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アクロアイトの鳥籠

著編者 : 森羅

番外編.アマデウスの娘

著 : 森羅

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 世界中でたった一人。おれが『お嬢様』と呼ぶ女性(ひと)がいる。
 その人はある意味で『セレス・ローチェ』、つまり我が家のお嬢さまを“造った”人であり、お嬢さまをお嬢さま足らしめる人間。そして、おれに絶大な影響を与えた人でもある。
 その人の居場所はもうない。その人はもういない。けれど、その人がいなければきっと不幸も、幸福も、何も、始まらなかった。
 これは、そんな彼女の話。

 金糸を梳いたようなアイスブロンドと吸い込まれそうな蜂蜜色の瞳。整った顔立ちに、耳を撫でる独特の声色。猫のように気紛れで、横柄で、我儘で。自由で。
 とても、とても。その生き方さえも美しいひと。

「帰って頂戴。婚約者だか何だか知らないけれど、わたしはあなたに興味がないわ!」

 ……だったのだけれど。
 そんなものをまじまじと見る余裕はその時にはなく、いやむしろそんなことがどうでもよくなるほど――初めて見た彼女の顔は、見事なまでの膨れっ面だった。十二歳と十五歳。結婚適齢期にはそろそろ十分で、だからなんら奇妙なことはなかったはずのその出会いは、
 『空想的』とは程遠く。
 『運命的』という言葉などなく。
 『形式的』に終わったわけでもなく。
 『衝撃的』といえば確かにその通りで。
 取りつく島などどこにもなく、ご丁寧に“あっかんべー”と舌まで出してくれて。次の瞬間には部屋の扉が勢いよく閉まる。その風を顔に受けながら、その時のおれはただ茫然と突っ立っているだけだった。

 ………………は?

 確か、そう思った気がしなくもない。
 その出会いがあまりに強烈で、こう言っては何だけど自分の立場上“そういう扱い”を受けたことなどなかったものだから、ひどく屈辱的で。おれはなんとかこの可愛げの欠片もない身勝手な『婚約者殿』とやらを屈服させてやろうと躍起になった。こちらもあちらもそうそう都合が合うわけではなかったから、会うのはせいぜい月に一度あるかないか程度だったけれど。

「……」

 庭で一番綺麗な薔薇をたくさん庭師に摘ませたのに、部屋の扉さえ開かなかった。

「興味がないわ」

 王都で評判の仕立て屋にとびきりの生地で作らせたはずのドレスは箱を開けることもなく突き返された。

「いらないわ」

 海を渡る商人が持って来た宝石は、一瞥しただけで溜息を吐かれただけだった。

「ゎ……っ。……見せてくださって有難う。どうぞ帰って頂戴」

 異国の細工はようやく少女の興味を引いたらしいけれど、すぐに膨れっ面に戻って踵を返された。いつもと同じように閉じられた茶色く分厚い扉を前に、自分の知る限り一番汚い言葉を吐きそうになって、なんとかそれを噛み潰す。

 ――ここまでコケにされたのは、当然ながら初めてだった。

 我ながら我慢した方だとは思う。思うの、だが。使用人に言いつけて贈らせた物さえ受け取らない彼女の態度にいい加減憤慨した。一体何が気に食わないのかと。親たちが勝手に決めたこととはいえ、一応旦那様なんだぞと。上流貴族の息子がたかだが下級貴族の年下の娘にこんなにも贈り物をしてやって、こんなにも下手に出てやっているのに、一体何故そんな横柄な態度を取っているのかと。彼女がおれを追い返すたびに彼女の父親からは謝罪の言葉があったが、当たり前のように彼女からの直接の言葉はなく、苛立ちは増すだけだった。そして、何度目の面会の際。ついにおれは理性を頭の中のくずかごに放り込んだ。
 いい加減にしろと。我儘も大概にしろと。童話や小説の恋愛を気取りたいのかもしれないが、所詮貴族の結婚なんてそんなものだと知らないはずがないだろうと。それが当然のことなのだから『恋愛』がしたいなら勝手に、それこそ自分の邪魔にだけならないように浮気でもすればいいと。
 これまでの鬱憤を晴らすべく言うだけ言って、喚き散らした。自分が正しいと信じて疑わなかったし、“そんなもんだろう”とも思っていた。例えば物語に出てくるような『愛情』だの、『恋愛』だのに興味はなかったし、そういったものは義務として行われるものだとさえ思っていた。勿論、“比較的そういう考えが正当化されやすい環境”であったのは確かだし、そういう考えを否定するつもりは今でもないけど。
 そうやって吐き出すだけ吐き出して、ちょっとは目を覚ましたかとおれは彼女を見たわけだけども。件の彼女といえば無表情にも近い冷め切った目でおれを見ていた。それこそ全く興味がないと言わんばかりに。いや、それこどころか、ご丁寧に言葉に出して言って下さったわけ。

