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アクロアイトの鳥籠

著編者 : 森羅

3‐2.悪魔の策略、天使の罠

著 : 森羅

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sideエルグ

「あーもうっ。面倒くさいなあ」

 口の中の飴玉を噛み潰して、エルグはいかにも面倒くさそうな目を往来へと向ける。はあ、と大きく溜息を一つ。手に握った袋から飴玉を一つ取り出し、口の中へ。さっきからこれしか食べていないせいか、だんだん味覚が狂ってきている。だがしかし、これはもう味わうというよりは口さみしさを紛らわすための行為でしかない。

「『エルグ』はうまいことやっとうかなあ……」

 飴玉を転がしながら、彼はすかんと晴れた青空を見上げて片割れを憂う。ここは、地上よりもほんの少し空に近い。強風に家の屋根啼く。だが、それでも彼はぼけーと空を見上げたまま案山子のように動かず、唐茶色の髪だけが風に靡いていた。
 そんなエルグの真上に唐突に生まれるのは、影。エルグはそれにんぁ? と間の抜けた声を上げ、その影の正体に笑った。

「クロ。……『エルグ』、送ったったん?」
《ギギギギギ》
「そーかそーか、ごくろーさん」
《ギギッ》

 四枚の菖蒲色。エルグに影を落とすのは巨大な蝙蝠、クロバット。太陽光をあまり好まない彼にそれだけ聞いて、エルグはボングリで出来たそれを差し出す。しかし、クロバットはそれに納まろうとはしなかった。不思議に思ってクロバットを見るエルグにクロバットは鳴き声で答える。

《ギギギ》
「何? 手伝ってくれるん? それは嬉しいなあ」
《ギっ》

 ぱあっ、と顔を綻ばせるエルグに四枚の翼を羽ばたかせながらクロバットは頷く。クロバットが羽ばたく度にうなじで纏められたそれが風に踊った。
 獣はあまり街で暮らす人々に好まれない。無論街で暮らす獣がいないわけではなく、人々もその存在を容認している。だがそれはあくまで人への実害が少ない小さな獣のことであって、獣が巨大であればあるほど人々はその存在に恐れを抱かざるを得ない。理由は単純。人間にとって獣は脅威であり、害悪をもたらす存在であるからだ。だがしかし、この場所ならそうそう見つかるまい、そう高をくくったエルグはクロバットに続けて話しかける。

「君は『エルグ』と違ってほんまにええやつやなあ。俺、嬉しいわあ」
《ギギギギギギギギギッ!》

 クロバットに対してしみじみとそう呟くエルグ。翼を羽ばたかせ声をあげるクロバットに、エルグはその顔をしかめた。空っぽになってしまった口にまた、飴玉を放り込む。上空は風が強いらしい。棚引く雲は急ぎ足で風に運ばれ飛ばされていく。

「いやー、せやけど、クロ。もう面倒くさくて。だってあれやん? こんな、大勢の人の中から人一人見つけるって結構あれやん? 無茶やん? しかも本当にいるかもわからんのに」
《ギ―》
「『エルグ』の言うことなんて信じるもんやないで? ほんま。あんなん適当に流しとくんが正しいって。こっちの身が持たんて。クロも身に染みて知っとうやん」
《ギギギ》

 ついに屋根に座り込んだエルグの髪を風が攫う。唐茶のそれが光を受けて波打った。菖蒲色の翼も淡い紫を魅せる。エルグは暫くクロバットとにらみ合い――深いため息を一つ吐いた。山積みのマトマに対して響く悲鳴は享楽の声。膝に肘を置き、頬杖をつく。怠そうな瞳が面倒くさそうに街を眺める。そんな怠惰を絵にしたような彼の様子にクロバットは再び鳴き声を上げかけて、

「へえ……!」

 驚嘆を含むエルグの声にその口を塞いだ。セピアの瞳が歓喜に輝く。一点を見つめて動かないエルグにクロバットは微かに鳴き声を上げた。その声にエルグはクロバットへと視線を戻し、笑みを咲かせる。悪巧みを画策した時の様な、そういう類の笑みを。

