるうちに世界が暗くなり、斜めに降り注ぐ雪が目の前を霞ませ、行く道を覆い始める。埋め尽くしていく。
――逃げられないのだ。
それでも、それでも、ミソラは走っていった。
金髪が背中で滅茶苦茶に暴れる。寝巻の薄着で、白い肌はどこを取っても真っ赤になって、飾り羽の欠けたアチャモドールだけ、胸にひしと抱きしめて。見開いた瞳は、他にどこにもない蒼穹で、前を見ているが、その実は、何も捉えていなかった。
雪が降ればいいのにと、ずっと思っていた。
雪が降って、どんどん降って、うず高く積もって、ココウのまわりを覆ってしまえば。あの人は、外に出られないから。勝手にいなくなってしまうことはないから、ミソラを置いて消えることはないから。だから雪が降って、あの人を閉じ込めてくれればいいと、ずっと、そう思っていたのに。
雪が、積もれば。たくさん積もれば。
僕は、本当に、閉じ込められる。逃げられない。
もうどこにも、逃げ場はないのだ。
途中背後から聞こえ始めた声を、ずっと無視していた。声は何度もミソラを呼んだ。赤子が母親を求めるような、壮絶な、命を振り絞るような声。聞こえないふりをするごとに、ぐちゃぐちゃに引き千切られていった。けれど立ち止まれば、振り向いてしまえば、もう本当に逃げられなくなることも、分かりきっていることだった。
感覚がなかった右足に、激痛が走り、引き戻される。
声をあげて、ミソラは崩れ落ちた。
ずさりと腕をつき擦り剥いた、その一瞬の熱の後は、地面でさえも、冷たかった。地面の上にいることまで否定された気さえした。ぽんぽんと転がったアチャモドールが泥と枯草の切れ端にまみれて、その橙色の上に、灰色の雪が、幾度となく落ちては溶ける。赤らみ切れて血の滲んだ真っ白な手が、這いすがるようにドールに伸びた。その行く手を遮って、小さな影が、目の前に走り込んできた。
ミソラの、たった一匹の手持ちの、片耳しかない小兎は、今にも泣き出しそうな顔で、主人のことを見つめている。
目を逸らした。右足を庇った。食いつかれたふくらはぎから、焼けつくような痛みが広がる。じんわりと赤い血が沁み出していく。その色を見て、何も受け入れられなくなった心を、また突然、獰猛な恐怖がつんざいた。
生温かい血の感触。
鼻の奥に残る鉄の匂い。
刺したのだ。鈍く光るナイフで。僕は、あの人を――!
リナが何度も鳴き声をあげる。聞きたくもなかった。責めているのか。リナまで僕を責めるのか。逃げようとする自分を。それとも、恩人を殺そうとした自分を――訳も分からぬ叫び声を上げ、耳を塞いだ。
閉ざされた、暗闇の世界に、蘇る。
ココウに来て一番最初の頃。トウヤとグレンの試合を観戦したことがあった。試合に挑む前、トウヤが背を向けながら言ったことを、未だにはっきり覚えている。「下手すれば死ぬかもしれない」。そんなことを言われたから、あの日、ミソラは、気が気でなくて、
――お師匠様が死んでしまったらどうしよう、と。
祈るような思いで、フィールドの彼を見つめていたのだ。
一体どちらが正しいのだろうか。死んでほしくないと思っていた自分と、殺さなければいけないと思っている自分と、――死んでほしくないと思っていたトウヤと、殺さなければいけないと思っているトウヤと、果たして、どっちが本当なのか。
僕が殺そうとしてることに、あの人はもう気付いている。自分を殺そうとしている相手を、なぜ殺さなかったのだろう。両親を殺した残忍な殺戮者の癖に、なぜ僕を、生かして、朝を迎えて、また夜まで迎えようとしているのだろう。なぜ僕はまだ生きているのだろう。殺そうと思えば、すぐにでも殺せるはずなのに。あなたは強いのに。殺せるだけの力があるのに。こんな非力な子供など。
ぐるぐると頭を過ぎる。砂漠の真ん中で目を醒ましたとき、転がっていた焼け焦げた死体。その横で平然と包帯を結んでいた男。ミソラを置いていこうとした。でも、色んなところに連れていってくれた。不甲斐ない試合をしたハヤテにあんなにきつくあたっていた。でも、体調を崩したヴェルに、あんなに心を寄せていた。気が弱くて、おばさんにもグレンさんにもアズサさんにも、事あるごとにいいようにやられて。はあちゃんの小さなてのひらを、おっかなびっくり、握ろうとしていた。写真の中で、両親の手を取る自分と見合って、ミソラにさも楽しげに、実家の話を聞かせていた。
こんな、――不安げに覗き込むリナの、向こうに転がるアチャモドール――、こんなぬいぐるみのひとつでさえ、
『モモちゃん、どこにやったんですか』
『アチャモドールですよ。燃やしてなんかないんでしょ?』
――心無く燃やせるような人じゃないと、本当は、ミソラは分かっている。
分かっているんだ。
「なんで黙ってるの」
リナがひどく震えた。風に掠れるくらいか細い声で鳴いてみせた。けれどミソラが問いかけたのはリナではない。彼女の後ろで、冷たくなっていくアチャモドールには、うっすら雪が積もろうとしていた。寒々しい虚空を無感動に見上げるばかりで、モモは、問いかけに応えない。殺さなければいけなかったことをミソラが思い出してから、ずっと。
ミソラの声を、モモは無視するようになったのだ。思い出したミソラのことを。
――僕が、悪いの?
