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アクロアイトの鳥籠

著編者 : 森羅

7‐1.ななしのひつじ

著 : 森羅

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sideエルグ

 それは瞬き一つにも足りないほどの時間。
 ぐしゃりと世界が捩れて腹のあたりがぞわりとする。エルグとってもはや慣れきってしまったその感覚は、しかし少女にとってはなかなか気持ち悪いものだったに違いない。右手を掴むその幼い手に力が入り、ぎゅっと目が閉じられていた。その姿は確かに年齢相応の子供らしくエルグは失笑を漏らす。さて、と。すんと樹木の臭いが鼻を突く。目的地まで一足飛びを果たした彼は確かに自分達が目的地に到着したことを確認してから彼女へと声を投げた。

「ルノアちゃん。もう目ぇ開けても大丈夫やで。……気分悪ない? 大丈夫?」

 エルグの声にゆっくりとヘーゼルブラウンの目が開かれる。にこりと笑いかけるエルグに――反射的だろう――微笑が返され、しかし歩き出そうとした途端、平衡感覚を失った彼女の身体は前のめりによろける。

「ぉおう?」

 え? という小さな悲鳴が届くか届かないか。エルグは繋いだままの手に力を籠め、そのままその小柄な体躯を元の位置に押し戻す。……自分も慣れない頃はよくこれに酔った。予想がつけば対処は楽なものだ。

「大丈夫? お嬢様」
「……え、ええ、ありがとう」

 少し驚いたような様子の彼女にどういたしまして、と笑う。しばらくすると足の感覚が戻ったのか、彼女は彼の手を離し、辺りを見回し始めた。
 王都の路地裏とは一変、今彼らが居るのは木造の広い部屋。家具類はほとんどなく、部屋全体がどうにも殺風景で物寂しい。エルグたちがいるところの向かいに扉があり、それでここが部屋の奥側であることがわかる。窓と呼ぶのもおこがましいような、壁にいくつか開けられた四角い穴から見えるものは木々のみで、周りに家もない。窓外の光景から推察できる時刻は夕暮れ時。不思議そうな顔でゆっくりと視線を回す少女にエルグは苦笑した。

「ここは、王都から半日、いや一日くらいかな。そんくらい西に歩いた小さな集落の外れや。君らが目指し……て……」

 ルノアの疑問に答えかけた口は、遠くから聞こえる足音に中断せざるを得なかった。固まるエルグにどうかしたのと首を傾げる少女は、すぐにその理由を与えられる。ダダダダダダという足音が響き、正面にある扉が勢いよく開け放たれた。唐茶色の尾が、宙を泳ぐ。扉の向こうではやはり草木が視界を埋めていた。

「エルグ! てめえ、帰って来るときは連絡しろって何度言えば理解しやがる!?」
「やー、『エルグ』。ただいまーおかえりー。それから扉壊れるから開けるときは丁寧に頼むわぁ」

 目を丸くするルノアを横目に、自分そっくりの姿が怒り狂っているのをエルグはのほほんと聞き流す。その様子に『エルグ』は半秒ほど固まったのちわなわなと体を震わせた。それは今にも地団駄を踏まんばかりの姿。自分が怒り狂ってもこうはならないだろうが、自分そっくりの姿の生き物がそんな様子をしているのを見るのは面白いと言えば面白い。
 だがそろそろ黙って貰わないと話が一向に進まない。

「ちっ。大体ダウが外に出てるからいいものをてめえ、…………は?」

 エルグがそう思っていると、『エルグ』は都合よく彼の隣に居る人間を見付けて黙った。コーラルの髪を揺らし、夕日に染められた瞳を細めて笑みの形を作る、年端もいかない女の子。ぽかん、と。半開きのまま片割れの口が固まった。アンバーの瞳を収縮させ、茫然自失宜しく動かなくなる。