「あなたって本当に詰まらない人なのね」

 淡々と、ため息交じりに、呆れるように、憐れむように。白い指を頬に沿わせて、物憂うように睫毛を下げて。

「ねえ、あなたは今までたくさん贈り物をしてくださったけれど、どれか一つでもあなたが自分でしてくれたものはあるの? 薔薇はあなたが育ててくださったの? 手折って、棘を抜いてくださったの? ドレスは生地を織ってくださったの? 宝石はあなたが見つけてくださったのかしら、細工はあなたが向こうの商人から仕入れてくださったのかしら? 違うんでしょう? あなたが自分でしたことなんてないんでしょう? あなたは命令を下しただけ」

 乾いた口内が、それでも喉を鳴らした。反論したくて、けれどそれは言葉にはならなかった。高く、けれど温度の低いソプラノが頭の奥を突き刺していく。

「本当は。本当は、あなたが躍起になってわたしに会いに来てくださっていたことは面白いと思っていたのよ。こういうのは失礼かもしれないけれど……愉快だったわ。でも、あなたはわたしの為ではなくて、あなた自身の虚栄心のために訪れてくださっていたんでしょう? だって、あなたはどうしてわたしがあなたの贈り物を受け取らないのか考えてもみなかった。わたしが何を喜ぶか、考えてはくれなかった。あなたは下手をすれば贈り物の中身さえ知らずにわたしのところに来ていたのでしょう? わたし、そんなものに興味はないわ」

 聞き惚れる様な耳に残る声で、宝石のような蜂蜜色の瞳でまっすぐおれを見上げて。

「あなたにはそれが当然なんでしょう。誰かにやらせるのが当たり前。そしてきっとそれは間違いではないんでしょう。それで困ることもないでしょう。でも、わたしも別に恋い焦がれる様な恋愛なんて求めてもいないけれど、それでもあなたみたいな自分じゃ何もできないような詰まらない人と、相手の気持ちさえ考えられない人と、一緒になりたいなんて思わないわ」

 突き付けられた言葉に苦い怒りが喉をあがってきて、それでも何も言わずに彼女に背を向けた。もしかすると二度と来るか、とか何も知らないお嬢様が、とか何か吐き捨てた気もするけど、そんな言葉しか出てこなかったのはそれこそ、今思えば負け惜しみ以外の何物でもなかっただろう。何も言わなかったのならば、それもまた何も言い返せなかったことに他ならない。
 ただまあ、今だからこそ冷静に状況を判断できるわけで、その時のおれにはそんな余裕はどこにもなくただ行き場のない苛立ちをふつふつと抱えて家に帰った。彼女の言うことが正論だと認めたくなくて、自分はそんなことする必要もない人間なのだからと、それを言うなら彼女だって何もできないじゃないかと、そう言い聞かせた。

 その後、普通なら縁談が破棄されて、それできっぱりさっぱり文字通り『お終い』だっただろう。

 普通なら。
 これはもう幸と言うべきか不幸と言うべきか、最初彼女を『屈服』させようとしたことから明白なことなのだけれど、おれはそれなりの負けず嫌いで――下手に良い家柄のせいであまり『敗北』を喫したことがなかったものだから耐えられなくてともいう――おれはいつもはやらないことをやってみた。できるがやらないのだと、そう彼女に見せつけるために。まあ、言うまでもなく結果はお察しだったわけだけど。庭師に鋏を借りれば薔薇の棘を指に突き刺すし、毛虫には刺されるし。服を仕立てるなんてやってみるまでもなく不可能で、商人への交渉だってちっともうまくできなかった。料理に手を出せば、火傷塗れの切り傷だらけでとうとう厨房からお願いだから出て行って下さいと見ていてられませんと懇願される始末。おまけに火傷に薬を塗ろうとしたら適量もわからず両手を軟膏まみれにもした。
 こんなこともできないのかと。
 愕然としたし、情けなくもなった。彼女の言うことが正しかったと認めたくなくて、けれど認めざるを得ない状況だった。“そんなことする必要のない人間じゃないか”という台詞は、もうすでに“そんなこと”を実践してみた後に言ってもただただ空しいだけで。
 三つも年下の、しかも身分まで下の、女の子に、おれは思い知らされたのだ。
 “自分は無能である”と。