――だから、僕を、無視するの?
『酒場の化け物』。そうタケヒロに呼ばれる、人でない色をした、あの腕が。
僕を生かした。育ててくれた。
けれど、今、全部なかったことにして、あの人を殺したいと思っている。
ああ、そうか。僕がおかしいのか。僕が、悪いのか。
――『化け物』は、
――本当の『化け物』は、僕の方だ。
蹲る。モモちゃん。教えてよ。僕はどうしたらいい。涙は出なかった。嗚咽も漏れなかった。悲しいのか苦しいのか辛いのか寂しいのか死にたいのかなんなのか、この身を巡る膨大な感情がなんなのか、自分がこれからどうしたいのか、ちっとも分からない。消えてしまいたい。冷たい地に擦り付ける額から、何もかも、全部流れ出していけばいいと思った。
どうしたい、って? 馬鹿じゃないの。
行く場所なんかない。逃げる場所なんかない。これからも、この町で、僕は生きていくしかないんだ。
ああ、どうしたら。どうしたらいいのだろう。どうしたら今まで通りに生きていける。後悔しているんだ。思い出さなければよかった。知らないままでいればよかった。そうすればずっと、色んなものを、大好きなままでいられたのに。
謝れば、いいんだろうか。土下座して謝れば、みんな許してくれるか。元の生活に戻れるのだろうか。
きつく瞑った瞼の裏に、あの顔が浮かんだ。
トウヤは。
……トウヤは、
きっと……、許してくれる。
その光景を想像すると、身体から、すうっと、力が抜けていった。
許して、くれるだろう。だってあの人は、甘いから。
全部、なかったことにしてくださいと、泣いて、謝れば、きっと、許してくれるはずだ。
そのとき、ふと、光明が差した。
(……そうだ)
光明が差した――ように、感じただけかもしれない。実際にはミソラの頭は、臨界点を超えて、その先の境地に行き着いていた。真っ暗闇のトンネルを、抜け出した訳ではなかった。疲れ果てて走るのをやめて、しゃがみこんだその場所で、目を閉じた、頭の中、逃げ込んだ誰もいない世界で、輝かしい光を見ていた。光の幻想の薄膜に、包み込まれた、だけだったのだ。
目を開ける。
顔をあげた。闇に沈もうとする視界の中で、リナはまだ、主人を覗き込んでいた。片方しかない耳は縮こまって垂れ、今にも零れ落ちそうに揺らめいている赤い瞳が、
――きょとんとした、まるで年甲斐の子供みたいなミソラの顔を、はっきりと写し込んでいた。
『忘れてしまえばいい』。
もう一度、全部、忘れてしまえばいいんだ。
*
試合後、ココウスタジアムの玄関口で、タケヒロとアズサと鉢合わせた。
スタンドから試合を見ていたミソラがいなくなったことを二人に伝えられ、トウヤはグレンが町を出ていくことを二人に伝えた。彼の正体と、多分もうココウには戻らないことと。タケヒロ、お前は世話になったんだから、挨拶するんだったら早めに行っておきなさい、とトウヤが告げると、タケヒロは唇を噛みしめて、それでもミソラを探すと言った。
ミソラ捜索を申し出たが、お前が出てくるとややこしくなるから任せて家に戻っとけ、と突っぱねられた。ミソラが行きそうな場所の情報を共有して、三人はその場で解散した。
とはいえ真っ直ぐ帰る気にもならず、トウヤもミソラが行きそうな場所をひととおり巡った。もしミソラを見つけたらどうやって連れ戻すつもりなのか、何か考えていた訳ではない。悪目立ちする金髪を本当に探そうとしていたのかも、正直釈然としない。ハリはボールに戻りたがらず、黙って後ろをついてきていた。ぶらぶらと心当たりを回り終えて、ハギ家の前を通って、自室の明かりがついていないことを確認した。素通りして、夕暮れの人混みの中央通りを、ハリを引きつれて歩き続けた。
じきに、雪が降り始めた。
マフラーに顎を埋める。寒さが苦手なはずのハリに、ボールに戻るかと問うたら、またやんわりと拒否された。
目的もなくぶらついていると、懐かしい油の匂いがした。馴染みの惣菜屋で、コロッケを一つ買う。歩きながら少しずつ齧る。長いこと味わった。一口食ったらハリに食わせようと思っていたが、不思議とその時だけは、体も食い物を受け付けてくれた。
