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アクロアイトの鳥籠

著編者 : 森羅

4‐5.シュレディンガーの猫は砂糖菓子の夢を見る

著 : 森羅

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sideルノア

 やっと子爵のお屋敷にまで帰ってきて、重たいドレスを脱いで、一息ついて。その頃にはもう、夜中を回っていた。時計を見てさらに疲れがのしかかる。本当に、子爵の頼みごとなんて聞くものじゃないわ。風通りが良くなるよう窓を開けると、蒸されたような空気が少しだけましになる。二度と子爵の言うことなんて聞かないと心に決めつつ、わたしは燭台の火を消してベッドに潜り込んだ。

「ルノア」

 どれくらい経っていたのか、わたしは知らない。ただ、わたしはその時間違いなく眠っていて、その声を気のせいだと思ったことは間違いなかった。

「ルノア。起きてよ」

 二度目の、良く知った声。一度目は気のせいで済んでも、二度目は違う。ぼんやりとした寝起きの頭のまま体を起こして、ドアの方を見る。寝入ってから何時間経っていたのかわからないけれど辺りはまだ真っ暗で、わたしは手探りで枕元の蝋燭に火をつけた。橙色の光が闇を照らして、けれど視線の先には誰もいない。……あら? 生温い夜風が、腕を撫でた。

「そっちじゃないよ、こっち」

 やっぱり気のせいだったのかしら。そう思って首を傾げて、聞こえた声に首を回す。風が入ってくるよう窓は開けたのは確かだ。けれど、ここは二階なのに。蝋燭の火が風に揺れた。

「ラウ」
「うん」

 レースのカーテンが微風に揺れる。光源は蝋燭の光と傾き始めた月の光。照らしだされるのは当然のように平然とそこに居る姿。にへらと気の抜けたように笑うラウに自然と頬が緩んだ。けれど。

「真夜中に、部屋に入ってくるなんて。何かあったの?」
「え?」

 何色かも知れない羽根が、床に落ちて消えた。わたしの問いかけに、きょとんと首を傾げるラウ。わからないと、そう言いたげに。自分がどうしてここに来たのか、その考えには今及んだと言わんばかりに。あれぇ、と驚いたような声が聞こえた。いつもの白布がないからだろう、いつもより長く見える髪がその仕草に流れる。そんな光景なんて、決して珍しいものではないのに。

「ラウ?」
「うん」

 わたしの声に彼は弾かれたように笑う。にこにこと、嬉しそうに。幼い子供のように。……どこか幻のように。
 それは声をかけなければ、どこかに行ってしまいそうで。

「ラウ」
「どうしたの? ルノア」

 不思議そうに首を傾げる仕草。
 蝋燭に映し出された、無邪気に笑う表情は今にも壊れてしまいそうで。

「ねえ、ルノア」
「……なあに?」
「どうして秘密に近づくのは、愚かなのかな?」

 こちらの話を聞いているのかもわからないそれは、まるで夢の中を彷徨っているようで。
 脈絡のない言葉に、わたしはベッドから出てラウの傍にまで行った。なぜだかとても恐ろしかった。ラウが、消えてしまいそうで。

「ラウ」
「あのね、ルノアあのね」

 ふにゃふにゃと、嬉しそうに。恍惚そうに。わたしを見下ろす彼は、わたしのことなんて、見てはいなかった。どこかずっと遠くを見ていた。

「ラウ!」

 考えるより速く、彼の手首を掴む。力の許す限り握りしめ、必死でその名前を呼ぶ。そうしなければ、消えてしまう。そうしなければ、ラウがどこかに行ってしまう。妙な焦燥感が胸を埋めた。

「ラウ? ラウっ?」
「……そうだ。ルノアが空、歩いてって、言ったんだよ?」

 ふわり、と。ようやく思いついたと言わんばかりに、彼がわたしを見て目を細める。どこか焦点の合わない目で、それでもわたしを見てそう言う。その言葉にゆっくりと手の力を弱めた。胸を埋めるのは安堵。肩の力が抜ける。ベッドの傍に置いてきた蝋燭の橙が、ラウの顔に影を作った。かくん、と一瞬ラウの首が縦に舟を漕ぐ。ともすればそのまま寝入ってしまいそうな……まさか。