「『エルグ』の言うことも信じてみるもんやな。……クロ。手伝ってえな。見物と洒落込も」

 クロバットが頷くのを確認してから、エルグは祭りに騒ぐ街を見下ろしてぼそりと言う。

「あーあ。死んでたら、良かったのに」

 エルグの居座る民家の屋根の上、その下では今日一番の催し物が開かれようとしていた。

sideラウファ

「ねえ、ラウ。参加しましょう?」
「嫌だよ」

 ルノアの言葉に僕は全身全霊で抗う。今回こそは、今回こそはルノアのいうことなんて聞いてやるものか。
 固い決意を胸に、ルノアにきっぱりはっきりそう言い切った。けれどそれでもルノアは余裕綽々の笑みを崩さない。いつものように彼女は笑う。綺麗に、優雅に、蕩けるような表情を浮かべたまま。

「あら、どうして? ある人に聞いたのだけれど、とても面白そうなのよ。だからラウ、参加しましょう? お祭りだもの、楽しまなきゃ損だわ」
「見物だけで十分だと思うよ、ルノア」

 珊瑚色をした髪が風に流れる。太陽の日差しがそれを煌めかせ、編まれた三つ編みが肩のあたりで揺れる。僕の反抗を受けてもルノアの笑みは揺らがない。零れるような笑みは、無邪気な子供のようで。

「ラウ、わたしは参加したいのよ」
「じゃあ、一人で言って来ればいいじゃないか。僕はアシェルとここで、待ってるから」
「やあね、ラウ。それじゃ意味がないじゃない」
「……どうして?」

 舌の感覚が麻痺するほど甘い、声。現実味を放棄したそれは、もはや猛毒と言っても差し障りはない。心地良いトーンの言葉が耳に転がり込んで来て、思考をすべて放棄したくなる。これは、毒だ。

「わたしはラウと参加したいんだもの。だめかしら?」
「……だっ、駄目……」

 一言彼女に抗うたびにすさまじい罪悪感が僕を襲う。一言彼女が発するたびに固い決意が見るも無残に崩壊しそうになる。素直に言うこと聞いてしまえ、とルノアの声色がそう囁く。いいや! でも!! 今回こそは! 今日こそは! ルノアの言うことなんて聞いてやるものか!! 自分を奮い立たせ、屈しそうな感情を頭から叩き出す。

「今回は、ルノアが何を言っても、僕は、聞かない!」

 ぐっと胸を張って見せる僕にルノアは唇を尖らせて拗ねた。ラウと一緒に参加したいのに、詰まらないわ、詰まらないわ。頭の中によくよく響いてくるソプラノとその姿に罪悪感という鉛がずっしりと僕にのしかかってきた。

「……どうしてもだめかしら?」
「どうしても!」

 上目づかいに僕を見るルノアの目はどことなく寂しげで、哀れで。じぐじぐと僕の良心とやらに何かが突き刺さる。いいやでも、と口をパクパクさせる僕の手は汗さえかいていた。

「ねえ、ラウ。どうしても?」

 潤んだ声で。良く通る、綺麗な声で。砂糖でできた猛毒が体を巡る。口の中がカラカラで声も出ない僕はぶんぶんと首を縦に振って見せた。屈しない。今回は、今回こそは!!
 “屈した方が楽だ”と“負けるな僕”が頭の中で熾烈な抗争を繰り広げている。微妙に優勢なのは“負けるな自分”。そう! ルノアのいいようにばっかり使われているわけにはいかないんだ! 僕は少し自己主張というものをしなければならない。これは僕に与えられてしかるべき権利だ。じっと、僕とルノアの応酬を眺めていたアシェルが場違いに欠伸した。

「僕は、今回は、ルノアの言うことを聞かないって、決めたから、お祭りには参加しない」
「とても、楽しそうなのに?」

 首を傾げて、少し憂いの含んだヘーゼルの瞳が僕を見上げる。
 僕は、何かとてつもなく悪いことをしているんじゃないだろうか。そんなはずはない……そんなはずはないはずだ! 

「……見てるだけで十分、だと思うよ……」
「でも参加した方がもっと楽しいわ。そうじゃないかしら?」

 とどめの笑顔。ふわりと笑うそれは見るだけなら天使の微笑み。

「でも嫌だからね」

 なんとかルノアの攻撃を躱し、一言。おお、頑張ってるじゃないか僕。僕の台詞にルノアはついに黙ってしまった。……まさか、怒った……? 少し俯き加減に目を逸らし、拗ねたように口を横一文字。そんなルノアの様子に『後悔』という二文字が頭の中を染色していく。え、あの、ルノア……?