「あ。ダウ外に出てるんやな。なら良かった。……うん、『エルグ』、まあつまりそう言うわけやからとりあえず戻れ」
「……エルグ! てめえ!! いい加減に……!」
「時間がない。戻れ」

 低く命じると、『エルグ』はぐっと押し黙り苦々しげに顔を背けてその姿を溶かした。グレイにも思える黒の体毛と赤い鬣。犬や狐を思わせる顔の造形は鼻に皺を寄せていた。反抗的なその青い目は、そのままルノアとエルグを一睨みして、どずどすと彼らに近寄り傍に座り込む。説明しろとのことだろう。戸惑った様子をわずかに覗かせる彼女に彼は苦い笑いを噛み砕いた。

「うーん、まあ……まずはルノアちゃんも座って。敷物もなくて悪いけど。茶でも入れるわ。『エルグ』、説明するからちょい待って」
「エルグ、ラウは」

 その場を離れかけた彼の背中に幼い声が突き刺さる。くるり、彼は振り返り自分を見上げるヘーゼルの瞳にできうる限り安心させるように笑って見せる。一纏めにされた唐茶色の髪が、半円を描いた。

「『エルグ』、王都に出てった奴ら、まだ帰ってきてないやろ?」
《ん? ああ》

 気だるげな『エルグ』の答えに『先回り』ができていることを確信する。ぎしり、と板の間が軋んだ。

「ルノアちゃん、さっきも言いかけたけどここは王都から一日くらい歩く。まだラウファらはここまで戻ってきてない。だからまあ、とりあえずは落ち着いて欲しい。俺も結構焦ってるけど、焦っても良いことないし、状況は好転せんし。君にとってはわけわからんままって感じやろうけど、そのあたりも含めて説明するから……ああ、そうや」

 その時点でエルグはここがどこか、の説明が途中で止まっていたことに気づく。ここは確かに部屋だが、正確には家だ。木造の平屋。貧しい農民の家よりはましだが、ここもなかなかのあばら家である。だが、ここは彼の、いや“彼らの”砦だった。

「よーこそようこそ、俺らの家に」

 エルグはにっと歯を見せ、大仰に手を広げた。

sideルノア

 何かを考えたわけではなく。
 何かを確信できたわけでもなく。

 ただ、エルグの発した言葉が痛烈に響いて。気が付くと彼の手を握っていた。その行動理由を熟考する暇もないままに世界の色彩が潰れたトマトのように混ざって、気づけばもうここに居た。
 わたしがどうしたいのか、何をしたかったのかそれさえもわからないまま。

「ほい、どうぞ。粗茶やけど」
「ありがとう」

 差し出されたカップを受け取り、礼を言う。良く冷えた茶色の液体は紅茶ではなく、何か別の飲み物らしかった。一体何かしらと眺めていると、エルグは何も変なもんは入ってないよと呆れたように言い、わたしとゾロアークの間を陣取って胡坐を組む。ゾロアークはすでに飲み始めていて喉が鳴る音が耳に届いた。……ええそうね。もう危害を加えるつもりがあるなら手を出しているはずでしょうし。肩の力を少し抜いて、その液体を口に含む。苦みは薄く、甘みは強く。舌に慣れない味はけれど不快ではない。むしろとても美味しい。ただ、その甘みも苦みもどこか遠い。
 ずっと。ずっとずっと視界はふらふら揺れていて、頭がぐらぐらと痛んでいて。そのたびに何度も何度も心の中で首を振り、笑みを作る。それでも倦怠感は収まらず、このまま眠ってしまいたいほど身体が重い。ラウを引き取りたいと言ったご夫婦のいる村、まるであの村までの道を永遠と歩き続けているよう。わたし、上手く笑えているかしら。綺麗に、笑えているかしら。
 わたしが飲み進めたのを確認してか、エルグはようやく話を切り出す。

