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アクロアイトの鳥籠

著編者 : 森羅

5‐3.空に叢雲、雨には傘を

著 : 森羅

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sideエルグ(ゾロアーク)

 エルグを含め、ゾロアークの見せる“幻影”は基本的に二つ種類が存在する。
 一つは、“幻を見せる”こと。景色であったり、自分以外の物体であったりを本来のそれとは違う“何か”として認識させる。そしてもう一つは“化ける”こと。こちらは自分自身を自分達(ゾロアーク)とは違う“誰か”として成り代わらせる。どちらの“幻影”も根本的には自らの身を護る為に使われるもので、外敵を排除するために使われるか、外敵の中に紛れ込むことで安全を手に入れるために使われるかで用途が異なるだけだ。だが、この二つの“幻影”には一つだけ大きな違いがある。彼らの生み出した“幻影”が実体を持つか否か、だ。
 前者の“幻影”はあくまで“そう見えるだけ”でしかない。例えば花畑が崖に見えるよう幻影を掛けたとしても実際は花畑なのだから足を踏み外しても崖から落ちることはない。だがしかし。後者の“幻影”では彼らは自分たちの姿を“別物”へと変容させてしまう。中身がゾロアークのままであるのは事実だが、小さい生き物に化ければ彼ら自身の視線は低くなるし、大きな生き物に化ければおのずと体は大きくなる。外見だけならば確かに“自分以外の生き物”に“成り代われる”のだ。そして、彼らの努力次第ではその生き物の行動や仕草、身体の感触などを学びとって自分のものにできる。それは“幻”ではあるが“嘘”ではない。喩えるなら舞台にいる役者のようなものだ。

《まっ、こんなもんやろ》

 そうして、“鍵穴の大きさよりも小さな生き物に化けていた”黒い獣は元の姿に戻ってから満足げに笑い、屋敷の埃っぽさに顔をしかめる。天井には遺棄された蜘蛛の巣が掛かり、試しに壁をなぞってみると分厚い埃が爪に付いた。くちっ、くちっ、という小さなくしゃみが連続する。鼻が、むず痒かった。

《あーこれ、早よ帰ろ。身体悪ぅしてまう》

 ぐずぐずと鼻をすすり、一息。彼は唐茶色の髪の青年に“化ける”。上から下まで自分の姿を見下ろし、化け損ねがないか確認。仕上げに両手十本に増えた人間の指を拳にしては開くという動作を数度繰り返した。滑らかな指の動きに、ふむと一つ気取って頷いてみる。尻尾の様な一括りの細い髪が宙を踊った。

「爪で弄(いじ)って、傷つけたら困るしなあ。これなら大丈夫やろ」

 さて、これで準備万端とエルグは軽い足取りで一歩踏み出す。この家の娘について、彼女の自室がわかるわけでもなく、結局は一部屋一部屋虱(しらみ)潰しに調べてみるしか手はない。これでハズレやったら、それこそ骨折り損やなあ……。彼は肩を落とし、一番近い部屋の取っ手に手を掛けた。

sideルノア

 部屋の戸を閉じた瞬間、身体の力が抜けた。
 襲ってくるのはこれまで感じたことのないような倦怠感。糸の切れかけた人形のような覚束ない足取りで、なんとかベッドにまで辿り着く。瑠璃と玻璃が何か言っているけれどそれに耳を貸す余裕は今のわたしにはない。いつもならきちんと揃える靴を脱ぎ散らかし、三つ編みを解く。結んだ時の型を付けたままの髪が、頬に触れた。