「ラウ」
「は、はい」

 顔を上げたルノアは笑っていた。くすり。その表現がよく似合う、悪魔のような凄味を持った、最高の笑みで。

「理由を教えて頂戴?」
「え?」
「参加したくないのでしょう? その理由よ。正当なものだったら認めてあげるわ」

 ルノアの言葉にだらだらだらと汗が止まらない。え、理由? 理由ってそんな、えーと。

「ねえ、ラウ」

 くすくすくすくす、僕の精一杯の抵抗を嘲笑う笑顔。少しだけ背伸びをして、ルノアの真っ白な手が僕の頬に向かって伸びる。触れるか、触れないかのそんな距離。にっこりとそれそれはどこまでも綺麗に、可愛らしく。僕もそれにつられて笑う。とても、とても、ぎこちなく。
 この世に天使や悪魔がいたとして、獲物を捕らえた悪魔はこんな天使のような慈愛に満ちた――憐れむようなとも言う――笑みを浮かべるのだろうか。

「甘いわ。あなた、わたしの行動に反抗しようとすることばっかり考えていて、反抗しなくてもいいようなところで反抗しちゃったんでしょう?」

 図星。

「ねえ、ラウ。参加、するでしょう?」

 ほら、だから無駄な抵抗なんてやめたらよかったのよ。
 
 やれやれと言わんばかりにアシェルがそう呟いた。

sideアシェル

《毎度毎度のことにゃがら、ラウファが可哀想にゃのよ……》

 鼻がひん曲がりそうなほどの刺激臭が辺りを覆っている。匂いがあまりにも強烈過ぎて、むせ返りそうだ。涙を流している人も見るし、悲鳴を上げている声もする。
 祭りの会場は真っ赤に染まり、誰も彼もが服を真っ赤にして、顔を真っ赤にして、その赤い木の実を投げ合っている。少し離れたところでは戦線を離脱したらしい人たちが寄ってたかって水場の水を求めていた。にゃんて、危険な祭りにゃのよ……とあきれ返りつつも、あたしはルノアの腕の中に納まって身動きをしない。

「マトマを投げ合って、当たったらマトマの刺激臭に災厄が逃げるんですって。面白いでしょう? 上手に当たらないと、マトマの汁が滲みて死ぬほど痛いんですって」
《お嬢様、あにゃた、何(にゃに)他人事みたく語ってるのよ……?》

 呆れる。呆れ返る。一周回ってまた呆れる。けれど、案の定お嬢様は余裕の笑みを浮かべるだけ。マトマの実があたしの目の前を何度も横切る。刺激臭に咳とくしゃみの間のようなそれを数度漏らした。真っ赤に染まった街道はまるで血染めのようであまり見ていて気持ちのいいものではない。

「あら、アシェル。だって仕方がないでしょう? これは不可抗力だわ。わたしだってマトマで厄払いをしてほしくないわけではないもの。参加したくて仕方ないわ。でもあなたも見ていたでしょう? わたし、ちゃんと会場を横断したのよ。それなのに、不思議ね。一度も当たらなかったわ」
《……もうそれは強運と言うよりは悪運という方が近いのよ……》

 どうしてこんなにマトマが飛び交っている状況で一度もマトマに当たらずに済むのか。もう頭を抱えるしかない。けれどお嬢様はあたしの苦悩など意に介さず、突然しゃがみこんで、片手にマトマの汁を付ける。

「小さな子供や赤ん坊や老人、参加したくない人にはこうするんですって。確かに少しひりひりするわ」
《ふぅん、にゃのよ……にゃう!》

 ぴりっ、とした痛みが背中に当たった。驚いて身体を痙攣させるあたしに、お嬢様は悪戯っぽく笑う。どうにもマトマの汁が手についたままあたしに障ったらしい。

《にゃ、何(にゃに)するのよ!?》
「だって、折角だもの。アシェルも、と思って」
《せめて何か言ってからにしてほしかったのよ……?》
「ふふふ」

 片手についたマトマを眺めながら楽しそうに笑うお嬢様にあたしはじとりと目を向ける。あたしの言葉を聞いているのかいないのか。……多分、聞いてにゃいのよ。そうしてしばらく。あたしを抱きかかえたまま立ち上がり、お嬢様は会場に踵を返した。

《にゃ? どこに行くのよ?》
「わたしの厄払いは終わったもの。マトマはわたしには当たってくれないみたいだし、少し離れて観覧しましょう?」
《ラウファはどうするのよ?》
「心配しなくてもそのうち帰ってくるわ。きっとマトマで真っ赤になってしまってるでしょうね」