「うん、まあ。うーんどこから話せばいいのかわからんけど。まあ、ちょっと面倒やからまずコイツな。『エルグ』やと名前ややこしいやろ。俺が一応本物のエルグと言うか見本と言うかやから、俺をエルグ、こっちのゾロアークをロアちゃんって呼んだって」

 自分とゾロアークをそれぞれ指差し、区別をつけるエルグ。ぼうっとし始めた頭を引き戻し、エルグの言葉に小さく微笑む。これまでのエルグの話を信じるならば、わたしが最初に露店の客引きから助けたのと先程まで王都で話をしていたのがエルグで、ラウを昏倒させて忠告を残したのが『ロアちゃん』。アシェルがエルグに対して獣の臭いがしないと言っていたから彼は人間なんでしょう。頷くわたしにぴくんと耳を揺らすのはゾロアーク。右頬を引き攣らせてエルグを睨み、猛烈に抗議する。

《エルグ! そ、れ、は、やめろっつっただろうが!》
「却下。なんで? 昔は呼んでたやん、可愛いやん。ゾロアのロアちゃん。いつの間にかゾロアークに(ばかでかく)なってもたけど」
《ああそうだよな! てめえはクロバットに『クロ』って名前付けるほどのセンスをお持ちだからなぁっ!? ゾロアークに『ロア』って付けるよなあ!?》
「こんなふうに嫌がってるけど、基本通じるから。諸事情あって俺はこいつに『エルグ』をさせてた」
《無視かよ!》

 うがーっと吼えるロアに、エルグは煩いなあと一蹴してその頭を叩(はた)く。そして一変。すっと目が細くなり、エルグの声の温度が変わる。

「ロアちゃん、面倒やから一言で説明済ますけど」
《あん?》
「“ラウファが帰って来る”。……微妙に遅かったらしくてな、行き違いになってもた。ルノアちゃんを連れてきたのはそのせい。地下開けるから」

 ガタン、と。エルグの言葉にゾロアークは慄くように片膝を上げ、その手を床に付いた。しんと静かになった空間にその音が大きく響く。その余波で床に置かれたカップが揺れて琥珀色の液体が零れるけれど、黒狐は気にも留めない。空色の目がどこか怯えたように、縋るように、エルグを凝視する。そして次の瞬間にはその怯えは怒りに近い感情に変わった。牙が覗く口を開き、何かを発しようとして――――黙った。

《…………ああ。ああ、そうかよ。経緯だけ説明しろ、俺には何でこのお嬢様がいるのかもわからねえ》
「……ごめんな」

 たった一言、絞り出すようにそう言い捨て彼は再度カップの中身を口の中に流し込み始める。彼が飲み込んだ感情を、けれどわたしは無視する。今重要なのは、それではなかったから。ロアが黙ったのを確認してエルグは視線をこちらに寄越した。

「ルノアちゃんとロアちゃんの知ってること知らないことはまあ後々すり合わせていくとして。そやなあ、どこから説明したらええかな。子爵様とはまたちょっと説明の仕方が変わって来るし……。うーん、俺説明下手なんよな」

 うんうんと腕を組み悩み始めたエルグにわたしは尋ねた。エルグとラウの関係よりも、エルグが何を思ってロアを差し向けたのかも、わたしがどうしてどうやってここに連れてこられたのかも、そんなことよりも他よりも何よりもずっとずっと重要なことを。“そんなことよりも”何よりも大切なことを。

「どうしてラウが、不幸になるの? あの方たちはラウを知っている方じゃないの?」

 だって、彼らはラウを知っていると言ったでしょう?
 だって、エルグはラウを知っているのでしょう?
 だって、だから。ここは、きっと。ラウの故郷なのでしょう?
 なのに、どうして。