 それは――こう言っちゃなんだけど――本来であれば知る必要のなかったことだと今でも思う。それは感じる必要のない悔しさで、与えられる必要のない屈辱と無力感だったと思う。なぜならそんなことを思い知らなくてもおれの目に映る世界は困ってなどいなかったのだから。ぬるま湯のような心地良い環境はきっと与えられ続けたに違いないのだから。
 それでも、知ってしまったらもう知らなかったことにはできなかった。無知であることを良しとすべきではないことくらいの分別はついた。例え、それさえも下らないプライドでしかないと言われても。
 ……これも今思えば、だけれど。今思えば、この頃にはもう、おれは彼女に魅かれていたのかもしれない。自分の知らない世界を当然のように知っていた、蜂蜜色の瞳の、女の子に。

 いやまあ、想い出は美化されると言うし、この独白は恥ずかしいだけなのでとりあえずそのことは置いて話を戻そう。
 繰り返すことになるけどおれは結構良い家柄の息子だ。そして、それが高慢の理由でもあり、また変に捻くれずに育った理由でもある。彼女の影響で少し歪んだ気もするけど、まあそのあたりは今更気にしても仕方がない。つまり何が言いたいかと言うと――自分の非を認めて謝ることくらいはできたのだ。

 棘の無い花をようやくいくつか手折って、ぐちゃぐちゃにしながら纏めて。色もばらばらで、驚くほど統一感がなくて、貧相にしか見えないそれを握りしめて彼女に会いに行った。
 こんなことしかできないのかと。
 今、彼女の眼の前に立っていることが恥ずかしくて堪らなかった。ああ、なんて詰まらない人間だろうと。彼女に言われた通りだったと。目を合わせることもできず、きっと彼女は勝ち誇ったような顔をしているに違いないとそう思った。

「…………え?」

 尤もそれは、正しくなかったのだけど。
 彼女の顔はそれこそ“勝ち誇った”というよりは“驚いている”に近く、“侮蔑”というよりは“呆けている”のが当てはまった。おれが初めてじっくりと見ることのできた彼女の顔は虚を突かれたときのそれだったのだ。

「……え?」

 当然それは彼女にとってもそうであったようにおれにとっても予想外でしかなくて。お互いぽかーんと、たっぷり十秒は固まっていたわけで。最初に笑い始めたのは、金髪のその子で。
 ――その顔をおれは生涯忘れることなどないだろう。
 “可愛らしい”なんてものじゃなかった。そんな言葉は彼女に相応しくなかった。作り笑いでも、腹の中で何を考えているのかわからない澄まし顔でもなく、それはまるで飼い慣らされていない獣のような――獰猛で、暴力的な笑み。力強く、堂々としていて、気品があって。自分の存在を誇示するかのような痛烈さで。『それ』は率直で、無骨で、それゆえに洗練された、どこまで自由な野生の獣の“美しい”笑み。……尤も、こんなことを言えば彼女は怒るだろうから、そんなことを思ったのはおれだけの秘密なのだけど。

「頂くわ、ありがとう」

 未だ呆けたままのおれの手から彼女はそう言って貧相な花束を抜き取った。踵を返し、こちらを振り返りもせずにいつもと同じように扉の向こうに消えていく。けれど彼女のスキップでもするかのような軽い足取りとおれの手に何も残っていなかったことがいつもと違った。彼女の、笑顔。それが忘れられなくて。惚けたまま、突っ立っていた。
 確信を持って言おう。おれは、この時初めて自覚した。

 そこからはもう、言うべきことなどないだろう。
 おれは別の意味で彼女の気を引こうと躍起になった。初めに断っておくけれどそれはきっと恋愛感情ではなく、強烈な憧れだったのだろう。彼女のあの、自ら咲き誇るような表情に魅かれて止まなかった。小さな世界で “何も知らず”に、“知ろうともせずに”、与えられるものだけを甘受してきた自分に、それはあまりにも毒々しく、凶悪で……魅力的であったから。
 だから、羨望せずにはいられなかったのだ。