 そう明るく笑うお嬢様に、あたしは心の中でラウファに同情した。

sideラウファ

「うええ」

 ……目に入らなくて良かったと、そう心から思った。
 刺激臭を伴った真っ赤な汁が一張羅に飛び散り、皮膚は焼けるように痛い。“ひりひり”程度では済まされないそれは口の中に入ればきっと二、三日味覚を失うだろう。
 白かったはずの白布から赤いそれが垂れた。腰のあたりで揺れる飾り、その蜂蜜色だったはずの石まで赤い汁がべっとりついている。これはもう、つい声を上げてしまうのも仕方がないと思う。真っ赤に熟れたマトマの嵐から必死に逃れてたどり着いたのはマトマ投げの行われているメイン通にぽっかり口を開けていた路地。特に開催時間の決まっていないらしいこの壮絶なマトマ祭りは、いつ抜けようといつ参加しようと自由のはずだ。ほんの四、五メートル先では未だマトマが原型を失って飛んでいる。心底楽しそうな悲鳴と歓喜の声が奇声となって耳に届く。ぽたぽたとまるで血のように滴るマトマの汁。頬のラインを沿って流れるのも多分、同色のそれ。

「いた、痛い……」

 刺激臭に涙も出てくる。とっさに手で顔を拭うと、マトマの汁が顔全体に掛かって大参事。その刺すような痛みに今度はついに声も出ない。

 ……やっぱりルノアの言うことを聞くと、ひどい目にしかあってない!

 痛みが引いてから――痛みになんとなく慣れてからとも言う――路地を抜けるべく、足を進める。少し遠回りにはなるけどもうあのマトマの中を通り抜ける元気はない。比較的広いはずの通りにしかし人通りは少なく、それは多分街中のほとんどの人が祭り見物に行っているからだろう。路地の壁と化した家々の壁。それに手を突きながら歩くとそのたび赤く染まった白布から丸く雫が落ちた。後ろを振り返れば血痕にも見えるのだろうか。でもそんなことを確認する余裕は正直なかった。

「これ、もう。ちょっと……無理……」

 望んでもいないのにぼろぼろ出てくる涙に視界が歪む。マトマの刺激が強すぎる。真っ赤に染まった腕や手は多分、微妙に腫れていて、会場のすぐ傍に大量の水が置いてあった理由がよくわかった。体力の半分以上を失ってよろよろ歩く僕は多分、傍から見て相当情けない姿をしているだろう。でもそんなこともどうでもいい。人に見られようが、ルノアに笑われようが、アシェルに憐れまれようがどうでもいい。とりあえず水が欲しい。浴びるくらい欲しい。熱が籠った全身の願いは切実だった。

「わー血まみれやん。……マトマやけど」

 訛りの利いた男声が耳に届くけど無視。いつからいたのか気が付かなかったけどとりあえず無視。僕のことを言っているんだろうと予想は立ったけど、そんなことを気にしている余裕は僕にはない。水、水、とりあず水!
 この前は水の中に放り出されて死にかけて、今度はその水が欲しいだなんておかしい状況なんだろうけど、それでも僕はとにもかくにも水が欲しい。一心不乱に歩く僕は、けれどさっきから足が進んでいないことに気が付く。足は動いているはずなのに。

「……?」
「こらこら、人を無視すな。こっちは君に用があんのに」
「あの、今、水が……水……」

 首根っこを掴まれていた。首を少し回すと、涙でぐしゃぐしゃの視界は相手の顔を碌に映さずに輪郭だけを朧に見せる。あの、僕、水が……。
 僕の言葉にはあ、と大きく溜息が聞こえた。僕の襟首を離したらしく、体が前によろめく。そして次の瞬間、僕に向けて降り注ぐのは僕が欲していた冷たいそれ。一瞬、また溺れるかと思った。

「……えっ?」
「ええ感じや、クロ。さて、目ぇ覚めたかな?」

 籠っていた熱が水によって急激に冷却される。意識がなかったわけではないので目が覚める、という言葉はおかしいのだろうけど、水のことしか考えていなかった頭と視界が一発でクリアに。けれど頭が状況についていかない。頭から水を被って、ぽかんとする僕の目の前を木製のバケツを咥えたクロバットがギギギと笑いながら横切る。えっと……。驚いたそのままの表情で僕は後ろを振り返る。……一体何が、何がどうなった!?