「あー……うーん、知ってると言えば確かに知ってるんやろうけど……。ううん、ややこしいな。でもまあそうやね、ここは『ラウファ』の故郷やし、ルノアちゃんの会った人らは『ラウファ』のこと知ってる。俺も勿論『ラウファ』を知ってる」
「なら」
「でもそれは……ああもうそうか、結論からのが早いか。ええっと、ニュアンスをこっちの言葉にするのが難しいな。『生贄』、『化物』、『怪物』……ちょっと違うか。……『望まれないもの』……『羊』。うーん、……ああ。これがしっくりくるかな。あんな、ルノアちゃん、ラウファが『何』かって話やけど」

 寂しそうに顔を歪めて。わたしに向けてエルグは笑った。
 未だ無様に“わたしの選択は正しかった”と言ってほしいわたしに向けて、彼は笑った。

「ラウファは『魔女』や」
「……………………『魔女』?」

 場違いにも思える単語につい聞き返す。少し声が上ずったかもしれないけれど、そのくらいわたしはその単語の意味を掴み損ねていた。ラウが、魔女?

「実は女って意味やないよ」

 わたしが繰り返した言葉にエルグは茶化すようにそう言って笑う。けれどそれに続いて笑う者はおらず、エルグもまた肩を竦ませてからカップに口を付けた。夏で陽が長いといっても、太陽はすでに随分西に傾いてしまったようで、木々に囲まれたこの家の中は大分薄暗く感じる。

「あくまで喩えやけど。この地域もつい五十年ほど前まで魔女狩りをしてたんやろ? 今は大分落ち着いてるらしいけど、それでも田舎に行けば名残はまだある。ラウファは。いや、『俺ら』はそういう存在や。迫害され、忌み嫌われ、呪われた生き物。まさに『魔女』ってわけ。……っと。」

 そろそろ火を付けなあかんな。そう呟いてエルグはおもむろに立ち上がり、くるりと踵を返す。後ろで一つに纏められた唐茶色の髪が、それに従って踊った。二足の黒狐もまた、彼に従う様にその後ろに付く。薄闇に溶け込むその背中を視線だけ追いかけながら、それでも頭は別のことでいっぱいだった。わたしは。どうして。どうしてどうしてどうしてどうしてどうして! わたしは!

 ラウが、『魔女』なら。
 かつて、沢山の人が亡くなったと言う。迫害にあって、殺された。
 ここは、ラウの故郷で。なら、ラウは。
 逃げてきた? 殺されかけた? 匿ってもらっていた? 護って貰えていたの? 酷い目に遭った? 何もかも忘れてしまうくらいに? 戻ってきて、それがよかったの? 隠してもらえるの? それとも、
 “君のせいでラウファが不幸になると、そう言ったら”。……ラウが、死んでしまったら。殺されてしまったら。殺されるために連れ戻されたなら。

 ――――どうしてわたしは、ラウの手を離してしまったの。
 嘘を吐いてまで。わたしは、本当は何が欲しかったの?

sideラウファ

 ――何か昔をのことを覚えてないか。

 覚えてないよ。

 ――確か、……が好きだっただろう。

 食べたことないからわからないよ。

 ――大きな怪我をしたことがあったんだが。

 傷跡なんてないよ。

 住んでいた場所はこういう場所で。
 獣に転ばされたことが。
 そんな物言いじゃなかっただろう。
 木から落ちたことが。
 快活だったはずだろう。
 熱を出したことが。
 本当に何も覚えてないのか。
 叱られたことが。
 降り注ぐ質問と確認の雨。けれど、僕はただただこう言って笑うしかなかった。

「そうなの? でも僕にはわからないよ」

 なぜならどの言葉にも、どの思い出話にも、何も感じることはなかったから。
 “わからない”と首を振るしかない僕に、次第に彼らも呆れたように首を振った。質問が止み、疑心と諦めに似た目が僕を見る。囁かれる内緒話は聞き取れなくても気分は良くない。明日の昼までには着くからと早々に火を起こした彼らの間に挟まれて、僕も決して居心地がいいわけじゃなかった。火を囲って、彼らの話すことを聞き流しながらぼんやりとそのオレンジ色に踊る明かりを眺める。それでも落ち着かなくて膝を抱えるとその上に乗っていた桃色の塊が小さく鳴いた。