「ラウ。あなた、寝ぼけているの……?」
「……んー? そうなの?」
「寝ぼけているのね?」

 とんでもない寝ぼけ方だけれど、それ以外に考えられない。ほう、と息を吐く。目が慣れてきたのか、窓の外に目線を寄越すと空の星が見えた。手首を掴んだまま、とりあえず彼に座るよう言う。何の抵抗もなく従うラウは相変わらずへらへらと笑ったまま。少しだけ見下ろされていた視線はそこでようやく合った。蝋燭の明かりがちらちらと行ったり来たりを繰り返す。

「ルノアぁ」
「なあに?」

 夢と現実を行き来している。そんな表現が正しいような締まらない笑みは、やはり彼をいつもよりもずっと幼く見せる。彼は多分、半分眠っているのだ。幼い声にわたしは微笑んだ。

「……るのあは、るのあじゃないの?」
「え?」

 予想もしなかったその言葉は決して回答を求める質問ではない。きっと彼は朝になればこんなことを言ったことさえ忘れてしまっているに違いない。頭をふらふらさせながらラウはかくんと首を横に曲げる。けれど、“なぜそれが問われたのか”がわたしにはわからなかった。そして彼は、わたしの驚いた顔など見てはいない。

「えへへー。ひみつ」

 満足げな、間延びした声で。彼は自分の膝に額を押し付ける。微睡むような笑みが、こちらを見上げる。けれどそれはわたしを見ているものではない。きっと彼は『ルノア』を見ている。夢の中の、『わたし』を。『わたし』は彼になんて答えたのかしら? そんなこと、知ることはできないけれど。握っていたままだった手を離して、わたしは彼の髪に触れる。ラウがわたしを起こしたのにラウは寝ているなんて、そんなのずるいわ。手の届かないところにいるなんて、そんなの、ひどいわ。くすぐったそうに首を竦めるその生き物は、いつもの良く知った彼ではない。夢と現実と。それは触れられるほど近くて、けれど果てしなく遠い。ひどく、寂しく思った。
 ……ねえ、ラウ。

「ラウ、あのね」

 何か、何か言いたいことがあるはずだった。言わなければ伝わらない彼に。言いたいことがあったはずだった。けれど、それは頭の中に融けてしまって、思考の中に迷子になって。わたし自身、何が言いたかったのか忘れてしまっていた。
 それは、何かがそうさせたように。
 言葉が続かないわたしをラウが曖昧な笑みを浮かべたまま見上げていた。どうしたの、と言いたげに。わたしの声がきちんと聞こえているのか定かではないけれど、わたしはそれに首を振る。しん、とした沈黙が部屋を覆った。微かに感じる体温は空気よりもさらに温(ぬる)い。蝋燭の明かりは届いても、その熱はここまで届かない。

「……ルノア」
「……なあに? ラウ」

 チャコールの瞳を細めるそれは儚い笑い方だと、そう思った。

「ルノアあの、あのね、あのね……」

 ゆるゆると、どこか嬉しそうに、頬を緩ませて。
 頭を起こしたラウが右手をわたしに伸ばす。その動作は、自分のそれに似ていた。

「ルノアに、全部、あげるからね」

 にっこりと笑う、表情。それに被さる小さな疑問の声。それが一体誰のものかなんて、そんなことを熟考する時間はなく、糸の切れた人形のようにもたれ掛ってきた彼の重みが思考を奪った。息の抜ける音が耳元を撫でて、オレンジ色の光は未だゆらゆらと揺れていた。しばらく呆けて、そして、自分の頬に手を触れる。

 彼が伸ばしていた手がわたしに触れたと思ったのは、気のせい。……なのかしら?

sideラウファ

「いや、本当に覚えてないんだよ」

 そんなやり取りを朝から何度しただろう。勿論、状況証拠は十分で、僕自身状況は理解している。……理解してる、けど。

《あにゃたね、あにゃたね》
「だから何も覚えてないんだってば……」

 机の上を陣取り、怒りの形相――といっても残念ながらあまり怖くはないんだけど――で睨み付けてくるアシェルにそう本日何度目かの釈明を返す。本当に、僕は、何も覚えていないんだって。
 朝起きたら、床で寝ていた。ああそうか、昨日の晩も結局ベッドが落ち着かなくて床で寝たんだっけとか考えること十数秒後、そこが自分に割り当てられた部屋と家具の配置がどうも違うことに気づいた。おかしいなと起き上がって、それで。
 ルノアがいた。