 ――息子では、ありません。

 上品ではないけれど気のよさそうな夫婦。奥様が震えた声でそう言って、旦那様の方もラウを見てから首を振った。自分達の息子ではないと。そう、確かな落胆を含んだ声で。それから、ほらルノア。僕じゃなかったよとラウが微笑んで、そして。そして――わたしは『安堵』した。夫婦の言葉が、間違いなく、“嬉しかった”。
 衣服のボタンに手をかけ、一つ一つぎこちなく外していく。早く、少しでも早く、休みたいのに。こんなに疲れてしまっているのに。それなのに体はだるくて、指の動きもいつもよりずっと鈍くて。わざわざ来て頂いていますから、夜も遅いですからと、取って頂いた宿にラウの姿はない。ああ、なんだか寂しいわ。子爵のお屋敷でも別の部屋だったはずなのにどうしてかしら。わたしはもう、寝物語が必要な子供ではないでしょう? そう心の中で茶化してわたしは少しだけ笑ってみる。けれど当然、誰も応えてはくれない。……“嬉しかった”。たまらなく安心して、たまらなく嬉しかった。ラウがどこにも行かないとわかって、わたしは“嬉しかった”。
 それは、おかしいことのはずなのに。

 ――けれど、それがラウの幸せなら、わたしはそれで構わないわ。幸せを願ったらおかしいかしら?

 ええそうよ。そのはずなの。何も間違ってなどいないわ。それが“正しい”のよ。だから、わたしが“嬉しい”なんて感じることはおかしいはずなのに。 ……いいえ、いいえ。それともこれはおかしくなんてないのかしら? わたしは駄々をこねてもいいのかしら?
 ドレスが肩からずり落ちる。衣擦れの音がして、知らない間に黙ってしまった瑠璃と玻璃のぼんぐりを枕元にそっと並べた。

「……瑠璃、玻璃。わたし、おかしいのよ。どうしたらいいのかしら?」
《瑠璃と玻璃が何言ってもー、ルノア聞かないし聞いてないでしょー?》

 剥れたような瑠璃の声。けれどわたしはそれに縋る。体を倒し、ベッドに体を委ねた。三つ編みの型の残った髪がちくちくと肌を刺す。

「だって、わからないの」

 ラウはいつか、きっと彼を待つ人の元に帰ってしまう。そんなことわかっているわ。わかっているの。けれど、わたしは安堵してしまった。ラウがどこにも行かないと、そのことを嬉しいと思ってしまった。ラウがいつか誰かの元に帰ること、その時わたしは身を引くべきことは、正しいとわかっているのに。嬉しいなんておかしいでしょう? 本当ならば悲しむべきで落胆すべきことだったはずでしょう? それなのにどうしてわたしは安心したの? 身体が重たい。苦しい。気持ちが悪い。目を逸らすようにわたしは枕に顔を押し付ける。暗くなった視界の中、枕は陽と樹木の匂いがした。

《……ルノア、瑠璃はねー。瑠璃、別にルノアが感じていることがおかしいなんて言わないよーぉ? 瑠璃もラウに居てほしいしー。でも、瑠璃、何も言わないの。だって、瑠璃が何言ってもルノア聞かないだもん。ルノア聞かなかったもん。だから、瑠璃、もうルノアを止めなーぁい。もう何も言わなーい。ルノアの好きにすればいーよーぉ。ねー、玻璃?》
《はい、姉様。……ルノア様、それでも何があっても傍にいますから。私も、姉様も、子爵様も。誰も、何があってもルノア様を咎めませんから》

 暗い視界の中で瑠璃の声に玻璃が同調する。どこか憐憫を含んだ二匹の助言にわたしは答えが出ないままの感情を心の隅に追いやって、眼を閉じ、疲れた体の力を抜いた。瑠璃の言っていることは“正しい”わ。そして、わたしにとっては“正しくない”の。それが彼女たちの精一杯の言葉だと知っているけれど。
 明日、わたしはラウの顔をまともに見れるかしら。わたしはどうするべきで、どうするべきだったかしら。“嬉しい”と、そう思ってしまったことはいけないことではないのかしら? もっともっと駄々をこねても良かったのかしら? それともそれは、間違った感情なのかしら? 身体が重たい。ラウが居てくれることが嬉しくて、けれど自分が感じた嬉しさが“正しい”のかわからなくて。ねえ、ラウ。わからないわ、わからないのよ、ラウ。