《にゃあ》
「ああ、ごめん。アシェル」

 乗っていることを忘れていたわけではなく、別に潰すつもりもなかったんだけど、急に体勢を変えたからだろう。謝ってその頭を撫でる。すると手に擦りつくように頭を動かし、けれどその子猫は僕の声に反応することはなくごろごろと喉を鳴らしてからそっぽを向いてしまった。
 ……アシェル、じゃないんだろうか。やっぱり。
 ルノアと別れて十数分ほど後。背中に突撃してきたその生き物はその時から一度も僕に声を投げかけてはくれない。エネコの見分けなんて付くはずもなく、僕は彼女がアシェルなのかわからないままとりあえず『アシェル』と呼び続けている。うーん、うーん。アシェルじゃないのかなあ。でも僕はアシェルしかエネコを知らないはずだし。いやもしかしたらエネコに好かれる何かが僕にあるのかもしれないけど、その辺はそれこそアシェルにでも聞かないとわからなそうだ。ただ、僕を知っているというその人たちが触ろうとすると威嚇音を上げていたからこの『アシェル』は少なくとも彼らと知り合いではないらしい。
 アシェルの温かい毛並が定期的に上下する。呼吸音がかすかに耳に届く。僕はそのままアシェルを潰さないように気を付けて膝に頭を埋めた。ちゃり、と鳥を模したアクセサリーが僕の動きに鳴る。膝の隙間から覗き込むと埋め込まれた蜂蜜色の石が炎に火照らされて赤く染まっていた。ああ。そうだ。ルノア、今どうしてるかな。まだ王都にいるかな。ルノアのことだから、もう僕のことなんて放って、忘れてしまってどこかにいってしまっているかもしれないけど。
 珊瑚色の髪を揺らして尊大な態度で笑う彼女を思い浮かべながら今度こそぎゅっと目を瞑った。アシェルのものだろう、体温の暖かさがほんのりと届く。

 アシェル。アシェル。
 なんだか、変なんだよ。
 森の中に、戻ったみたいなんだ。こんなに周りに人がいて、彼らは僕を知っているとそう言ってくれているのに。
 偽物の僕の見る偽物の世界じゃなくて、『僕』の世界に、全て本物に戻るかもしれないのに。
 それなのに、どうして。僕の世界は偽物なのに。

 ――――どうして。こんなに心が落ち着かないんだろう。
 どうせこの感情も、間違いなく偽物なんだろうけれど。

sideエルグ

 夜鳥の声が森に響く。獣の息遣いが遠くに聞こえる。けれど子供たちの寝息はここまでは届かない。
 木々のせいで星は見づらいが、月明かりは木々の隙間を潜り抜けて彼らを淡く照らす。ゾロアークのロアほど夜目が利くわけではないが、それでもその光は彼の眼には十分な明るさだった。じっとりとした熱気に、纏わりつくシャツがうっとおしい。ぐしゃりと髪を掻き上げ、直に土の上に座る彼は長く長く息を吐く。
 結局――自分で気づいているのかは定かではないが――動揺の色を映し始めたルノアを宥めて、そうしているとダウが帰ってきたので、食事にして彼女とダウを寝かしつけた。エルグの『魔女』という喩えがどうも悪かったらしいが、その喩えは適切であながち間違っていないのが始末に負えない。この国における『魔女』とはまた意味が少し違うから、詳しくはきちんと説明するから、と言うと取り繕ったように落ち着いたが、それは。