「アシェル、それくらいにしてあげたらどうかしら? 当事者のわたしは何も言っていないのだし」
《お嬢様! あにゃたもあにゃたなのよ……!?》

 ぐるり、とアシェルの怒りの矛先がくすくす笑うルノアへと向かう。僕はその間にアシェルの目を盗んで、さっきから食べそこなっている朝食に手を伸ばした。というより、朝ご飯の最中に騒ぐのは多分、あまり良くないことだ思うんだけどなあ。子爵は子爵でなんだか楽しそうに見ているだけで何も言わない。もぐっ、と一口パンを齧る。葡萄の実を生地に混ぜてあるのだと聞いたそれは、確かに甘い。

「だから、言ったでしょう? 寝ぼけたラウが窓から入っていただけだって。それだけよ。ラウはそのまま寝てしまったし、わたしもそのまま寝ただけよ。大体、ここに来るまでにあなたが知ってるだけでも二つ、三つ町があったけれど、全て同室だったでしょう? 何をいまさら言っているのかしら、アシェル」
「おや、そうだったのかい?」

 ぐぬぬっ、と口を閉じるアシェルに茶々を入れるのは子爵。頬杖をついたまま、ルノアと僕を舐めるように見て笑う。僕はその視線と目を合わせないように少しだけそっぽを向いた。昨日も彼と話したけ印象では彼はきっと悪い人ではないのだろうけど。また一切れパンを口に入れる。これ、美味しい。

《ラウファ! あにゃた、にゃんで一人部外者みたいにゃ顔してるのよ……?》
「……ごめん」

 ルノアと子爵には敵わないと思ったのか、いつの間にか僕に矛先が戻っていた。細い目がさらに細くなって吊り上る。怒ってるのよ、と主張するその表情はやっぱり、その……なんというか、怖くない。口の中のものを飲み込んで、僕はただ曖昧に笑う。だってもう、反論は無駄だ。アシェルは何を言っても耳を貸しはしないだろう。なら、聞き流すしか道はない。アシェルが怒り、ルノアと子爵がそれに笑う。もし、もし僕に家族がいるとして、それならば彼らの雰囲気はこんな感じなのだろうか。僕は、こんな日々を過ごしていたんだろうか。いや、そりゃ多分、僕の生活指数から考えてもっと貧しかっただろうけど。
 それでも僕はこの時間を、楽しいと思った。

sideルノア

「アシェル」
《にゃんにゃのよ》

 立つ前に少しだけ話をさせてほしいと言った子爵のせいで、わたしとアシェルは待ちぼうけを食らっていた。しん、と静まり返った部屋でわたしは座っている椅子の背もたれに背中を預けて脱力する。この場所は――たとえ子爵がいるとわかっていても――懐かしくて、落ち着く。ふう、と小さく息を吐いた。

「アシェル。昨晩のことなのだけれど、あなたはラウと同じ部屋だったでしょう? ラウが出て行ったことに気づかなかったの?」

 日当たりのいい絨毯の上で寝転がるアシェルがごろりとこちらを向いて首を振る。知らないと。知らなかったと。リラックスしきっているらしい身体とは別に顔はじっとこちらを見ていた。

《知らにゃいのよ。というより知っていたら止めてるか声をかけてるのよ》
「眠っていて、気づかなかったのかしら? 獣は耳が良いと聞くのだけれど」
《耳はいいのよ? あたしみたいにゃ種族は特に、耳はいいのよ。でも、あたしもひとの街で生きて長いのよ。森で過ごすより他の獣に襲われ辛いし、安全だしで寝てる時は寝ることに専念するようににゃっちゃってるのよ》