 わたしに独占欲を振りかざす権利があるのかわからなかった。
 そうしても良いのか、わからなかった。
 だからそれを考えることを止めた。後回しに、『保留』する。今回は違ったのだから、と。そう自分に言い聞かせて。

「……ラウ……」

 お願いよ、お願い。お願いだから。子爵の別荘であの晩ラウに言いかけた言葉を、また見失う。すっぽりと抜け落ちて、欠落してしまったように。

 その続きの言葉が、わたしには“わからない”の。

sideラウファ

 知らない匂いのする部屋で、硬いベッドに仰向けに寝転がる。下にいる彼ら――息子がいなくなったという夫婦――はまだ眠っていないのかごそごそと物音が聞こえていた。木目の入った天井が髪の隙間から覗く。明かりを消してちゃんと寝ようとは思うんだけど、一度寝転がってしまうとどうにも身体に力が入らない。布団の誘惑に抗いながら、ぼんやりと木目を数えていると桃色のそれが唐突に視界を覆った。細い目がとても近い。

「……アシェル、どうかした?」

 突然視界に入ってきたアシェルに僕は驚く。僕を見下ろす桃色の子猫はなんだか苛立っているようだけど、僕にはその理由がさっぱりわからない。明かりを消して欲しいのかな。そう思った僕はのそのそと起き上がり、ベッドの横に備え付けられた机の上の蝋燭に手を伸ばす。

《ラウファ》

 蝋燭台に手が触れるか触れないか。呼び止められた指がそこでぴくりと痙攣をおこした。声の発信源を振り返ると、彼女はなんだか難しい顔。えーっと……。

「明かりじゃ、なかった?」
《何(にゃん)で明かりだと思ったのよ?》

 他に思いつかなかったから。そう曖昧に笑って、けれどむっすりとしたままのアシェルに僕はいそいそと体を戻す。ゆらゆら揺れる蝋燭がアシェルの上に僕の影を落とした。えーっと、えーっと。

「アシェル。えっと、じゃあ、何?」
《にゃんでもにゃいのよ》
「……本当に?」
《本当にゃのよ!》

 ならどうしてそんなに苛立った口調なんだろう。何とも言えない居心地の悪さに、けれど“なんでもない”としか答えないアシェル。横に座る僕としては、眠って良いのか悪いのかそれさえもわからない。自分よりもよっぽど小さい子猫相手に完全に委縮しながら、僕は彼女のご機嫌を伺う。

「じゃあ、もう寝る?」
《好きにしたらいいと思うのよ。寝たいにゃら勝手に寝ればいいのよ》
「……怒ってる?」
《怒ってにゃいって言ってるのよ!》

 怒ってない声じゃないと思うんだけど。けれどどうにも対処のしようがない僕は、じゃあ明かり消すよとだけ言って蝋燭を吹き消す。今度はアシェルからの静止はない。ごわごわとした、どちらかというと粗末な部類に入る布団はそれでも僕にとっては十分すぎるほどの寝床だ。寝つきは良い方だから枕を手繰り寄せて目を閉じると、あっという間に眠気が襲ってくる。布団の上を歩く音は、多分、アシェルのもの。

《ラウファ。あにゃた、この部屋が誰のものかわかってにゃいのよ?》
「……聞いてたよ。息子さんの物だって」

 うつらうつらと現実と夢の境を彷徨いながら、僕はアシェルの問いかけに答える。宿を二人分取る余裕はないから二階を使ってほしいと。そうあの夫婦が言ったことくらいちゃんと覚えている。別にそんなに気を使ってもらわなくても良かったのに。ゴトゴトと、まだ下から音が聞こえる。『おとうさん』と『おかあさん』。『僕』にも、誰かいたんだろうか。宿屋ではなくて、こんな風に眠る場所があったのかな。