「こんにちは」
「……こんにちは?」

 琥珀色の瞳に、唐茶色の髪。よく似た、けれど少し異なる色の組み合わせの男の人が声をかけてくる。きっと身長は僕より頭一つ分高いだろう。唐茶色をした髪は後ろ髪が長く、うなじのあたりでまとめてあるらしい。無遠慮に揺れる尻尾のようなそれがその人の動きに従って、時折背後から踊り出ていた。にっこりと嬉しそうに笑うその表情に僕は全く状況が呑み込めずに首を傾げる。祭りの喧騒が少し遠くで聞こえる。巨大な蝙蝠はいつの間にか彼のすぐ隣で羽ばたいていた。

「うんうん、挨拶は大切やで。いやあ、唐突にごめんな。こっちもうちょっと、ドラマチックというか、劇的というか、もっとなんか盛り上がりそうな演出をな、考えてなかったわけやないんやけど。まあええやろ」
「何が……? いやというか、誰……?」
「……えー? 君、俺が誰かって興味ある? どーでもええやん。そんなこと。そう思わん?」
「え、あの、えっと」

 ぱんっ、と手を合わせてにっこり。唐茶色の髪が楽しそうに彼の背中から顔を覗かせる。けれども僕は何が『そう思わん?』なのだかさっぱりだ。あの港町での奴隷商だか何だかの男が浮かんで、二、三歩後ずさる。クロバットの四枚の翼が個々に羽ばたき風を起こした。ぎしぎしと真上辺りで聞こえるのは風に屋根が軋む音。水にぬれた体が風に冷える。赤く濁った水が、うっすらと紅に染まった白布から垂れた。後ずさった僕に彼は一瞬だけどこか寂しそうな顔をして笑う。

「警戒心は、悪うない」
「あの、僕に何か」
「用があるって言(ゆ)うたやん? 聞いといてえな」
「だから、何の」
「クロ」

 ――用? そう言いかけて、視界に低空で滑空してくるクロバットが映る。こっちの話なんて全く聞いていない。接近してくるクロバットの四枚の翼のうち、一枚がまっすぐに僕を狙っていた。真上に影を作るのは緑青の膜を張った、上の翼。逆光に映るクロバットのシルエットは黒く、空は蒼い。……え?

「なっ」

 現実に引き戻されるような感覚。反射的に体を逸らして、頭を守るように左腕持ち上げる。足にまで脳の伝達は間に合わないようで、上半身を逸らすのが精一杯。左腕、無くなるかも。ぎゅっ、と目を閉じる。暗転する視界の中で響くのは金属音。痛みは、ない。瞼をこじ開け、力任せにクロバットの翼を弾き飛ばす。突然に光を取り戻した両目の視力回復を待たずに後退。光に慣れた視界の端に銀翼が映り、間に合ったと安堵。クロバットは驚愕の表情で追撃を仕掛けてくる様子はない。

「一体何のつも」

 り、は言葉にならなかった。クロバットの後ろ、そこにいたはずの人影はすでにない。慌てて左右を確認。右端に唐茶色の尾が映る。琥珀色の瞳が猟奇的に笑う。あの距離を、いつの間に。その疑問が一秒以下の時間湧いて、それで。

「遅えよ」

 首筋に、衝撃。ゴキッという嫌な音がして、痛みは遅れてやってきた。銀翼が融けて消える。
 そんなことを考えてる場合じゃないと思いつつも意識を失う直前、頭に浮かぶのはルノアの笑み。

 ほら、ルノア。やっぱり、碌なことが……。

「死んでたら、良かったのに」

 何かが、聞こえた気がした。

sideエルグ

「あーもう。気分悪ぃ」
《ギギギ》

 心底嫌そうな顔で、悪態をつくエルグに、クロバットが近寄る。エルグはポケットから飴玉の袋を取り出し、そこから一つ抓んで口の中へ放り込む。甘い味が鼻を抜けた。それから彼はその菖蒲色の胴体を軽く叩き、クロバットを労う。

「クロ。ごくろーさん」
《ギギ》

 満足げな様子のクロバットに彼は口元を緩め、そして下に転がるそれに視線を落とす。右人差し指で彼は困ったように頭を掻いた。唐茶の髪がうなじにぺっとりと噛みついている。

「はあ……。まったくもう……。『エルグ』の阿呆め」
《ギギギ?》
「あ、ほ、うや。あ、ほ、う。『エルグ』みたいなんを阿呆って言うねん、阿呆って」

 自らの片割れを阿呆阿呆と連呼しつつ、彼はその場に屈んで、水にぬれた消し炭色のそれを撫でる。大きく溜息。その目は少し、憐れみを含むようで。

「……死んでたら、良かったのに」

 ああ、いやよくないか、エルグはそんなことを思いながら空を見上げた。

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2013.5.10  12:55:21    公開
2014.5.20  17:45:39    修正


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