 注意を払う必要がないから、安心して深く眠る。他の獣に捕食される恐れがないから、物音を気にせず眠ることに専念する。だから、ラウが出て行ったのは知らない。確かに理には適っているけれど……今はあまり嬉しくない情報ね。尤も、知ったところでどうこう、と言う話ではないのだけれど。無意識に、いつもと同じように括った三つ編みを弄る。

《にゃんでそんにゃこと聞くのよ?》
「いいえ。大したことではないのだけれど。獣のあなたに気づかれないほどなんて、一体どれほど静かにラウは外に出たのかしら、と思って。でも、もうあなたがそんな小さな物音で起きないようにしているならあまり考えない方が良さそうね」

 ふぅん、と鼻を鳴らしたアシェルはまた、ごろりとわたしに背を向けて日向ぼっこの堪能に戻った。その幸せそうな桃色の背中にわたしは少しだけ笑みを零す。けれど少しだけ残る感情の名前は、不安。ゾロアークのエルグから言われた言葉が耳の奥に響く。

 ――こいつの翼、あんまり、使わせん方がええ。こいつを死なせたく……いや“殺したくない”んやったら

 昨晩のラウは、一体、何だったのかしら。ラウは一体、誰な……いいえ。いいえ。わたしは心の中で首を振る。そんな考えは、そんな不安は無意味でしかないわ。ラウはラウだもの。それ以外の何者でもないし、それはわたしが何かすることではないわ。

「ラウは、ラウだわ」

 自分以外の誰にも聞こえないように、そっと、そう反復した。

sideラウファ

「やあやあ、すまないね」
「いえ、いい……ですが……」

 子爵と机を挟んで向かい合って、僕は目のやり場に困っていた。昨日の晩の、あの無礼講な湖のほとりとはまた訳が違う。この人は気にしなくていいと言ったし、常にそう言うだろうけど、それは目上の言。僕は、できる限り小さくなっているしかない。

「いやそんな恐縮しないでくれよ、ラウファ君。おれときみとの仲じゃないか。そんなに時間をかけるつもりもないしね」

 そんな仲になった覚えはないんだけど。
 言葉を返さない僕に、彼は少しだけ笑う。この人は、悪い人ではない。それは分かる。けれど。

「まあ、旅には気を付けて。お嬢さまとだったら退屈しない旅になると思うし、きみなら大丈夫だと思うけど」
「は、あ……。ありがとうございます……?」

 僕が呼び出された意図が良くわからず、僕は首を傾げるしかない。昨日の話は、ルノアには話していないし、問題はないはずなのに。にこにこ笑ったままの子爵が、カップに注がれた琥珀色の液体に手を伸ばす。一方の僕は折角出してもらった紅茶を飲む勇気はない。

「紅茶、飲んでもいいんだよ?」
「えっ……?」
「視線が、紅茶を睨んでたから。心配しなくても毒なんて入ってないさ」
「えっ、いやそんな!?」
「冗談だよ?」

 何かを言いかけた口のまま固まる僕を余所に、飄々としたままカップの中身をすする子爵。この人は、僕の心が読めているんだろうか……。昨日もだけど、子爵はいつも僕の意図を正しく汲む。言葉足らずなその言葉を、発せなかった続きを、きちんと把握してくれる。もしかしたらそれは、人間にとって至極当たり前の動作かもしれないけれど。ぼーっと子爵を眺めていると、またも声。

「別におれはきみに心が読めるわけじゃないけどね」
「……説得力が」

 ないです。
 半ば苦笑いのようになる僕に、彼はカップを置いて大仰に手を広げる。

「いやいや。そんな特殊なことはやってないさ。きみは動作も表情もすごくわかりやすいからね。ああ、勿論悪いことじゃあないよ。素直なのはいいことだ。ただ、そうだね。強いて言うなら……おれは、きみよりもお嬢さまよりもちょっとばかし長く生きている、それだけだよ」