 『その人』がいるという、絶対的な安心を感じられる場所が。
 何があっても『その人』がいれば大丈夫だという、絶対的な信頼を寄せる人が。

「……ルノア、かなぁ」
《にゃ?》

 アシェルが言った何かは僕の頭にまで入ってこなかった。半分夢の中に浸かりながら、僕は考える。現時点でそれに当てはまるのはルノア……かなあ? ルノアか、なあ。僕より年下の女の子にそう思うのもおかしな話だけど。だけど、森の中で。万緑叢中紅一点。そこだけが、確かに鮮やかに色づいた。
 魔法にかけられたように、麻薬を吸わされたように、思考を全て奪われたように。そこにあったのは舌がしびれるような、快楽。
 もっと欲しいと、そう思わせた。そう思ってしまった。聞き惚れたいと、酔ってしまいたいと、沈んでしまいたいと。

 こんなに綺麗なものが、と。

sideルノア

 日も随分高くなった頃、そろそろ村を出ましょうかとあの御夫婦に挨拶に行って。勧められるがままに椅子に座り、お礼の言葉を述べて。それで。

「はい?」

 きょとんと首を傾げたラウの横で、わたしは確かに戦慄した。
 困ったような視線を投げかけるラウにわたしは何とか綺麗な笑みを作る。あなたの好きにすればいいわ、と。そう言うのが正しいと、そう自分に言い聞かせながら。

 ――このままここで暮らしませんか。

 記憶がないなら、ここでこのまま暮らさないかと。会えるかどうかわからない人を探すなら、これも天の導きかもしれないからと。縋るような彼らの求めているものは、自分の息子の『代替品』。けれど、きっと彼らはラウを蔑ろになんてしないはず。目線を彼らから逸らすわたしに、ラウの膝の上のアシェルがそっと視線を寄越した。どこか剥れたような、苛立ったようなその顔はこういう台詞が彼らから来ることを予想していたよう。わたしはそれに仕方がないわ、と微笑んでみせる。ラウが選ぶことだから、わたしたちは黙っていましょうと。アシェルはそんなわたしをじっと見つめて、ふっと視線を逸らした。苛立った、表情のままで。

「えっと、僕は」

 一人で夫婦に向き合っていたらしいラウが口を開く。やっぱりどこか困ったような表情で。
 けれど言葉だけははっきりと。

「……ラウ」
「何、ルノア」

 行きとは逆に前を行くラウとそれに遅れて歩くわたし。村を離れて三十分ほど、ラウの背中を見ながらわたしはようやく口を開いた。アシェルを肩に乗せたラウが首だけで振り返る。行く時と同じように木々は道にアーチを作っていた。きらきらと揺らぐ木漏れ日は宝石のようで、ラウの上に落とされた影の色はどこか淡い。

「どうして断ったの?」
「何を?」

 ぐるりと今度は身体ごと振り返ったラウが足を止める。ゆっくりとした瞬きが二つ。きょとんと、それは何の話か分からないと言わんばかりに。風が吹いて、ラウの白布と枝葉が揺れた。葉と葉が触れる音が耳を撫でて、そんな彼の表情に少し動揺しながらわたしは言葉を続ける。

「あの村に残っても良かったのよ。あの御夫婦が言ったようにあなたの家族が見つかる保証なんてどこにもないでしょう?」
「だって、僕はあの人たちの子供じゃないのに」

 それは実にあっさりと。何の未練もなく。あの夫婦の前で答えた時と同じように。

 ――僕は、この村の人間じゃないので。

 そうですね……、と明らかに落胆した夫婦の声に、けれどラウは首を傾げるだけだった。どうしてそんな残念そうな顔をするのかわからないと、そう言わんばかりに。そして今も首を傾げている。不思議そうに、どうしてそんなことを聞くの、と。

「だってルノア。僕がいるのはおかしいよ。僕はあの人たちの息子じゃないんだから。だから、どうして誘ってくれているのかわからなかったんだけど。違うの? それに、僕に付いて来いって言ったのはルノアだし」
《……ラウファ、あにゃたって本当に……》

 ラウの言葉に、肩の上で相変わらず難しい顔をしていたアシェルがようやく――それこそぐったりと――脱力する。わたしもまた、ラウの言葉にただただ驚いていた。彼があの夫婦の提案に困っていたのは“是非の二択”でなく、“どうしてそんなことを聞くのか”という一点のみだったらしいのだから。ラウに初めてで会った時の、詰まらないわたしの『命令』を、彼は未だに覚えていてくれているらしいのだから。
 そして無意識に零れるのは、微笑。堪えきれずに口元を手で覆う。おかしくて、おかしくて。