「ラウファを、大切に想ってくれてるんやなあ。なあ、ロアちゃん」

 エルグに対してやロアに対してとは絶対的に違う反応。ラウファだけが彼女を揺らす。それはきっとラウファだけが、あの記憶も何も失くしてしまったラウファだけが、ルノアの内側に潜り込めて、嘘に塗れたルノアを肯定できるから。
 溜息のように吐き出した言葉に、物影から黒い獣が鼻を鳴らした。気づいてたのかよ、との呟きも微かにエルグの耳に届いたが、そちらは聞こえなかったことにする。長い付き合いだ。なんとなく行動の予想はつく。草を踏む音。彼のすぐ斜め後ろにまで来た獣は座ろうともせずに呆れたように尋ねた。黒い影法師は前に長く伸びている。

《さっさと話しゃあよかったじゃねえか。間に合うのかよ?》
「ダウがおったんやもん。勘弁してぇや」

 栗色の髪の少年――ダウを想浮かべながらからからと笑って見せるエルグに、しかしゾロアークは訝しげな表情を変えない。

《いつかは話す話じゃねえか。じいさんがお前にしたみたく》
「ロア、話さんよ。俺は話すつもりはない」

 先程の返しとは裏腹に今度返って来るのは鋭さを纏った言葉。琥珀色の瞳と翡翠色の瞳が視線を交える。だが、その睨み合いは長く続くことはなく、翡翠色の瞳に彼は肩を竦め視線を外した。

「まあ、それはそれ。ダウのことは置いておいて。というかまあ、うーん、確かにそれもあるけどそれよりも……」

 確かに。ゾロアークの言う通り、小さな子供にこれからルノアに話すこと聞かせたくないと思ったのは確かだ。だがそれをいうのならば。

「小さかったなあ」
《はぁ?》

 何を言い出したと言わんばかりの疑問の声を彼は無視する。頭を掻き、こめかみを押さえた。
 時間はあまりない。それは重々承知している。だが。三つ編みを揺らし、ヘーゼルブラウンの瞳を蕩けさせ、嫣然と笑う少女の姿を頭に思い浮かべる。……ああそうだ。そうだった。掌に残った感触を確かめる様に拳を作る。小さな、幼い手。きっと今までラウファの手を引いてきたのだろうその手はエルグが思い込んでいるよりももっと小さかったのだ。自分が面倒を見ているあの臆病な子供と、ルノアは一体どれほど年が離れているのだろう。大人びて見えるからと言って、大人(セレス)の真似事をしているからと言って。“泣き喚き、声を荒らげ、苦悶の表情を浮かべれば、そこにいるのは確かに自分よりもずっと年下の小さな女の子”だと、そう思ったのは自分なのに。あの子は、ラウファよりも幼いただの子供なのに。“こんなこと”を話しても良いのか悩むほど、年端もいかない女の子なのに。
 尤も。尤ももはや彼には今更選択肢などない。ルノアに手を差し伸べた時から、ルノアがエルグの手を掴んだ時から、もう、巻き戻しは効かなくなっているのだから。彼女が掴んだ右手を広げ、彼はもう一度深く息を吐く。

「……んーいやー。年長者は頑張らなあかんなあって話。いやまあ、それよりも、『エルグ』」
《……あ?》
「話、するわ。俺が今までどこをほっつき歩いてたか」

 嫌そうな顔を隠しもしない黒狐を見上げて、彼は気弱に笑う。ゾロアークはその言葉に答えず、ただ顎をしゃくって先を促した。手持無沙汰な腕を腕組みする姿はとても人間らしい。尤もそこから覗く鋭く長い爪は獣のものだが。エルグはそんな彼に微笑みを崩さないままゆっくりと話を始める。セレスの日記には本当は何が書いてあったか。嘘を吐いたこと。子爵を訪ねて、自分のことを話したと。そのうえでもう一度ルノアに確かめたくて会いに行って。そうしていたらラウファが行ってしまった。
 ぽつり、ぽつりと語るその姿は、懺悔にも近かった。