 にっかりと笑う彼につられて、少しだけ笑う。そんなものかと、理解する。すると、子爵はこんな話をしようとしてたんじゃなかった、と呟いて僕に向き直った。

「ラウファ君」
「……はい?」
「きみに、一つだけ謎かけをしよう。いや、謎かけというのは少し語弊があるかな。まあ、いいか。正解は自分で探してごらん」

 意味深な笑みを浮かべて、子爵は角砂糖のポットを手に取る。これから何が起こるのか皆目見当がつかない僕は、ただ黙ってそれの動きを追いかけていた。

「この中には角砂糖が入っている。それはきみも知ってるね。ではこれを一つ、紅茶の中に入れよう。どうなるかな?」
「…………紅茶が、甘くなる……?」

 答えて良いのか少し悩んで、けれど結局答える。それに子爵は一度頷き、また一つ角砂糖を落とした。ぽちゃん、という音と共に琥珀色に溶けていく白い塊。僕はそれを黙ってみる。これが、謎かけ? ふっ、と視線を上にあげると子爵が僕を見て、笑っていた。それは、いつもと違う、間違いでないのなら少し寂しそうな。

「こうやって紅茶に砂糖を入れていく。際限なく、ね。そうしたら一体、最後はどうなるのかな? 最後には何が残るのかな? さあ、これが謎かけだよ、ラウファ君」
「……紅茶が、際限なく甘くなり続ける……?」
「ハズレ」
「溶けなくなって砂糖が残る……?」
「当たり。……だけどハズレ。言ったよ? 謎かけだって。正しい答えが欲しいんじゃない。これはおれの出題の意図を見破らなきゃ」

 カラカラと砂糖のポットを揺らして彼はにやっと笑った。でも、そう言われても困ってしまう。僕は、そういう意図だとか思惑だとかがあんまりよくわからないのだから。紅茶、砂糖。全くつながりがわからない。子爵の意図がわからない。僕には何も“わからない”。首を傾げ、少し考えてみたけれどそれでもわからなかった。僕はさっさと降参を示す。

「わかりません、教えてください」
「いやはや早い降参だ。でも教えてなんてあげないよ? 言っただろ、正解は自分で探してごらんって。人生聞けば教えてもらえる事柄なんてのはほんの一握りだけさ。そうだね、ヒントは……これはたとえ話だ。以上。それ以上はノーヒント。きみが自力で解いてごらん」
「……一生かけてもわからない気がします……」

 全く分からない。紅茶がどうのとか、砂糖がどうのとか言われても、何の事だか。彼が一体どんな意図をもってこの質問をしたのかもわからない。困り果てる僕に、子爵は失笑を漏らす。ぽとん、ぽとんと角砂糖を紅茶の中に落としながら。

「ああ、そうそう。ついでにおせっかいを一つ。おれは彼女に嫌われてるから、心配しなくてもきみの恋敵にはならないよ」
「……は…………………………い?」

 その言葉に、紅茶とか砂糖とかはまるごと吹き飛んで、頭の中が真っ白になった。そんなこと、考えたこともなかった。ゆっくり瞬きを数度。こっ、の人……今、なんて……? ぽかんとする僕を、彼はくすくすと笑う。琥珀色の液体の中に落ちていく角砂糖。けどそれはもう、茶色の液体の中に溶けることができていない。溶けそこなった砂糖は、カップの底に溜まっていた。

「まあ、頑張って。あれはかなりのじゃじゃ馬だけど」

 しばしの沈黙。そして僕は、あらん限りの声で叫ぶ。

「……僕は、僕はそんなこと思ってません――――っ!!」

 ああ、確かにルノアの言う通り。『怖い人』だ。この人は、『怖い人』だ。
 子爵なんて、子爵なんて……嫌いだ!

sideルノア

「ラウが、なんだか泣きそうな怒りそうな変な顔で出てきたけれど、あなた、ラウに何を言ったの?」
「なあに、少し苛めただけさ」

 楽しそうに肩を竦ませる子爵をわたしは睨み付ける。けれど、子爵はそれにひらひらと右手を振るだけ。左手はくるくるとティースプーンで紅茶を混ぜている。さっき色付きの砂糖水を飲んでしまってね、と彼は笑っていたけれど、一体何をしでかしたのかしら? 彼のことだから、碌なことはしていないでしょうけれど。

「そうそう、まだ手紙の類は届いてないんだけど、お嬢さまのことだからきっとうまくやってくれたんだろうね。パーティお疲れ様。助かったよ。おかげでのびのび過ごせた」
「もう二度と出ないから安心して頂戴。それより、早く教えてくれるかしら? わたしは一刻も早くここから出て行きたいの」