何があったのかもう覚えていないのだが、子供の頃、酷く拗ねていたことがあった。グレンに何かされたのだったと思う。グレンはどうにかしてトウヤの機嫌を取ろうとしてきた。そのうちトウヤもむくれるのに飽きて、適当に仲直りしようと考えて、目についたコロッケを買わせたのだった。別に好きでもなんでもないのに、ここのコロッケが好きなんだと言った。だからこれで許してやる、と。
あれから、グレンはことあるごとに、トウヤにコロッケを食わせようとした。
脂っこくて、特に歳をとってからは少し苦手に感じていたくらいだ。けれどコロッケひとつで機嫌を取れると思っているグレンが滑稽で、上手く騙しているという優越感もあり、好きなフリをして黙っていた。あいつはまだ、『トウヤは大通り沿いの総菜屋のコロッケが好きだから』と思い込んでいることだろう。小さな嘘なら、自分の方が、たくさんついてきたに違いない。
先程貰った煙草を取り出す。取っておこうと思っていたが、やっぱり燃やしてしまうことにした。火を点けて、肺いっぱいに深く吸い込んで、吐き出す。不味いとも旨いとも思わないが、格好だけは、多少は様になりはじめたろうか。鼻に染みついた匂いの中には、父親の顔とグレンの顔と、両方の思い出が紛れていた。
さっさと揉み消した感傷を、コロッケの袋とライターと一緒に、屑入れに放り込む。と、うっかり機嫌を直している自分の存在に、はたとトウヤは気付いた。いつの間に、嘘は本当になっていたのか。
隣で寒そうに半目を下していたハリが、ボロボロになった被り傘の下から、黙って見上げてくる。その月色を見た途端、胸にほっと火が灯るような気がして、トウヤは小さく笑んで返した。――あのことを聞いたら、ハリはどうするだろう。黙っておこうと思っていたが、黙って伝わることばかりじゃない。きちんと話していれば得られたこと、すれ違わずに済んだことも、きっとあったに違いないのだ。
少し勇気が要ったが、グレンに問うた時に比べれば、容易いものだった。なるべく軽い口調を心がけて、トウヤはハリに尋ねた。
「お前、グレンがリューエルの団員だって、ずっと前から気付いてたろ」
見上げる月色の目が、ふと大きくなる。
ハリがグレンを苦手にしていること自体は、トウヤも随分昔から気付いていた。グレンの吸う煙草の匂いを嫌っていたように見えていたから、もしかしたら父親と同じ匂いで気付いていたのかもしれない。それともヘルガー達に聞いたのか、そうでないのか。
確証はなく、鎌をかけただけだったのだが、しばらく固まったあと、ハリは素直に頷いてくれた。
苦笑いして、視線を外す。黙ってるのも辛かっただろうな、と呟くと、眼下の端の方で、被り傘が小さく横にふれるのが見えた。
悪意を以て隠していたはずがない。知らないままの方がいいと、グレンだけでなく、ハリも思っていたのだろう。
そろそろ帰ろうか、とその場を離れる。歩きながら空を見上げる。雪は、建物の間をひらひらと流れ落ちて、冷え切った頬へ触れては消える。次第に量も増しつつあった。道行く人々は憂鬱そうに肩をすぼめ、白い息を吐いている。長い冬に突入したのだという実感が、今更になって、じわじわと胸にこみあげていた。
かじかんだ手を何もないポケットに突っ込みつつ、北から南へ、大通りを歩いている時だった。
『トウヤ』
ボールの中から、メグミがテレパシーで伝えてくる。誰にも聞こえない音量で、トウヤは声で返した。
「気にするなよ、グレンの言ったこと。お前が僕らと一緒にいたいと思うなら、そうすればいいんだから」
『うん。ありがとう、トウヤ。……あのね、めぐみじゃないの。ハリが、お話があるって』
そっと袖の隙間から、北風が吹き込んで、内側を撫でる。
トウヤは黙って振り向いた。当たり前にそこにいる、褪せた枯れ草色の従者が、少し離れた場所で立ち止まった。いつ見たって変わらない、笑った形の顔のまま。
「……何だ?」
トウヤはハリに向かって言った。ハリはじっとトウヤを見つめて、動かなかった。
普段よりやや控えめな様子で、言いづらそうに、メグミが代わりに伝えてくる。
『ハリが、従者をやめたいって。だから、ボールから逃がしてくれって』
2017.11.1 21:13:57 公開
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