《……とりあえず、一発ぶん殴らせろ》

 話し終わって開口一番、ロアが言ったのはその一言だった。翡翠色のそれが、苛立ちを露わにしている。ええよ、とその言葉を受けて身体の力を抜くエルグにけれど獣は腕を動かす気配もない。代わりに落ちてくるのは、声。

《死亡台帳ってそういうことだったのかよ。あー、ほんとてめえは碌なことをしねえ》
「うん、ごめんな」
《もう隠してることはねえだろうな?》
「ないよ」

 素直に答える彼に、今度はロアが長く息を吐く。紫煙を肺から追い出すような長い息に、月明かりは沈黙したまま。森の深い緑は、黒を落としてその黒い毛並とその表情を朧にさせる。

《……で?》
「で?」
《それだけじゃねえだろ》

 白い牙がちらりと覗いて、エルグはその言葉に笑った。長い付き合いは、そういうことに敏くさせるものらしい。エルグはにへらと頬筋を緩める。

「ロアちゃん。お願いしても、ええかなあ」

 歪に、歪に、口元を曲げて。申し訳ないと心の中で死にもの狂いで詫びながら。

sideエルグ(ゾロアーク)

 エルグが笑う。歪に、歪に、口元を曲げて。
 壊れてしまいそうに、息の仕方を忘れたように、顔を歪めて。
 彼は気づいているのだろうか。それは、“申し訳ないと思っていないふり”をし切れていない顔だと。
 ほらみろ、『大丈夫』なんかじゃないじゃねえか。てめえはもうこんなにもぼろぼろじゃねえか。かつて大丈夫だとそう言って笑ったそいつにそう吐き捨てる。けれどそれは音としての言葉にはならない。

「お願いしても、ええかなあ」

 自分で聞いておいてなんだが多分、また碌でもないことなのだろう。碌でもない無茶を『エルグ』に身代わりさせるのだろう。それこそ、今までの雑用とは違って命の危険が伴うような。そうでなければきっと、ここまでの顔はしない。そう、分かった。だが、わかってなお彼はそんなこと知らないふりをして答える。

《話だけ聞いてやる》

 ――ロアちゃん、ロアちゃん。お願い。お願いだから、『エルグ』になって。
 ――『俺』の代わりになって。

 守れなかったのだと、大切なひとを守れなかったのだと。
 崩れ落ちるように縋りついて。壊れるように泣いて。
 その能力を利用させろと。その能力の全てをもって自分に力を貸せと。そう、一緒に育った片割れは彼に“命じた”。だから彼は従うのだ。
 ぼろぼろになって大丈夫と笑う、ちっとも大丈夫などではない自らの主に。

《命じてみろ》

 死んでしまった人間のことなんて、忘れてしまえばいいのに。
 その命令がどこまで自分の心と裏腹なものであっても。



 ああ、あの忌まわしい化物が。
 死んでからもなお、まだ、エルグを縛るのか。

 黒い毛並が、夜に溶けた。

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2016.10.29  17:42:08    公開
2016.10.30  03:46:24    修正


■  コメント (3)

※ 色の付いたコメントは、作者自身によるものです。

続き。

番外編、あーあーあれを好きだと言ってくださる方が知る限りでも数名いらっしゃるんですけど、あの番外編って本当に慣れないことをして書いたもので不安でたまらないものなんです。だから、そう言って頂けるとすごくほっとします。ありがとうございます。僕もセレスさん大っ好きなんですけどね……。いかんせん出番が少ないのが辛いところです。
繰り返しになってしまいますが、語彙力ないなんてとんでもないですよ! 読んだと、好きだと、そう言って頂けるだけでもう本当に、机に突っ伏して悶えるくらい嬉しいですので。というよりいまも悶えてますので。寧ろ僕の方が先程から「ありがとうございます」しか言えてないです。いやもう、本当にすみません。
ひええ、手本にできるような文章を書けてないんですが……! 失望されないように精進します。
いえいえいえいえ、長々なんてとんでもない! とても嬉しかったです。たくさん書いてくださって本当にありがとうございます。読みづらくもないですよ! 謝らないでください。僕はこれで三日間ごはん抜きでも生きていける気がします!
本当にとてもとても励みになります。同じ言葉の繰り返しになってしまって、もう少し気の利いた言葉が言えないのが申し訳ない限りなのですが、ありがとうございます。頑張って更新します……!
最後まで彼らの旅路にお付き合いいただければ幸いです。
それでは、本当にありがとうございました。