 つっけんどんなわたしの言葉に、ひどい言い方だと子爵は苦笑して紅茶を口に含む。茶色の髪が彼の動きに靡いた。けれど、彼は商談に無駄な話を挟む人間ではない。

「つれないなあ。まぁ、いいけど。ラウファ君のことだったよね。いや、確証はないって言ったと思うんだけど、瑠璃玻璃姉妹で思い出した。ラプラスっていうよりもそのボングリを見て、か。王都周辺の集落にボングリの加工をしてる職人たちがいるだろう。きみは知らないかもしれないけど、その技術は東からやって来たものでね、その渡ってきた人間たちが基本的に独占しているんだ。だから流通量が非常に少ない」
「それで?」
「その『東から渡ってきた人間』に彼は似てるんだよ。髪色、瞳の色、肌の色。……確証は取れないって言ったよ? 大体、彼の名前は『ラウファ』だ。東の国の人々もその職人たちもこちらとは別の言葉の名前で呼び合うからね。関係している可能性は五分五分……いや三割五分ってところだろう。でも、この地域で彼みたいな人種はあまり見ないし、いてもあそこまで綺麗な言葉を話すことはできないよ。それこそ、生まれてこの方ここで暮らしていなければ。まっ、そんなところだね。尤も、彼の黒っぽい色っていうのはこの地域で決してありえない色合い、というわけではないからそれこそただの偶然で全く関係のないだけかもしれないけど」

 おれからは以上だよ、と肩の力を抜く子爵にわたしはとりあえず一つ頷いて、自分の紅茶に口を付ける。

「ええ、わかったわ。じゃあ、王都の方へ今度は向かってみようかしら?」
「それは、ラウファ君のため? それともきみのためかな。ルノア」
「……っ」

 じっ、とわたしを見つめる子爵の瞳は穏やかだった。けれど、わたしはそれを一蹴する。紅茶をソーサーに戻し、一切表情を和らげず、告げる。

「あなたに、その名前を呼んでほしくないわ」
「っふ。これは失敬。じゃあ、おれはきみをなんて呼べばいいのかな?」

 にこりと笑う子爵。上目づかいにこちらを見上げ、試すようなその様子はどうしても……腹が立つ。

「あなたがいつも呼んでいるように。それ以外は、認めないわ」
「承知しました。可愛い、可愛いお嬢さま。この情報をどう扱おうときみ次第だよ。前にも言った気がするけど、それが幸福に向かうとは限らないし。ただ、身体には気を付けて、とだけ言わせてもらおうかな。おれは、きみが大好きだからね」

 いつものからかうような笑みではなく、試すような笑みではなく、ただ裏表のない表情。それを、否定するのはどうにも憚られて。

 わたしは、少しだけ子爵に笑った。

side子爵(エレコレ)

 自分の養女とその連れの少年が立ち去って一時間ほど。数名の使用人以外は静かになってしまった屋敷で、彼はソファーに寝転び、一人で物思いにふけっていた。ぎしり、と豪華なクッションの付いたソファーが軋む。空に登る途中の太陽が、窓から差し込む。

「……」

 ぽつり、と彼がつぶやいたのは一体誰の名前だったのだろうか。

「おれは、きみを幸せにしてあげたかったのになあ」

 幸せになって欲しい、と。その言葉は無意味だと『子爵』と名乗る青年は知っていた。だから、何も言わなかった。言わなくて正解だった。何より、彼にはその言葉を言う権利はなかったし、今も与えられていないのだから。……まったく、年齢不相応の娘を持つと、こんなに老け込むものなのかな。彼は失笑を零した。彼は寝転がった体勢のまま、腕を伸ばし、空を掴む。
 どうか、幸せに。それだけが、あの『化け物』に願うこと。青年は少女を知っているから。だから願う。どんな形でもいいから幸せになってほしい、と。尤も、

「きみは今、不幸なんかじゃないんだろうけどね……」

 それを彼は十分に承知していた。彼女は自分を不幸などと思っていないと。そう知っていた。多分、大多数の人が彼女を知れば、きっと彼女を不幸だと言うのだろう。けれどそれは、価値観の問題だ。彼女は自らを不幸などとは欠片も思っていない。