 尤も彼女のあの笑顔は、暫くはあの一度きりだった。おれがあくまで“自分の自尊心のために”そうしているのではないかと疑っていた彼女は少しの間やはりおれの相手をしてくれなかったのだ。門前払いを食らうことなど日常茶飯事で、申し訳なさそうな使用人に叩き出されることもなんだかんだで慣れてしまって、おれのメンタル面はこの時に相当鍛えられたと思う。ついでにあんなに素直だった性格もぐしゃっと歪んだ。彼女の悪態も笑って流せるようになったし、機嫌が悪い彼女にちょっかいを出すことも覚えた。いつの間にか薔薇の棘に指を刺すことはなくなったし、贈り物を精査できるくらい目も肥えた。ちょうどこの頃現れた彼女の『お気に入り』はそれを不思議そうな顔で見上げていたけれど、その時におれはその子供に目を向けることはなかった。
 そうやっていくうちに徐々に彼女はおれを受け入れてくれるようになった。いつもその前までしか行けなかった茶色い扉、その向こう側の、彼女の領域まで足を踏み入れることを許されるようになった。……というとなんだか彼女を騙くらかしたようにも聞こえるけれど正当な努力の結果だ。後々に彼女は難しい顔で“なんだか負けた気がするわ”なんて不貞腐れていたけれど。いやいや最初に負けたのはおれの方だよと言いたい。
 そういうわけで、無事に彼女に認めてもらえたおれは時間の許す限り彼女に会いに行くようになった。
 彼女のくるくると良く変わる表情を見るのが楽しくて、あの見るものを屈服させるような、目を逸らすことを許さない笑みが見たくて。彼女の声が心地良くて。その取り留めもない話には自分の知らないことがたくさんあった。彼女の眼に映る世界は、おれの見るものとは違っていたから。

「ねえ。この獣を知っているかしら? わたし、最近知ったのだけれど。見て頂戴、外つ国の獣なんですって」

 目を輝かせて、頬を火照らせて、饒舌に、興奮気味に。分厚い図鑑を捲っては自慢げに新しく得た知識を披露した。
 この世界に生きる獣はなんて不思議で素敵なのだろうと。こんな不思議で魅力的な生き物を害獣としか見なせないなんて勿体ないと。

「甘いお菓子は好きよ。美味しい食事も、綺麗なドレスも、花も宝石も好きだわ。ええ、でも。でもそれよりもあなたと過ごす時間も好きなのよ。だから、ねえ、『旦那様』」

 聞いたこともないような甘えた声と上目遣いの潤んだ瞳でねだる彼女に、おれはにっこりと笑ってあげる。ああ、おれも可愛い奥方ともっと一緒に居たいかな。だけどきみの大切な勉強時間を奪うわけには行かないからね、なんて。勉強嫌いの彼女の『我儘』をそうやって受け流し、ぽいっと勉強部屋に放り込んで笑顔で見送る。“前言撤回大っ嫌いよ!”なんて悲鳴が聞こえた日には勝利宣言。そりゃもう優越感で笑いが止まらなかった。
 子供っぽくて、我儘で。傍若無人で自由奔放。おれの憧れるものを、おれがかつてどこかに置いてきてしまったものを、彼女はすべて持っていた。

「何をしているかですって? 見てわからないかしら。冒険しようと思ったのよ」

 庭で一番背の高い木に張り付いた状態で見つかった彼女が大真面目な顔でそう言ってのけたこともある。せっかくの金髪は木の葉と埃まみれで、結局木の上で幹にしがみ付いて動けなくなっている彼女がどうみてもマヌケで。おれはもうその大真面目っぷりに唖然とするしかなくて、でもその行動力っぷりに拍手を送らざるを得なかった。
 反省などするはずもなく、無邪気に、無垢に、どこまでも真っ直ぐ笑って。外にはきっとたくさん素敵なものがあるから見に行くのだと。きっといつか見に行くのだと。

「ふふふ、ねえ。あなたはだあれ? ……ローチェ家の息子? そんなものどうだっていいわ。だって、今わたしに花を下さったのはただのエレコレでしょう?」

 彼女の家の、決して広くはないけれど整えられた庭で。赤や黄色や白に咲き誇る花と青空を背景にして。混じりっけなどどこにもなく、澄ましたそぶりもなく、ただ本当に嬉しそうに。おれが手折ってきた花で作った花束を抱き寄せて、少しだけ悪戯っぽく笑う彼女。金髪が太陽に当てられて波を打つ。それに釣られておれの表情も緩む。彼女の傍は気が楽で、居心地が良かった。何の色眼鏡もそこにはなかったから。未だ上手く花束を作ることはできないのだけど、庭師が作ったそれよりも彼女はおれが作ることをねだってくれた。