「ルノア?」
「いいえ、いいえ。何でもないわ、ラウ。つまりあなたはまだ、わたしに振り回されたいのかしら?」
「えっ、いや、それは……」

 小首を傾げて、ラウを覗き込むように悪戯っぽく笑って見せると途端にラウの目線が右往左往する。それがどこか間抜けでわたしの笑みは収まらない。ええ、そうね。そうだったわ。どうして忘れていたのかしら? ふわりと心が軽くなる。ええ、そうだわ。ラウならそう答えるに決まっている。彼は“何もわからない”のだから。“どうしてあの夫婦がそんな感情を持ったのかわからない”のだから。『代替品』でも構わないと、きっとそう思った御夫婦。けれどラウには“自分はここの家の人間じゃない”というそれだけの単純な答えがあっただけ。それはきっと、人間として色々と“欠けている”んでしょうけれど。けれど、だから、彼は勝手にどこかへ行ったりなんてしない。

「ねえ、ラウ。明日はわたしに頭のそれを結ばせて頂戴?」
「え? 唐突に何を……嫌だよ。ルノア、変な結び方しようとするから」
「あら? だって可愛かったでしょう?」
「ルノアならね!」

 くすくすと忍び笑いを漏らすわたしに、ラウは嫌そうな顔をして首を振る。そんな彼にわたしはねだる。いつものように、彼が『甘い』と称する声で。

「ねえ、本当に駄目かしら?」
「駄目だってば」

 綺麗な、綺麗な、いきもの。
 無色透明の、何色にも染まっていないわたしの従者。

「本当に? 本当に、駄目なのかしら?」
「…………っう……」

 なんとも言えない表情のまま、俯いて固まるラウにわたしは冗談よ、とからかう。それにラウがほっとした様子で息を吐いて。笑い続けるわたしに、ラウも釣られるように笑みを作った。行きとは逆に、今度手を差し伸ばすのはラウ。わたしはその手に自分の手を重ねる。

「ああ、それにね。ルノア」

 すっと手を引きながら、ラウは照れ笑いを浮かべる。それは“どうして残らなかったのか”の話の続き。木漏れ日が風に踊った。

「僕を『きれい』って言ってくれたのは、ルノアだけだから」

 綺麗で無邪気な笑い顔。彼の言葉にわたしは目を丸くする。そうしてまた、微笑むの。きっと彼ほど綺麗には、笑えないけれど。
 口元を緩めて、目を細めて、少しだけ頬を赤らめて。
 綺麗な星空を見た時のように。
 美味しいお菓子を食べた時のように。
 とっておきの宝物を、見付けた時のように。

 ああ、世界はなんて美しいのかしら。

sideエルグ(ゾロアーク)

 風呂場、書斎、主人の部屋、夫人の部屋、部屋、部屋、部屋……。いくつかの部屋を回り、彼はようやく件の娘の部屋と思われる部屋を引き当てた。尤も、貴族の暮らしに疎いエルグにとってそれは勘に近いのだが。彼にとって部屋の主を見分けるポイントは部屋の調度品や広さ、そして遺された日用品しかない。そして、この部屋の調度品は心なしか少し、幼い気がした。

「肖像画でもあったら一発なんやけど。なんかどれもこれも似たよーなもんに見えるし」

 無遠慮に足を踏み入れ、周りを見回す。勉強部屋だったのか、ベッドの類はなく無駄に広い部屋には机と椅子と暖炉の他にこれでもかという程の本が陳列している。エルグはその量に圧倒されてぽりぽりと頬を掻き、とりあえず、と本棚を巡っていく。子供の身長に合わせたのかエルグの身長の三十センチほど下より上には本がなく、彼が本の背表紙を確認しようと思うなら身を屈めざるを得ない。だが。