「でもね、お嬢さま。それは、ただの児戯なんだよ。……止める権利は、おれにはないけれど」

 ……まあ、干渉できないくせに、“どんな形でも”と願うくせに、“できれば人並みの幸せを”、と思っている時点でおれも相当駄目なんだろうけど。彼は小さく息を吐いた。
 紅茶の謎かけ、あの少年は解いてくれるだろうか。解いてくれれば、一体どんな行動に出るだろうか。

「もどかしいね。まったく、面倒でしかないよ。まったく、まったく、まったく、まったく。まったくまったく、まったくまったくまったく」

 誰もいない部屋で、彼は哄笑する。まったくこの世はもどかしいと。どんな形でも、と思ったのは間違いだったかと。けれど、それでも。ぴたりと彼は笑うのをやめ、その腕を降ろした。

「……きみは本当に、面倒だよ。セレス」

 少しだけ、最後に笑った少女。
 子爵はそれを思い出して口元を緩めた。

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2014.3.6  02:20:14    公開


■  コメント (2)

※ 色の付いたコメントは、作者自身によるものです。

コメント有難うございます!!!坑さん!!!
はい、こちらでは初めまして。

ににゃっちゃってるのよ!(誤字ってるのかと慌てて確認しに行ったことから目をそむけながら)

コンチャで聞いたような気もしますね……!(きちんと覚えていなくてすみません)キャラのことを好きと言って頂けるのはやはり無茶苦茶嬉しいですーーっ!!本当に有難うございますm(__)m
「ににゃっちゃってるのよ」ににゃっちゃってる威力、恐ろしいのよ……!

ふふっ、「登場人物のだれが何を知っていて何を知らないか」が伝わらないなら良かったですよ(現時点では、ですが……。ネタばらしの際に伝わってなかったら自害するしかないですけどね!) 胡散臭い子爵www確かに彼は胡散臭いですがwwwその発想はなかったです。脇腹つついても多分、答えないと思いますよ!……え?僕?そんなことされたら一瞬で吐きますよ(キリッ(あかん   
もう少々「まったくまったく」と言いながらお待ちいただければ、光栄ですm(__)m
ええ、あせるさんは読者様の味方です。そして、森羅の味方です。彼女というツッコミ役がいるから、物語がぎりぎりのところで破綻していない……(と信じたい)! 改めてあせるさんが好きだと言ってくださって本当にありがとうございます(深々

いえいえ!そんな。コメント有難うございました!!!自由ににゃっちゃっていいのよ!!!
ありがとうございます、精進しますm(__)m
それでは、失礼を。

14.3.9  13:51  -  森羅  (tokeisou)

にゃっちゃってる、ですって。ににゃっちゃってるのよ、ですって。


坑です。確かめてみたら、今までこちらにコメントしたことがなかったみたいです。は、はじめまし……て?

どこかで言ったかもしれませんがアシェルが好きです。今回コメントしようって決めたのは「寝ることに専念するようににゃっちゃってるのよ」って台詞が出てきた瞬間ですね、いやもうほんと。
にゃっちゃってる、の前に一つ「に」があって「ににゃっちゃってる」ってにゃってるのがすごく良いですね! 是非とも耳で聞きたい台詞です。

アシェルのことばかりでコメント欄を埋めたいのもやまやまですがせっかくなので作品のことを。

この、登場人物の誰が何を知ってて何を知らないのか読者に分からせない感じが痺れます。
胡散臭い子爵なんてもう、それこそ彼の(もしくは筆者である森羅さんの)脇腹をつついて全部吐かせたいくらい……! このこの〜つって。こっちがまったく、まったくまったくと言いたくなってしまいます。
そう考えると読者と同じくらいの情報量しか掴めていないであろうアシェルは、読者の味方ですね。またアシェルに戻っちゃった。
もちろん他の登場人物も大好きなのですが、とにかくアシェルがツボでして、にゃにゃにゃっと。

さて、久しぶりに他人様の作品にコメント書いてたら結構自由ににゃっちゃった。
これからも応援していますね!

14.3.9  02:43  -  不明(削除済)  (jigux2)

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