長々と失礼いたしました。

16.10.30  05:36  -  森羅  (tokeisou)

コメント有難うございます!! 心海さん!
改めまして。はじめまして、森羅と申します。アクロアイトの鳥籠に目を止めて頂きまして、本当にありがとうございます。
うわあ、うわあ、そうですか。本当ですか。夢中で読んで頂けましたか。すみません、最高級のお褒めの言葉です。冥利に尽きます。本当に、本当に嬉しいです。ありがとうございます!!
本当は感嘆符まみれにしたいところなんですが、語彙力の底が見えてしまうのと読みづらいだけになりますのでやめておきますね。
いえでも本当に。読んで頂けるってすごい光栄なことなので。コメントまで残していただき、本当にありがとうございます。
全然語彙力ゼロじゃないですよ。むしろこちらの語彙力の方が……。

ラウとセレスが好きですか。おお、ありがとうございます! キャラを好きだと言って頂けるとやはり嬉しいですね。
ラウファは、そうですね。心海さんの仰る通り「忌み嫌われるもの」です。本当はそのあたりもう少し深くこの話でできるはずだったんですが……。全く書けなかったですね……。『俺ら』とエルグが言っていること、お気づき頂けてよかった! です! そうです、『俺ら』なんです。あんまり言うとネタバレになりそうですが、『俺ら』ということはつまり、そういうわけですね。そういうことです。
「エルグの大切なひと」も、今後きちんと明らかになるはずです。うまく書けると良いのですが……! 「どうなってんねん!」というわからないところがあったらぜひ教えてくださいね……。

すみません、長くなりましたので分けます。

16.10.30  05:32  -  森羅  (tokeisou)

…突然のコメントですみません。はじめまして。心海という者です。最近「アクロアイトの鳥籠」を読み始めました。
最初からこの一つ手前のお話までつい夢中で読んで、森羅様の小説がトップに上がっているのを見つけて。すっ飛んできました。どうしても森羅様の小説のコメント欄にお邪魔できないかと読み始めた時から思っていました。(ストーカーみたいですね。ごめんなさい)
語彙力0の私なのでうまく言えないのですが、コメントを。
個人的にはラウファとセレス様が好きです。ラウファはこれからどうなるのか、また魔女とはどういう意味なのか…ただ本編の通り「忌み嫌われている存在」だったのだと、このお話でまたラウファのことについて新たなことが分かったわけですが。「俺ら」ということはやはりエルグやロア、ダウもそうなのでしょうか。また「エルグの大切なひと」もひっかかりますね。そのひともラウファと何か繋がりがあるのでしょうか。気になります。セレス様は番外編を読んで好きになりました。番外編大好きです。語彙力なさ過ぎてこれしか言えません…森羅様の表現の仕方、話の進め方、全てが素晴らしくて。勝手ながらお手本にさせてもらっています。
ここまで長々と書いてしまいました。もっと書きたい事はあったのですが、ありすぎて…それに突然入ってきて長々と書いてしまうのは…と思いました。もうこの時点で長いですが。というか大変読みづらいと思います。ごめんなさい。
少しでも森羅様の最新の励みにもなることができたなら幸いです。これからもかげながら応援できればと。
それでは長々としたコメント失礼いたしました。

16.10.30  00:19  -  不明(削除済)  (kokoro)

 
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