「……俺、字ぃ読めんのよなあ……」

 誰に言うでもなく呟き、溜息。人語ならば習得したが文字までは彼の守備範囲外だ。大体、人間でさえ庶民であれば文字を読むことができない者の方が多いと言うのに、獣が文字を覚える道理がどこにある。しかし、それがいくら正論であろうとも現時点で困っているのは自分なのだから振りかざすことはできなかった。ただ、あえて自分の片割れに文句を言うとするならば“俺が頼まれたのは『ルノア』と名乗る少女を調べることやったのに、なんで『セレス』って子供を調べる羽目になってんねん”である。勿論、その『ルノア』を調べるうえで『セレス・ローチェ』の名前が挙がったことには間違いがないのだが、その『セレス・ローチェ』を探して『フェデレ家の一人娘』に行きつくのは想定外も良いところではないか。肩が、ずっしりと重い。

「……それっぽいのー、それっぽいのー」

 疲れ切った声を上げ、膨大な本の中から無作為に本を選びぱらぱらと捲(めく)っていく。黴臭い匂いがツーンと鼻を突いた。活版印刷の整った文字は本来であれば何らかの意味を持つのだろうが、もはや彼の目には黒いシミにしか見えていない。さらに下手に人間の姿になったせいで夜目があまり利かなくなってしまった。挿絵でも入れといてぇな、と内心で毒づき、本棚にあるうちのいくつかの本を確認してから別の本棚に移って本に手を付ける。ふーっと埃を吹き飛ばし、興味もない頁を捲って、読めそうにないことを確認して、元の位置に本を戻して。その退屈極まりない一連の動作を数度繰り返し、彼はようやく手を止めた。

「ん?」

 ぱらり、ぱらり。頁を捲る音が耳に残る。その本には、文字があまり書かれていない代わりにエルグの良く知る生き物たちが描かれていた。

「獣の……なんや、記録みたいな? 辞典? いや、図鑑?」

 随分と読み込まれたらしく所々落書きらしき書き込みがあり、頁の傷みは今までの確認したものよりも激しい。川に棲む獣、森に棲む獣、海に棲む獣、空に棲む獣……。文字に関しては読めないのでわからないが、絵は――あまり見かけない珍しい獣に関しては特に――描き手の想像が入っているのだろう、エルグが知るそれよりも脚色がなされていた。ここ、間違ってるやん。絵の間違いにふんっと鼻で笑って見せる。しかし、次の瞬間。すっ、とエルグの顔から笑みが消え、本棚に目線を移したままの状態で固まった。そしておもむろにその本が置いてあった本棚から数冊、また本を引き抜く。腕を台にしながら頁を捲り、中身を確認。さらに隣の本棚に移動して、先程まで繰り返していた動作と同じ動作を繰り返す。ただし、先程よりもずっと速いペースで。食べこぼしをしたらしくお菓子の滓がページの間に挟まった本。派手にインクを零したらしい本、破れて欠落した頁のある本……。
 彼がその再び本の確認を始めて十分ほど過ぎた頃だろうか。“本棚のいくつかの本を確認する”という動作をすべての本棚でやり終えたところでニッ、とエルグは口元を裂いて笑ってみせた。それは、苦笑にも近く、呆れにも近く、してやられたと言う愉快さから来るものにも近い、失笑。

「……言うほど勉強してへんやん。フェデレ家のお嬢さん?」

 全ての本を確認していないため、断言できないのは重々承知。それでも無作為にこれだけの本を確認すれば十分だろう。ここの本棚にある本はいくつかの本棚を除き、ほとんどが獣に関する図鑑。あの文字ばかりの本だけが勉強道具と考えるならば、これらの図鑑は彼女の趣味と考えるのが妥当だ。彼女は勉強が嫌いだったのか、それともよほど獣に興味があったのか。彼は手に持っていた本を元の位置に戻し、指に付いた埃を払う。