「ええ、とっても楽しいわ! 空が高いわ。ねえ、見て頂戴、見て頂戴。じっと黙っていて頂戴ね。誰かの声が聞こえるでしょう? 息遣いが聞こえるでしょう。喧騒が聞こえるでしょう。人影が見えるでしょう。ここには誰かの生活があるの。誰かがいて、確かに生きているの。わたしの知らないところでだって、誰かが生活していて、何かを考えていて、誰かを愛していて、生きているんだわ。ねえ、道一本違えばすれ違わなかった人と今、すれ違っているのよ。見なかったはずの景色を見ているの。わたしは誰かにとっての『誰か』になっているの。ねえ、子爵。こんなすてきなことってあるかしら?」

 蕩けるような優しい目で、愛おしむように。あまりに彼女が脱走を試みるので何度か街に連れ出したことがある。おれにとってはちっとも楽しくない見慣れた街並みと無関心な人ごみを彼女は胸いっぱいという表情で喜んだ。ほとんど外に出ることがなかった彼女は『外』に憧れていて、それに混ざれている自分にわくわくして仕方がないと。楽しくて仕方がないと。自分がこの場所に居ることは素晴らしいと。居るはずの無かった場所に居て、すれ違わなかったはずの人とすれ違えて、なんてこの世界はすてきなのだろうと。誰もがそれぞれの考えを持っていてそれぞれの生活があって、それはきっととても素晴らしいことで、それに触れられるのが嬉しくてたまらないと。
 誰かの話し声、食べ物の匂い、すれ違う人々の様子。彼女に言われて、初めて意識して見た。この人はどんな人だろう。一体どこへ行くのだろう。恋人の所? 仕事場? この匂いはどこからだろう。どこかの家が食事中? 何人家族だろう? どんな話をしているだろう? あの人は? その人は? 意識すればするだけ、無関心な人ごみは『人間』として形作られたし、見慣れた街並みは別物に見えた。別の日には草原に連れていたこともあるけど、土の上に直に座るのも、永遠と空を見上げさせれたのもあの時が初めてだった。寝ころんでしまえば青々と茂る雑草は自分の視界を覆う程に背が高くて、天気さえわかればよかったそれは、純粋な青色ではないと知った。素足になって飛び跳ねる彼女は一等楽しそうで、一等綺麗だった。彼女に教えられたことは他にも、たくさん。星の見方、蝋燭の火の色。雨上がりの虹の探し方。ああ、そうか。それも一種の才能なんだろう。おれの隣で恍惚と目を細める彼女に、なんとなく。なんとなく、だけれど。
 きっと彼女の目に映る世界は途方もなく美しいものなのだろうなと感じた。

 我儘で、傲慢で、すぐ表情が変化して。
 世界が好きで好きでたまらなくて。きっと、“世界が綺麗に見える方法”を知っていた。
 蕩ける様な心地良い声と、淡い蜂蜜で染めたような金の髪と、金糸雀色の瞳を持っていて。
 神様に一際愛されたような人だった。獣のような自由さと気高さと、そう言うものを兼ね備えた人だった。
 彼女は、そういう人だった。

「あら、子爵。いらっしゃい。こんな格好でごめんなさい」

 初めて出会ってから、六年。おれが二十一、彼女は十八になる年のこと。
 妖美で、不敵で、何物にも囚われないような強い笑みは相変わらずで。明るく弾んだ声もいつも通りのはずで。けれどベッドに横になる彼女はどこか小さく見えて。
 おれは彼女を世界中の神様の祝福を受けたような人だとさえ思っていたのに。いや、きっと彼女自身、そう最期まで確信していたんだろうけど。