「なるほどなあ。『驚異の部屋』、ってわけか」

 『驚異の部屋』。貴族は趣味でそういう部屋を作ることがあるらしい。珍しい獣の剥製やその獣に関する本、眉唾モノの魔法の道具やら、外(と)つ国の細工やら。異国の珍しいものが詰め込まれたその部屋はそういう名で呼ばれると耳に挟んだことがある。ここはまるで少女のためだけの『驚異の部屋』だ。
 さて、と。念のためにすべての本を確認するのも手ではあるのだが、さすがに骨が折れすぎるし、日が昇ってしまうだろう。文字が読めないので何か有力な手がかりがつかめるとも思えない。彼は本の山を後にし、勉強部屋からそのまま通じている部屋の扉に手を掛ける。大きく窓の開いた部屋で一番に目につくのは厚く埃を被った羽毛のベッド。永らく誰も眠っていないらしいそれに触れてみると絹らしい感触が手に残った。――ここは、寝室。
 勉強部屋から繋がっていたことを考えると少女の部屋で間違いはないだろう。しん、と静まり返った部屋で彼が歩くたびに小さな家鳴りが起こる。ここで眠っていたのは一体誰なのだろうか。
 セレス・ローチェが、フェデレ家の一人娘が、ルノアと名乗った少女が、彼の頭の中でぐるりと廻った。この二人が、いや三人が同一人物であるならそれで済む話だと言うのに、それを裏付ける証拠が見つからない。ポキポキと首を回してエルグはぐるりと一周部屋を見渡し、小さな机と椅子を見付ける。申し訳程度に置かれた木製のそれもやはり永らく主がいた様子はなく、数冊の本とペンとインクがその上で沈黙していた。ふっ、と息を吐き出しエルグはその本を一冊手に持つ。勉強部屋ではなくこちらに持ち込まれたそれは、やはり獣について書かれたものらしく頁ごとに数匹の獣の絵が描かれている。予想通りの展開に彼は溜息を一つ、ぱらぱらと事務的に頁を捲り中身を読み流し、ある頁で彼の手が止まった。

「……なんや、これ……」

 その頁から描かれているのは、昔話に出てくるような、ゾロアークであるエルグ自身さえ知らないような、そんな伝説の中の獣たち。描かれている絵は画家の想像の域を出ているものなどないだろうし、色々な獣の特徴を集めたちぐはぐな合成獣(キメラ)を作ってしまっている絵も混ざっている。そして最後の頁、本の空白に肉筆らしい文字が刻まれていた。先程見た子供の字ではなく、もっと整った――。

「あーくっそ。読めんのがこれほど煩わしぃ感じることないで、ほんまに」

 苛立ちを言葉に変え、彼は別の本に手を付ける。だが、それは正確には本ではない。活版印刷された書籍ではなく、全て肉筆で書かれたそれは、

「にっ、……き? …………やとええんやけど、なにこれ。……もー、俺やだぁ。こんな、なんか、さも見てくださいみたいな? こう、待ってましたよ、みたいな? そんないじらしい置き方やめてぇなぁ。実はトラップとかそんなん勘弁やでえ」

 泣き言を漏らしつつ、彼は読めもしない頁を捲る。だが、眼光が紙背に徹しようともやはり彼にはミミズが頁を這っているようにしか見えないのだ。ぐにゃぐにゃと文字が揺らいでいるようにも見えて、なんだかめまいまで起きてくる。

「……ああもう、この二冊! これとこれ! 『エルグ』に丸投げしたろ。もう俺知らん!」

 涙目になりながら、彼は見たこともない獣が描かれた本と肉筆のそれを脇に抱える。れっきとした盗難だが、後でこっそり返せば問題はないだろう。一旦寝室の窓を開けて本を外に出し、窓を閉めてから今度は入ってきた時と同じ方法で一階から外に出る。それから外に出した本を回収して、やっと彼は安堵の息を吐いた。まだ街が眠っていることを確認し、疲れ切った体を引きずってそっと屋敷を後にする。

 東の空はうっすらと、明るさを滲ませていた。

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2014.7.29  21:59:35    公開
2014.7.30  14:15:10    修正


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