「ねえ、子爵。お願いがあるのよ」

 ふふふふ、と。内緒話をするように含み笑いで、声を潜めて。白くて細い人差し指を唇に当てて。聞き慣れた、砂糖菓子のような声が当たり前のようにそうねだった。

 ――愛しているよ。
 六年間なんだかんだ縁が続いて、初めて彼女にそう言った。
 重ねて言うけどおれは彼女に憧れて、魅かれた人間だ。だからそこにあったのは恋愛感情ではない。そして、彼女にもおれに対する恋愛感情などなかっただろう。“そういう扱い”を受けたことは本当に数えるほどで、しかもそのほとんどがおふざけの混じったもので。彼女にとっておれはせいぜい融通の利く悪友あたりの認識だっただろうと思う。だから、奇妙な話ではあるけれど、おれたちは名目上『婚約者』でありながら、形式的な恋人でも情熱的な恋人でも――いや恋人でさえなかったわけだ。おれと彼女の間にあったのは伴侶としての愛情と言うよりはむしろ、友愛や家族愛に近い。ただ、それもまた愛情の一つではあったと思う。……いやまあ、はっきり言うとおれと彼女の関係に相応しい言葉を、他に見付けられなかっただけだ。
 そして、その言葉を言われた当の彼女はというと呆気にとられたようにぽかんとしていた。初めて花を渡した時みたいだなとふと思い出して、そうしたらやっぱり彼女は笑いだしだ。

「あら、子爵。そんなの気紛れよ。ただの、気紛れ。それか思い込みだわ」

 高貴な獣のような獰猛なそれ。おれが魅かれて止まなかった何物にも縛られないような、艶笑。そんなものを向けられれば他の景色などどうでもよくなって、おれは彼女に目を奪われた。
 腰まで届きそうな金糸が流れて、触れることさえ躊躇うような美しい獣が微笑む。

「わたし、あなたはもっと生産的な人だと思っていたわ。実利主義で、現実主義。そんなこと言うなんて思わなかったわ」

 ああそうだね、きみのせいで随分性格が歪んだから。でも、嘘吐きにはなっていないんだよ。
 恋愛小説のような甘い台詞は言えないけど。きっとこの感情は恋愛ではないのだろうけど。それでも嘘偽りなく、おれはきみを愛しているよ。
 彼女を手懐けようなんて、おれはもう思っちゃいなかった。ただ、それでも零れてしまった言葉に、彼女は“愛している”なんて言葉の鎖さえ付けられることさえ拒否した。おれが羨望したように、彼女はどこまでも自由気ままだったのだろう。留めておこうと考えることが愚かなほどに。

「子爵、それ以上は駄目よ。だって、それは呪いだもの。愛してる、なんて。それほどひどい呪いもないわ。いいえ、わたしが死んでしまったらそれはきっと呪いになるの。だから、言っちゃ駄目。言ったら絶交よ」

 指一本でおれの口を塞ぎ、黙ったのを見て満足げに頷いて。口を尖らせ、拗ねたふりをしてそっぽを向いてしまう。おれが続きを言おうとしても耳を塞いで聞かぬふり。とうとうおれはその言葉を重ねて言うことを諦めた。

 言えず仕舞いだったことは、やっぱり後悔している。

 彼女が亡くなって。遺品や家のことの整理をして。
 彼女の小さな従者を引き取って。
 ようやくひと段落した頃に知らないうちに世界は進んで行くんだなあなんて、日付を見て思って。
 遺品の整理は彼女の遺書の通りにやったので多分、文句は言われないだろう。個々に宛てた手紙もいくつか見つかって、その中におれの分もあった。全部ひと段落するまで開けるな、とのお達し付きで。……一体彼女はどれだけ先を読んでいたのだろう。というよりもおれが全部の片づけをするのは彼女の中では決まっていたことなのだろうか。まったく、最後まで人使いが荒すぎるじゃないか。
 真夜中、自分以外誰もいない部屋で蝋燭を灯す。ソファーに身を預け、封蝋を壊し、したためられた文字の懐かしさに目を細めた。何度も文字が目を滑って、そのたびに読み直す。書いてあることはほぼ半分が“後処理お疲れ様”という労いで、もう半分が引き取った子どもに関することだった。おれに関することは全体の一割にも満たなかったと思う。彼女はおれを何だと思っているのだろう。苦笑いが漏れて、けれど手紙の最後の文字に思考が止まる。
 それからはもう、笑うしかなかった。蝋燭の明かりに照らされて、おれは一人で腹を抱えていた。
 だってそうだろう? こんなの、卑怯じゃあないか。

 ――最後に。どうしようか迷ったのだけれど、わたしが言う分には構わないとたった今決めたわ。

 ――親愛なるエレコレに。愛しているわ。

 ……まったく、きみは本当に最後までおれに勝ちをくれないのかい?



 ねえ、セレス?

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2015.6.27  23:28:52    公開


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